【35】親の心
「ああ! あの子が本当に嫁に行ってしまった」
カシャ当主ヴァレリオは、最愛の妻の膝枕でぼやいていた。
大柄で、年齢にしては鍛え上げられた体格の体ごと寝台に投げ出して、彼は細身の妻の節くれだった膝頭を撫でている。
そんな夫を真上から見下ろす妻の顔は、どちらかと言えば冷ややかだ。顔の造作だけみれば彼女は、娘のベルタに二回りほど歳を喰わせたような、よく似た母娘だった。
「何を言っているのだか。あの子はもう二年以上も前に嫁に出しました。あなたが勝手にまだ手元にいると思っていただけよ」
南部最大版図を築き上げた、歴代の太守の中でも最高権力に到達する指導者としての顔は、今この瞬間は見る影もない。
「だがアニタ、おまえだって、当初はあの子の生涯を丸ごと王家にくれてやるとまでは思っていなかっただろう?」
中年のだらしのない姿ほど見苦しいものはないが、私的な空間に限って言えば、ヴァレリオは死ぬまで妻に甘え続けてやると決意している。
彼の最愛の妻、カシャ第一夫人は、そんな年下の夫を甘やかしながら益体もない話に付き合っていた。彼ら夫婦と、ごく近しい一部の使用人には見慣れたいつもの光景だ。
話題は彼らの第一子、既に嫁にも出して独り立ちしたはずのベルタのことだ。
「まあ、そうね。色々あってもどうせそのうちに戻ってくるのではないかと思っていました。……先の行幸で、あの婿どのを見るまではね」
「国王陛下はおまえのお眼鏡に叶ったか?」
妻は、無意味な嫉妬を繰り出して話を混ぜっ返そうとするヴァレリオを、鼻をつまんで黙らせた。
「わたくしではないわ。ベルタのお眼鏡に叶ったのですよ。ベルタは、ルイを連れて南部に逃げ帰ってくるような決断を避けた。あの子自身が、既に婚家の人間としての価値観を内包するようになったのか、それともあの王の目を掻い潜れないと判断して動かなかったのか」
この国の玉座に旨味を見出しているのは何もあちらだけではない。ましてカシャは、正当な第一位王位継承権を持つ王子を得ている。
今回の保守派の不穏な動きを早い段階で察知した時、カシャ側もまた、あわよくばと考えないでもなかった。
もしベルタが本気で逃亡と王子誘拐を決断し、勝算があると判断できれば、ヴァレリオにも動く心算はあった。事実、国家中枢の意識や軍事力が北に向かっている間は、王都は通常時はあり得ない規模で隙が生じていた。
もちろん狙って作った機会ではなかったため、確かに準備は万全ではなかったが、それで怖気づいて千載一遇の機会を逃すようでは南部の指導者は張れない。
ルイ王子の身柄さえ確保してしまえば、後のことは正直後手後手でどうにかなった。外戚として王子を囲う大義名分を並べ立てて時間を稼ぎつつ、王子を南部の価値観の中で育て上げることができたはずだ。
現国王の唯一の王子ルイ。あの赤子が長じて次期君主となることは、この国がそれまでに倒れない限りはほぼ既定路線と見て良いだろう。まごうかたなき直系王族の血と、南部ペトラ人の血を分け合った新しい時代の君主だ。
しかし一方で、ヴァレリオはその赤子の血筋だけをもって信を置くのは危険だと考えている。
彼が育つ環境には、周囲にいくらでも異なる価値観が転がっており、赤子がどの考え方を拾い上げて成長していくのか分からないからだ。
ベルタは確かに息子に愛情を注いで育てるだろうが、その母子関係に南部の行く末すべてを委ねるのは賭けだ。むしろ彼らの関係が密なほど、王子は生母を取り巻く複雑な政治環境を目の当たりにしながら育つことになる。
先般二年ぶりに帰ってきた時の娘ベルタの顔を思い出す。そのベルタの横にいた、彼女の夫の顔も。
「ベルタは、全身で私からの口出しを拒むような、反抗期の子どものような顔をしていたな」
彼女ははっきり言って浮かない顔をしていた。彼女は己の現状について父に何か言われることや、息子ルイにヴァレリオが手を出すようなことを危惧しているようだった。
「正直、帰ってきたあの子の顔を見た時に、あの子の立場を薄々察してはいた」
結局十日近くの屋敷への滞在中、ベルタは父に、世間話以上の会話をろくに許さなかった。
婚家で大切にされているわけでも、ましてや夫に情が移っているというわけでもないだろうに。自分の置かれた境遇に満足しているわけでもないのに、その扱いを受け入れるような子だっただろうか。
「あら。その時点で、ベルタが主導的ではなくてルイ確保が無理筋だと察したのなら、なぜ王都に帰ったあの子からの連絡を待ったの?」
結果的に不発に終わった目論見だったが、踏み込まないなら踏み込まないで、目論見があったことすら察されずに最も早い段階で終わらせておくべきだった。それが分からないヴァレリオではないが。
「……まだあの子が、正妃への対応で国王に見切りをつける可能性もあっただろう。あの優男と私のどちらが家長として頼みになるのか、天秤にかければ分かりそうなものを」
「馬鹿ね。父親が夫に敵うわけがないでしょうに」
娘を失った父親としての感傷に浸っているヴァレリオに対し、妻は手厳しい。
「仮に国王陛下が、それこそ歴史に名を残すような暗愚だったのならベルタも決断が楽だったと思いますよ。けれど一度晩餐を共にした程度のわたくしでもわかる。あれは、伝統王室から取れた君主にしては中々の」
妻が言いたいことはわかる。長きに渡り没交渉だった王室と南部は、互いに多くの情報が欠落していた。ベルタが王室に入るまで、更に言えば先般の国王の行幸まで、その個人としての人となりまでは、遠地からは知りようもなかったのだ。
歴代君主のあり方を鑑みれば元々の期待値が低かったこともあり、南部からの国王への心象は、あの行幸を経て決して悪いものではない。
「それにベルタは元々、婚家で多少思うに任せないことがあるからと言って、実家に泣きつくような可愛げのある娘ではないでしょう」
彼女は実の娘に対してもほどほどに手厳しかった。
「私としては、王家に見切りをつけて逃げ帰ってきてくれるならそれでもよかったのだがな」
「そう思うなら、あの子をそのように育ててしかるべきだったわね」
ヴァレリオは、妻の顔を真下から見上げる。少し背を丸めた彼女とぴったり目が合った。
「そうは言ってもおまえ、あの子がこれまで私たちの思い通りに育ったことがあるか?」
妻は目を丸くして黙り込んだ後にくすくすと笑った。
「それもそうね。わたくしたちの問題児は、全く幾つになっても」
ヴァレリオにとって何よりも大切な妻。今でこそ嫡男クレトが誕生しているものの、彼女との間に儲けた子が長女ベルタのみという時期はとても長かった。
「ベルタは小さい頃からやけに大人ぶりたがって、癇が強くて反抗的な、困った子だった。ずっとあの子は不出来な娘だと思っていたよ」
ベルタ本人は異母妹のグラシエラを指して劇薬と称したが、ヴァレリオに言わせればベルタもまた劇薬に違いなかった。
「あら。あなたにそっくりですよ。情が深いくせに独善的で、なんでも自分の思い通りにしないと気が済まないものだから、あなたたちが衝突するのは同族嫌悪と思って見ていたわ」
気難しくてわがままな娘だったベルタが一転、頼りになる一族の総領姫と周囲から評価されるようになったのは、彼女が十代の半ばで成人一族としての振る舞いが認められるようになった頃だった。
とはいえあの子本人は幼い頃から何も変わっていないのかもしれない。彼女は親が教えるよりも前から、カシャの嫡出子としての矜持を持っていた。
だからこそ、絶対的な当主として立つ父ヴァレリオのやり方にすら疑問を持つ気概も、堂々と父に立ち向かってくる反抗心も幼い頃から兼ね備えていた。
実はベルタとヴァレリオは最近でも、顔を合わせるとすぐに口論になる親子だった。
それを知っている者はあまり多くない上、知っているほど近しい者たちはそれがいわゆる、喧嘩するほど仲が良いというものだと分かっているため、彼らの衝突が問題になることはほとんどない。
ヴァレリオにしてみても、駄目な子ほど可愛いというか、とにかくベルタの反抗に付き合うのも、臆さずに正面から意見を言ってくれる相手が増えることも悪くはなかった。
「ベルタに比べればクレトは百倍も大人しくて良い子だが、少々『良い子』過ぎるのが気になるな。もう少しこう、親の言い分を迎合するだけではない我の強さがほしいところだ」
「それは無理というもの。ベルタが小さい時と今では状況が違うわ。ベルタが小さい頃はあなたもまだ十代の、わたくしに言わせれば子供だった」
妻とヴァレリオとの間には八歳の歳の差がある。今でこそ何ということはない年齢差だが、結婚した当初は十代半ばのまだ成長途中の少年と、二十歳を超えた女性という、まさに大人と子供だった。
「若くてめちゃくちゃだったあなたの時代を知っているベルタはさておき、盤石な大領主としての父上の顔しか知らないクレトは、あなたに反抗はできないわ」
少年だったヴァレリオは手段を選ばなかった。
叔父の後見を退け、十代の半ばに届くか届かないかという年齢で家督を実質的に手中に収め、あらゆる進言を無視して八歳年上の高嶺の花を第一夫人に迎え入れた。
最愛の妻との結婚生活を認めさせ続けるため、妻の生家とカシャとの対立構造を払拭するため、当時のヴァレリオは何も躊躇わなかった。
当主の代替わりでカシャが弱る好機だと仕掛けてくる家はすべて返り討ちにしてやったし、そうしているうちに一族の前例にない南部最大版図を築き上げてしまったことも、その権力の安定のために第二夫人以下を次々娶ったことも、ヴァレリオの中では妻への献身と矛盾してはいなかった。
「あの頃の私は、おまえの愛を得るためにただ夢中だったんだ。それこそ幼い実の娘に呆れられるほど」
「それを言うなら今は余裕で、わたくしの愛の上に胡坐をかいているのね」
妻は憎らしげに膝の上でだらしなく緩んでいる頬をつねるが、ヴァレリオはその手に己の手を重ねてわざと生真面目な顔をした。
「何を言う。私はいつでも、おまえのためにすべて失う覚悟も、すべてを手に入れる覚悟もできている」
アニタは、役者じみた容貌で愛の言葉を囁く夫の顔を見ていた。実年齢よりも若々しいような、惚れた欲目を抜きにしても美しい男だ。
彼は今でも、特段人目を引くほど美人でもない、そろそろ皺も白髪も目立つようになってきた女のことを、最愛の人と愛し続けている。既に彼を疑ったり、卑屈になったりするような時期は過ぎ、ただ穏やかにこの人と日々を重ねていくのだと信じられる。
だが、そうなる前に、自分たち夫婦の間にはたくさんの葛藤があった。
彼女の娘、ベルタも、これからきっとたくさんの葛藤を重ねていくことになるのだろう。
愛されても愛されなくてもきっとあの子は不安だろうと思う。単なる母の勘として、あの王はすぐにベルタを気に入るだろうと感じるが、ベルタが立場の違う相手をどこまで信じられるかはわからない。
だがそれは、それこそ親が知るべきではない二人の話だ。
「……あなたがベルタやクレトのために、どこまであの子たちの行く末に介入しようとするのか、わたくしは少し怖いのよ」
彼はたくさんいる子供たちの中でも、殊更に嫡出の二人を偏愛している。彼はもちろん他の妻たちや、彼女たちが産んだ子らのことも大切にしているが、やはり第一夫人が産んだ嫡出は別格なのだろう。
彼が愛するもののためになりふり構わない時、アニタはいつも少し不安になる。
この人が正常な判断ができるうちはまだ良い。けれど、これから更に歳を取り、彼を止められる人が誰もいなくなってしまったら。ただでさえアニタは夫よりも八歳も年上だ。
「不幸中の幸いは、南部と王家が完全な対立構造には立っていないことだわ」
「そうだな。おそらく、正面から対立することはこの先も得策ではないだろう」
夫は彼女から視線を外して、視線を寝室から見える窓の外に向けた。街中央付近の小高い立地にあるカシャの屋敷の、最上階の窓からは、メセタの街並みが臨む。
アニタにとってもまた、夫は立場の違う男に他ならない。遠くを見つめる彼の視線に、どこまでの景色が映っているのか。ただ人では知りようもない。
「南部が完全に無干渉を貫ける時期は過ぎた。国家の在り方はこれから一つの転換期に入るのだろう。次の時代に生き残るのは、いずれ起こり得る内乱を乗り越えて、あるいは躱して、この変革期を乗り越える国だけだ。……今の時代にある王は、その打つ布石は、国家の行く末を占うことになる」
アニタは、彼の景色を理解しきれないながらも相槌を打った。
「ではあなたは、ルイ王子に手出しをしたりとこれ以上混ぜっ返さず、王妃となるあの子に力添えしてやりなさいな」
「あの子――ベルタこそ、私にとっては最大の不安材料なのだがな」
ああそうだ。彼らは同族嫌悪で今ひとつ互いを信頼しきれない。
「王妃となったベルタにとって、何が一番大切なものになるのか。あの子が抱える激しさが王家の先行きを切り開く起爆剤になるか、それとも王家をとことん内側から蝕むか」
ヴァレリオがその立場に娘を差し出して押し上げたとはいえ、単なるカシャの嫡女であった頃よりも、ベルタの個性は一個人の性情という枠を超えて重要になっている。
「結局、親が育てたようには、子供は育ってくれない。ましてや手元を離れてしまったあの子が、これからどんな風に成長していくのか、楽しみでもあり怖くもあるな」
「いずれにせよ、わたくしたちは寄り添って見守ってやることしかできないわ」
「……そうだな」
今や、彼らの娘はカシャだけではなく、この国家の命運を握るかもしれない場所に立っていた。




