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【32】離宮


 決着の場は、あの離宮だった。


 幼い日にはじめて彼女と出会った場所。

 泣いている従妹姫を笑わせたくて、ハロルドは彼女を遊びに連れ出した。笑った顔はきっと可愛いだろうと思った。



「懐かしいわね。ねえハロルド」


 降り続いた雪がまばらに離宮の庭を染める。マルグリットはその景色の中に一人、立っていた。

 そう言ってハロルドに笑いかける彼女は、優しい笑顔をしていた頃の彼女だった。



 外は軍が包囲した。宮殿内にいた保守派の私兵の制圧も大方完了し、主だった首謀者は捕縛している。


 外交的な後始末を考えれば、表立っては処分し辛い貴族もいる。

 スミュール伯爵とその一族は見せしめの極刑のために生け捕るとして、オットー一族の主要人物は、ここで小競り合いの中での「戦死」をさせるつもりだった。

 生かして連れ帰れば、他国内のオットー本家が手を回してまた一悶着起きるだろう。


 そのオットー当主も先ほど離宮内で縄を打たれてひとまず捕縛されていた。彼はハロルドを見ると口汚く、聞くに耐えない暴言を吐き始めたので、兵士に殴られて昏倒させられていた。



 王族の避暑や静養を目的に建てられた瀟洒な離宮が荒れた場になる中で、正妃マルグリットだけは、誰もその体に手をかけることができなかった。もし王妃が誘拐され、同行させられていただけだという結論が下れば、拘束した方が罪になる。


 彼女が単身でふらふらと離宮の庭に出て行ってしまうのを、周囲の者たちは遠巻きに監視しているといった様子だった。


 ハロルドがその場に到着し、彼女を庭に見つけた時、マルグリットはまるで散歩でもしているかのように軽やかな足取りで雪を踏んでいた。



「あなたは覚えてる?この森で、あなたと走り回ったわ。私は世話係に怒られて、でもそれも楽しかった」


 ハロルドは、周囲を遠巻きに包囲する護衛の動きを制す。

 彼女とゆっくり、二人きりで話ができる機会はこの場が最後だろうと考えた。


「マルグリット。状況は理解しているか?」


 彼女に引きずられないよう注意しながら、冷静に問う。

 そんなハロルドに、マルグリットは少し眉根を寄せた。


「そうよ。アドリアンヌが病気になってしまったの。彼女を助けるためには、早く国に帰らないといけないのよ」


「その必要はない。君たちは本国には帰れない」


「どうして?ハロルド、アドリアンヌはあなたの……」



 ハロルドは彼女がどの程度正気を失っているのか、見極めておきたかった。


 マルグリットを利用した貴族たちは、彼女のこの様子を都合良く扱っただろうが、肝心の彼女本人はどうなのだろうか。


 本当に手遅れなのか。それともまだ。


「マルグリット。アドリアンヌは、君が可愛がっていた侍女だろう。このまま、あの侍女に着せた罪について、君からの申し開きはないままで良いのか?」


 アドリアンヌのことはよく覚えている。あの侍女はハロルドの寝所でも、主人であるマルグリットの名を呼んだ。


 とはいえこの手の揺さぶりがマルグリットに対して有効なのか、ハロルドは知らなかった。

 周囲の人間は己に傅くのが当たり前、彼女は産まれた瞬間からの生粋の姫君だ。


「アドリアンヌはあなたの子を産んでくれるのよ」


「現実を見ないふりをしていられる段階は過ぎた。君が話し合いに応じるのならそれなりの対応をするし、このまま戻ってこないのなら、こちらの都合で全てを処断する」


 ハロルドは、彼女の様子を凝視し続けた。


 この期に及んでマルグリットは美しかった。寒さに少し赤らみ、血色がよく見える顔は、彼女がまだ少女だった頃の面影を思い起こさせる。


 ただ、茫洋としたその視線。その瞳の奥には、経年による言い知れない疲れが滲む。本来の彼女には似つかわしくない闇が映っている。


「頼むよ。マルグリット」


 何もわからないふりをしている彼女と、何を終わらせられる?


 それはハロルドの身勝手な願いに近い。一方で、これからも王家に囲っておかなければならない人物への見極めは、必要な手順でもあった。


 マルグリットは、まばら雪の庭に視線を向け、しばらくそうして黙り込んでいた。


 小さく、絞り出すような声音が、彼女の喉元で震える。



「……あなたはひどい人ね。ハロルド」


 どうとでも取れる言葉。

 ただハロルドは、これを彼女の自白と受け取った。


「私にどうしろと言うの。私は何をしてあげればよかったの」


 マルグリットの語り口は穏やかで、それが余計に、彼女の苦悩の時間の長さを思わせる。


「ねえ、私は、見たくないのよ。あの子供が大きくなるのを見ていたくないの」


 大陸中枢の社会において、高貴な女の義務はただひとつ、家の跡取りを産むことだ。

 彼女たちはその、青すぎる血の不完全な体で妊娠出産を繰り返し、何度の流産を繰り返そうと、たった一人健康な男児が残ればいい。自身さえ産褥で命を落とすこともある。


 マルグリットの背負った運命はもう変わらない。


「私はたくさん、頑張った。精一杯努力したわ」


「知っている。わかっている」


「……私とあなたの間に死んでいった子たちが、もし生きて育っていたらどんな風だったかあなたは考えたことはある?私は、考えない日はないくらい、なのに」


 それはハロルドとマルグリットの間で長年、禁句に近かった。

 ハロルドは黙り込む。その不幸に直面した母親ほどの実感を、自分が分かち合っているとは思えなかった。


「それなのにあなたは。側室すら誰一人として妊娠もさせられずに、それなのにあんな子を産ませてしまって、私たちの先祖を冒涜したのよ」


 ルイが産まれた直後、彼女は一度はその存在を受け入れようとした。

 しかし、やはり目の当たりにしたルイの血統に、彼の中に流れる自分たちとは異なる血に打ちのめされて、おそらく彼女の狂気はそこから始まった。


「あの黒髪の子供が、だんだんあなたに似て育つのでしょう! これからどんどん恐ろしいことが起きるわ。あの子供が全部全部あなたとの大切な思い出を、あなた自身の価値を、真っ黒に塗りつぶしていくのよ。ねえ、そんな王宮に私の居場所がある?」


 彼女は、ルイがたった一人ハロルドの直系男児であるという事実に耐えきれなかった。

 保守派がそんなマルグリットに見せた、惨く甘い幻想を、確かに最初は信じたのかも知れない。


「この離宮であなたと初めて出会ってから、私はずっと幸せだったわ。でも、私はこの国にくるべきではなかった。……こんな、国。もうなんだか、全てがどうでもいいの」


 だが、彼女の様子を見るに、たった今醒めたという風でもない。


 おそらく本人もどこかの段階で、周囲の人間の故意に気がついた。気が付いた上で勝ち目のない茶番に乗った彼女の心境を思う。


「ハロルド。話し合いに応じてくれると言ったわね」


「ああ」


 すべてを諦めたような壮絶なマルグリットの表情には覚えがあって、ハロルドはこの先を予感した。


「私を国に帰して。できないのなら、……ここで罪人として殺してちょうだい。あなたのその手で」


 彼女の教義では自殺も離婚も禁じられている。

 ましてや王妃となるべく育った女にとって、ハロルドが出そうとしている婚姻無効の証文は、あるいは死よりも酷な辱めかもしれなかった。


「あなたの妻として、正しい姿で死にたいの」


 彼女と向き合うことから、ハロルドが目を背け続けた代償はあまりに大きい。

 だがここで、彼女の選んだ答えを受け入れるわけにはいかなかった。



「――どちらもできない相談だ。マルグリット」


 マルグリットが目を丸くして何かを言うよりも早く、ハロルドはたたみ掛ける。


「君は犯した罪の重さを理解しているか?私情により動乱を扇動し、国家を揺るがしかねない謀に加担したんだ」


「それは私の命よりも重い罪かしら」


「神が決め給うその時期を、自ら早めようとする人間の命ほど軽くはないぞ!」


 彼女に、正当な死の言い訳を与えてはいけない。

 緩やかな自殺を図るような彼女を許せない。


「なあ、逃げないでくれマルグリット。君はどんなにつらくても自分の人生から目を背けようとはしなかったはずだ。ずっと、君はこの国の王妃だったし、君は正しかった」


 実際的な話をすると、マルグリットをここで「事故死」させてしまうことの影響を、ハロルドは計りかねている。彼女の生国の出方は常に一貫性を欠いていて、例の無能王の気分次第、もしくはその時政治を左右している宰相の政策次第といった様子だった。


 死なせれば、王妃に惨い死を与えたとしてハロルドを糾弾し、国民感情を煽ってくるかもしれない。だが一方で、このままマルグリットを生かして幽閉しておく方が、後々までの外交問題を起こす引き金となる可能性もある。


「……生きていてくれ。マルグリット。現実から目を背けずに、君の人生を、全うしてほしい。王妃の義務から解放されて、誰も君を傷付けない場所で穏やかに生きてくれないか」


 膨大な数の人間が関わる問題の行く末を、完全に予測するのは難しい。

 何を選択しても最終的にどう転ぶのかわからないのならば、ハロルドは自らの意思を優先したかった。それが彼女にとって、一番の望みではないとしても。


「もう、変わっていくあなたを見ているのも、つらいのよ」


「分かっている。君を置いて違う道に進む俺を、許してくれとは言わない。君にこれ以上酷なことは求めない」


「……私はいつか、あなたの大事なあの子を殺そうとするかもしれないわよ」


 マルグリットもまた、暗闇の底からハロルドに揺さぶりをかけるようにそう言った。


「そんな企みを許すほど、俺は甘い王ではない」


 情に流されて監視の手を緩めたりはしない。マルグリットを、今後の長きに渡り、大切に囲い込んで内からも外からも守り続ける覚悟はできていた。

 生きてこの国の行く末を見続けることが罰だと彼女が言うのなら、ハロルドはその罰を彼女に与える。


「ねえ。殺してくれないのね、本当に」


 涙で潤むマルグリットの視線がまとわりついても、ハロルドは微動だにしなかった。そうして彼女が、ゆっくりと現状を受け入れていくのを待った。


「お別れなのね。ハロルド」



 マルグリットのために、彼女の納得する言葉選びをするために、ハロルドは神経を摩耗していた。


「あなたは私の望みを叶えてくれないで、私にこうしろと、自分の都合だけを押し付けるんだわ」


「ああ」


「……たまには、会いに来てくれる?私を、捨てないでくれるの」


「監視のためだ」


 それ以上の意味で今後彼女に近づくことは、もはや自分のためにも彼女のためにもならないとわかっていた。そしてその実感はマルグリットにもあるだろう。

 二人の蜜月はとうに終わっている。


 彼女と生涯続いていくはずの関係だった。こんな所で終わりを認めることになるとは、ハロルドは少し前まで考えもしなかった。


「わかっているわ。ハロルド、あなたは新しい道を歩む。私には理解できない人たちと」


 マルグリットはもう一度、疲れ切ったように笑った。


「あなたの言い分を受け入れるわ。なんでも言うことを聞く。……だから代わりに、私が生きている代わりに一つだけお願いを聞いて」


「……言ってみろ」


 この期に及んで彼女が何を望むのか。


「アドリアンヌを、どうか許してあげてちょうだい。あの子は優しい子なの、可哀そうな子なのよ。全部私のためだったの」


 それは難しい部類の要求だった。

 状況を鑑みるに、侍女を主犯格として始末し、マルグリットはそれに騙されていたという流れに持っていくのが妥当な減刑方法だ。


 今回のことである程度保守派の膿みを出し切りたいし、懐妊を騙った侍女を許して、例えば懐妊が事実だったということにしてしまうと、保守派の主犯を裁けなくなる。


「お願いよ、ハロルド。アドリアンヌが私のせいで死んでしまったら、そんなのあんまりだわ。あなたは優しい人よ。そんなことをしないと、私に信じさせて」


 アドリアンヌを助けてその命を握ることは、彼女に対する人質として効力を発揮するだろうか。


 マルグリットの真意が掴めず、苦しい見極めだった。そもそも彼女に真意などあるのだろうか。浮き沈みの激しい躁鬱の状態で、かつてのように完全に正気でいるとも思えない。


「……表立っては、この離宮で命を落としたことにする」


「ハロルド!」


 彼女はその日初めて、救われたような色を目に映した。


「アドリアンヌという名前の侍女は死んだ。名前を変えてそばに置くとしても、もし誰かがその事実を利用しようとしたり、君自身が罪を重ねれば、今度は間違いなく真っ先にその侍女を処分する」


「ええ、ええ」


 表立って許すことはできない。死んだとされる人間を生かしておくことは危険が伴うが、この一件の落としどころを探る時、ぎりぎりで許容範囲かと思われた。


 アドリアンヌは離宮内で主犯格として拘束されていたが、かつての面影は見えないほどやつれて痩せ細っていて、そのくせ腹部は、月齢の計算が合わないほど不自然な形にぽっこりと膨らんでいた。後で医者に確認させるが、おそらく想像妊娠の一種だろう。


「ありがとう」


 侍女を救うくらいでマルグリットの心が落ち着いて、彼女が信頼できる側仕えと穏やかに暮らしていけるのならばそれもいい。ハロルドも彼女に対して、強い罪悪感を持ち続けずに済む。


「話はもういいか?」


「ええ」


 ハロルドは、周囲に控える護衛に対して片手を上げて合図した。

 護衛たちは即座に動き出し、今度こそマルグリットの体に手をかけ、捕縛する。



 彼女は、この国の最上位にあった女の最後らしく神妙に、拘束を受け入れた。







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― 新着の感想 ―
なんかハッピーエンドとはいかないでほしいかな 個を徹底して捨てて主人公も王も過ごしてほしい 王子だけは賢王として育ってほしい
[良い点] 「王だから」、「妃だから」、のキャラ付けじゃなくて、いち人間が苦悩しながらその地位に就いている感じがとても好きです。
[一言] 逃げたマルグリッド、捨てたハロルド。どっちが糞と言えるかな。
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