【36】その系譜の先に
その日、「王妃」として完全武装したベルタの姿を見て、ルイは、乳母のドレスの影に隠れて引っ込んだ。
「王子。お母さまでございますよ」
「や!」
「お分かりにならないのでしょうか」
「確かに普段とお化粧も違いますけれど」
無理もない。ルイにとって今日の母は見慣れない姿だろうとは思う。何しろベルタ本人でさえ鏡を見てそう思った。
だからと言って、植民地から渡ってきた魔除けのお面を見せた時のような反応をされるのは微妙に傷付く。
「ルイ。こっちを向いてごらん?」
ベルタは試しにルイを突っついてみる。いつものようにルイに笑いかけた口元が、濃くさした口紅のせいでいびつに見えたかもしれない。
ルイは恐る恐る振り返った後、すぐに亀のように首を引っ込めて、乳母によじ登ろうとばたついた。
「んん!やあーのっ」
「あらら。お嫌でございますか」
「本日は王子はお留守番でよろしゅうございましたね」
周囲の女官たちは王子を生暖かく宥めつつ、状況を面白がっていることを隠しきれていない。
「ねえ、やっぱり化粧が濃すぎるんじゃないかしら」
「よろしいのですわ。国民は遠くから王妃殿下のお姿を見るのですから、普段より華やかなお化粧のほうがよろしいかと存じます」
ルイには大不評のようだが、周囲の女官たちの反応を見るに、少なくとも自分たちの仕事に満足げだ。
「それにやはり、今日の衣装の色味には、鮮やかなお化粧のほうが合っております」
「元々ベルタさまははっきりとした色のほうがお似合いですわ。南部では鮮やかな色遣いのお衣装が多くていらしたのに、後宮に入られてから悪目立ちを嫌って淡い色ばかりお召しでしたものね」
「特に緋色は、マルグリットさまに遠慮なさって部分使いも避けて来られました」
今日のベルタが身にまとうのは、公の場では王妃にしか許されない盛装だ。
血よりも濃いような、目の覚める緋色のドレスに、深い紅に染め上げられた美しい毛皮のマント。
緋色は、古い時代には王族にしか許されなかった貴色だ。
時代が下り、昔よりも安価な染料が開発された現在においては、配色にさほどの特別性はなくなった。しかし現在においても公式行事の場などでは伝統的に、王家への敬意を示すために高位の貴族ほど貴色を避ける傾向があった。
今まで公式行事にはほとんど列席しておらず、「第二妃」の地位に甘んじていたカシャ一族の娘が、ついにその出で立ちで公の場に出ることの意味を分からない者はいない。
「私は去年のこの祭りの時期は後宮に引きこもっていたから、マルグリットさまがどんな様子だったか知らない。けれどきっと、さぞお美しかったのでしょうね」
件の事件が起きて、マルグリットが「心身の病」を理由に、王都郊外の離宮に移送されたのが冬の初め頃のことだ。
つくづくこの国の王室は、一人の王に一人の妃という在り方にしか対応していないと思う。ベルタが着ているのは、去年まではマルグリットが着ていた衣装を少し手直ししたものだった。
季節が移り変わり、すっかり春めく時期になったが、毛皮などの大物の発注は当然間に合わなかった。そのため、形式上はあくまで今もまだもう一人の「王妃」であるマルグリットから、その衣装を取り上げるような形になってしまった。
彼女を追い落した地位を乗っ取ることに、今更真新しく罪悪感を覚えることはないものの。
「マルグリットさまのお衣装をもらい受けたというわけではありませんわ。その毛皮のマントは、歴代王妃が身にまとってきた品物です」
そもそもこうした高価な衣装は代に何度も作り直すものではないし、マルグリットの王妃としてのワードローブ自体、大半が先王時代の王妃である王太后からそのまま受け継いだものだと聞いてはいる。
それでもなお、ベルタは時間が許せば全て作り直させたかった。
「マルグリットさまに気兼ねしているわけではないのよ。ただ、彼女と同じ服を着て真正面から比べられるのは、ちょっと不利すぎる。……陛下と並んで一対にあつらえたような、似合いだった正妃と挿げ替えるような説得力が私にあると思う?」
美しさというのは、時に暴力的な正義だ。
ベルタは南部から初めて現王室に入った妃として、そして王子の生母として、常に国民からは一定の人気を得ている。
だがそれも、立場だけで得ている薄い信頼だ。弱い立場から入り、男児を上げつつも側室のような立場に甘んじていたベルタへの同情も多分に含んでいる。
王妃として国王の隣に立つ姿に、貴族は、民は、実際のところ何を思うだろうか。
先の正妃に比べればやはり見劣りするということを、ベルタは卑下するよりも明確に自身の欠点だと捉えている。
そんな主人の心配をよそに、彼女の侍女は満足げな表情のままだ。
「何もご心配はございませんわ。ベルタさまは黒髪の王妃として、堂々と立っていらしてください」
彼女はそう言った後、場を和ませるようにくすりと笑みをこぼした。
「ご不安ならジョハンナさんの様子をご覧くださいな」
「……」
さっきから触れたら面倒そうなので無視していたが、乳母ジョハンナはルイを抱き上げながらもずっと熱烈な視線をベルタに送り続けている。
「お美しいです、ベルタさま。ああ! 群衆の向こうに見るベルタさまのパレードはどれほど素敵でしょう! お留守番が口惜しいですわ」
「ジョハンナは当てにならないわ」
思い返せばジョハンナは初対面の頃から、妙にベルタの容色を気に入っている。浮ついているように見えて実は冷静なはずの彼女が、たまに見せてくる鬱陶しさだ。
「当てにしてくださいませ! ベルタさまのご容姿は、少なくとも私どもにはない長所です。ベルタさまが寄り添われるだけで、国民は陛下のご意思を明確に理解しますわ。国民の大半は、ベルタさまのような南部の民と源流を同じくするペトラ人。自らの出自を重用されて喜ばない者はおりません」
「そういうもの?」
話の内容はさておき彼女の緩急の激しさに驚く。
「そういうものです。保守派の力が大きく削がれた今、現地の民と王家の融和の象徴として、緋色が似合う黒髪の王妃ほど相応しい役者はおりません。貴族連中はともかく、庶民はそうした目で王妃殿下を見ています」
ベルタが口を開こうとした時にちょうど、係の内務官が迎えに宮にやって来た。ハロルドの支度が完了し、様子見に寄越された官吏だろう。
「そろそろ行くわ」
これ以上話していても寄ってたかってベルタを勇気付けるだけの雑談になりそうなので、ベルタはそこで話を切った。
「まあ。やるからには、しっかり王妃をやってくる」
「行ってらっしゃいませ」
「お帰りをお待ちしております」
「楽しんでらしてください」
ルイは結局、一度も顔を上げてくれずにジョハンナの胸にしがみついて固く丸まっていた。ベルタはそっとその背中を撫でて宮を出た。
今日は、この国の民にとって宗教的に最も重要な祭りの日だ。
彼らの神の復活を記念し、春の訪れを寿ぐ祭り。
復活は宗教的な行事であると同時に、若葉の芽吹きに今年の豊穣を願う、原始的な祈りの象徴でもあった。
事実、異教徒の侵攻により宗教的な意味が失われて久しい南部でも、この時期は大きな土着の祭りがいくつも行われていた。
南部の故郷の祭りは荒々しく雑多で、中には祭りなのか暴動なのか判別がつかないような騒ぎまで起こるが、この時期は王都の民もまた熱気では負けてはいなかった。街は常にはない雰囲気に包まれている。
王都の春の祭りは宗教行事になぞらえ、七日七晩続く。
七日間それぞれの日に意味があるらしいのだが、その宗教的な意味まではベルタは把握し切れていない。何日目には決まった菓子を食べ、何日目にはいくつか決まった数の教会を回り、人々は彼らの神に祈りをささげている。
そして祭りの最終日である今日は、民の熱気は最高潮に達する。人々は王都の信仰の象徴でもある大聖堂や、その手前の大広場に詰めかける。最終日に行われる、大聖堂へ向かうパレードには国王陛下のお出ましもあって、それは庶民が国王を間近に見ることができる数少ない機会だった。
国王が国教の宗派を変えたことや、それに伴い大聖堂の名が変わったこと、大陸諸国との宗派対立など、実際のところ民の暮らしや信仰には何ら影響を及ぼしていない。
国や王家がどうなろうと民の暮らしは早々変わらない。彼らは今年も、遠い昔からそうしてきたように春を祝い、歌って騒いで信仰を表明する。
「やはり似合うな」
「やはり、ですか?」
ベルタが控えの間に到着すると、ハロルドは既に支度を終えていた。
盛装を身にまとい、今日は少し化粧もしているらしい国王陛下は、自分のほうがよほど美しいのにベルタの全身を眺めてそう言う。
「緋色を貴色と定めて独占したのは、元々は異教徒侵攻前の前王朝だ。俺はその系譜の血を引いてはいるが、大陸中枢の貴族の形質のほうが濃い。前王朝の王や女王はきっと、俺よりも君やルイに似た容姿だっただろう」
それを意識したことはなかったが、言われてみればそうだ。ハロルドがそれを気にすること自体が少し意外だった。
ベルタは少し未来を想像した。今のハロルドのように成長し、国王として立つ息子ルイの姿。少し大きくなって目鼻立ちもしっかりしてきたルイは、よくハロルドに似ているが、骨格や色素にペトラ人の要素を強く映している。
「だからベルタ、君にその服装は似合って当然だ」
「陛下も良くお似合いです。長くこの国を治められ、その年月だけ緋色の衣を身にまとわれてきた王室の当代として」
彼もまた、ベルタの言葉が少し意外だったようで、珍しい表情をして笑っただけだった。
これから彼と二人、国民の前に立つ。
ルイの生母として公式行事で並んだことはあれど、完全に夫婦として立つのはほとんど初めてのことだ。
祭りの前の高揚と、密かな緊張が場を支配していた。早く出立したいような、一方でもう少し会話を重ねる必要があるような。迷っていると、ハロルドが再度口を開く。
「……ベルタ。君は、これからはこの国の王妃だ」
「はい、陛下」
「我が妃として、これから俺と同じ景色を見てくれるか」
「さあ、それは」
彼が例え話として言葉を並べていることはわかったが、ベルタはその言葉の意味を考えた。
ハロルドと夫婦になったとしても、彼女は大陸中枢の名門貴族の姫でも、この国の女王でもない。南部の娘で、王妃で、そして何よりベルタはベルタだ。
「違う人間なのですから、違う景色も見えましょう。夫婦になるからと言って、全く同じものを見る必要はないかと存じます」
「そういうものか?」
自分たちには話し合いが必要だと、先の夜に彼は言った通り、ベルタの言葉をよく聞いてくれる。
「私の目から見える世界もきっと、陛下のお役に立つでしょう。私は私である責任を、王妃という立場で全うするだけです」
「手厳しい妃殿下だ。俺と君が背負うものの利害が対立したら、君はどうする?」
「そうならないように手を尽くすのが私の仕事です」
共に生きていくということが、どういうことなのかベルタにはまだわからない。わからないなりに彼と本当に分かり合えることを諦めきれないから、本音に近いことも言ってみる。
「なるほどな」
ベルタの返答は、あまり彼が意図するものではなかっただろうが、ハロルドは目を合わせて頷いた。
「俺も手を尽くそう。君とルイのために。そして何より、この国のために」
王であり、ベルタの夫でもある男は、この先彼女に何を望むのだろうか。
彼の望むようになりたいし、同時に彼にも、ベルタの望むように変わってほしいと思う。自分たちが互いの人生に影響を与え合う、かけがえのない存在になるということを、ベルタはもう疑っていなかった。
「それでは、一緒に行こうか」
彼が伸ばした手を、ベルタは躊躇わずに取った。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
ここで一旦話を区切り、第一部完結となります。
次話から時系列が半年後に飛びます。
(連載再開 2019/12/27~)




