【30】王の側近
この時代、大陸の中枢部――王国から見た北方諸国は、度重なる戦乱や頻繁な天災により疲弊していた。
先の見えない戦争で国土を荒廃させた国もあれば、急激に中央集権化を押し進め、領土を拡大していく国もあった。
混沌の中、やがてそれらの国の中から、新たな国体のあり方を掴みとる国が出現していくのだが、その次の時代の到来にはこれから更に数世代を要する。大陸はまだ、夜明け前の深い暗闇に突入したばかりであった。
一方で、大陸の南端に位置する当国は、比較的その流れの煽りを受けずにいる。
往年の大国としての存在感はいまだ充分だ。
統治体制に前時代の残滓を色濃く残しているが、他国内に見える動きやイデオロギーの変化は、すぐそこにある脅威というわけでもない。
最盛期に比べその勢いを徐々に弱らせながらも、激動の時代に突入した大陸諸国に比べれば、国体はどうにか小康状態を維持し続けていると言えた。
つまり大陸諸国にとって、王国はまさに金の卵を産む鶏だった。
「我が国の軍事力に、真正面から挑む体力のある国は今はない。仕掛けてくるとすれば搦め手だ」
最近のハロルドは独り言が多い。誰に話しかけるでもないが、悩み事が尽きない。
部屋に控えるのは最側近でもある侍従のみで、彼はハロルドが話しかければきちんと聞いていて答えるし、そうでなければ礼儀正しく耳をふさいでいる。
ハロルドへの対応に慣れた気心の知れた男だった。
「だが、首謀者は誰だ?スミュール一族とオットーの本家が関わっているのは間違いがないにしろ、肝心の黒幕が分からないことには狙いも把握し切れない。アドリアンヌの身上も一応調べさせたが、生家はとうに没落した上縁も切れていた」
事が、一貴族が企てる規模の浅いものなのか、それとももっと大惨事となる可能性を孕んでいるのか。
情報が入らないのは、本来同盟国であるはずのマルグリットの生国――ロートラントが、情報源としての機能を失っているからだ。
むしろ、裏で糸を引いているのがほぼ確実にかの国の人間だけに、今やかつての友好国は立派な仮想敵国へと変貌している。
「わからないな。いや、わかっているが。ロートラント現国王は俺の従兄だし、仮に我が国の直系が途絶えるような場合は、おそらくあちらの王族が継承権を主張する」
そもそもこの国の王統も、源流はかの国に由来している。何世代も前に国を分けて家系が枝分かれしているものの、王族同士の近親婚が繰り返されたため、血筋は近く濃い。
ロートラントや、その影響力を受ける形で発展したプロスペロ教会は、未だにハロルド自身のことを公文書では正当な国王と認めていない。
正当な王族がいないとする主張を残した方があちらにとっては都合が良いからだ。
「だが、ルイが産まれたために、黙っていればロートラントに王位が転がり込む芽はほとんど消えた。あるいは国の中枢部が能動的に動いて来る可能性すらあり得る」
思考がそこで止まり、ハロルドは机に広げたままの地図に目を落とした。
現代の勢力図では、あちらと直接は国境を接していないことが、まだ幸いと言えるだろうか。即時に物理的な衝突が起きる可能性は低い。
「難儀ですね。まあ、戦争よりも婚姻で領土を拡大してきた家ですからね。血筋で正当性を争うのはお家芸ですか」
壁際にいた侍従が勝手に話し始めた。ハロルドも慣れているので気にしない。
「どうだかな。厄介なのは、向こうには無能もいれば知謀家もいることだ。敵を見誤ると足元をすくわれる」
「ああ。かの国の王は無能王の二つ名をほしいままにしておられますしね」
ロートラント王。マルグリットの長兄、ハロルドにとっては義兄であり従兄にも当たる男だが、世代も離れているため特に交流はない。
時折手紙のやり取りや、各国からの噂話が届く程度だ。断片的な情報のみでも無能と断じて余りある男ではあるが。
「知謀家は誰を想定しておられますか?」
「最大値を想定すれば宰相だろう」
王が無能でも国は滅ばない。長く続く王朝は土台が固められている。
「……マルグリットを生国に返してやるわけにはいかないな」
既に仮想敵国となった国に、その身柄を渡すことは危険が伴う。あの国でマルグリットが、今度はどんな旗印に使われるかわからない。
ハロルドは視察から戻って一度も、彼女に会っていなかった。
ハロルド自身の暗殺も気にかけなければならない以上、保守派の手が回っている正妃の宮に足を踏み入れるのは躊躇われた。
マルグリットは今、どんな顔をしているだろう。
きっと、最後の流産の後に、彼女の手を離すべきだった。
しかしハロルドのために自らの死を選ぼうとさえした妻に、あの時何ができただろう。
近くに留めて寄り添い、マルグリットが前を向けるまで支えようと思った時は、まだ彼女と心が通じていると思えた。
ハロルドはあの時既に、彼女とは異なる道を進む決意をしていたのに、それが彼女との別離だと気がつかなかった。気がつこうとしなかった。
「ベルタに怒られた。俺を、そんなことする男だと思わなかったと」
彼女の顔に浮かんだ、深い失望と焦燥には覚えがあった。産まれたばかりのルイを抱えてハロルドに強い拒絶を見せた時も、彼女は同じ顔をした。
普段は無表情のベルタが見せる激しい感情の波は、ハロルドを不安にさせる。
自分がしようとしていることこそが間違っているのではないかと自問させられる。
それでも、既に間違いを正せる段階を過ぎてしまっているハロルドは、過去におかした失態の清算から更に逃げるわけにはいかない。
ベルタの名を聞いた侍従は居住まいを正した。
「陛下。カシャ妃に関する定期報告をしてもよろしいですか?」
「ああ」
彼女と揉めてからすっかり足が遠のいてしまっている。代わりに監視の目は強化させていた。
「引き続き宮に籠もられ、目立った動きは見られません。王子の体調が安定した後も妃殿下は王子に付き添われているようですし、警護の加重に警戒する様子もありません」
「……南部と連絡を取るような様子は?」
「ありませんね。王宮に戻られてから妃殿下は筆さえ取られておりません。普段はおそらく、外出させる侍女に手紙を持たせる方法で私信を出しているのでしょうが、宮の全使用人への監視を強化している現状ではそれも可能性として薄いかと」
実は、今回の件で鍵を握るのは保守派よりもむしろ南部の出方であった。
「本当にベルタは何もしていないのか?我々の目を搔い潜る手段の一つや二つ、あれは隠し持っていて不思議はない」
ハロルドにとって最悪の展開は、北方諸国との問題に資源を割いている間に、南部までもが問題を起こしてくることだった。
特に最も警戒するのはベルタの動きだ。
例えば彼女に、外朝の人間の手引によってルイ共々南部へ逃れられたら。例えば、ルイの療養、あるいは身の安全を名目としてでっち上げられれば、正真正銘の外戚に対して強い手段は取りづらくなる。
王子が王宮内にいないほうが都合が良い人間は、派閥を問わず大勢いる。ベルタがその気になれば協力者には困らないだろうと思われた。
今は国内の北部に多く兵を割いているし、発覚が遅れて南部地域まで抜けられてしまうと厄介だ。
南部への挙兵は、土地の地域性を考えると本当に最後の手段だった。
「遠くの北方諸国より、内憂の方が明確に脅威だ。……ルイを押さえられたとして、挙兵に踏み切れるか?最悪の場合、そのままたった一人の王位継承者が南部の外戚の手元で育つことさえ、許容することも視野に入れなければならなくなる」
ベルタの国民人気が高いことも南部と事を構える上では障壁だ。挙兵に際してよほどの正当性を掲げない限り、兵の士気に影響が出る。
何より、そうした小競り合いの渦中に幼い王子を置いて、不慮に命を落とすというような事態さえあり得た。
「ましてやベルタは、ルイを王太子にする野心がない。カシャの真意は掴めないが」
「これはあくまで私見ですが、ベルタさまに関してはもう通常通りの監視で足りるのではないですか?」
ハロルドは、その日はじめて側近に視線を向けた。彼が業務中に個人的な意見を挟んでくることは非常に珍しかったからだ。
それより。
「なぜおまえがベルタを名で呼ぶんだ」
「ああ、申し訳ありません、気をつけます。妻がそう呼ぶものでつい」
側近――セルヒオの妻は、ルイが産まれた時にベルタの宮に送り込んだ女官の一人だった。
「妃殿下は確かに色々と思い悩まれているようですが、陛下が心配されるほど、妃殿下は王家を出し抜くという発想自体を持たれていないかと存じます」
「どういうことだ?」
彼がベルタについて理解しているていで話してくるのが少し癇に障った。
「妃殿下には、自らが王家の人間であるという覚悟と責任感がお有りかと。陛下の意向に逆らって王子を動かすということは、妃殿下のお考えでは是ではないでしょう」
確かにセルヒオは、女官である妻から色々と話を聞いてもいるのだろうが。
ハロルドは、ベルタのことがわからなかった。視察の道中で対話を重ね、それなりに理解し始めたと思ったところで、また一気に距離が開いたよう気がしている。
理性的で物静かな、為政者となるべく育てられた娘。
皮膚の一枚下には嵐のような、生のままの衝動が渦巻く南部の女。
「ベルタは王妃に向いていると思うか?」
投げやりな気持ちになって、ハロルドは苛立ちを隠せないままセルヒオに問う。
マルグリットを実質的には廃する流れの中で、本人の資質に関わらずベルタがその座に付くことは既定路線だった。
これまで、彼女はその立場に相応しい振る舞いをすると思っていたし、重用することで彼女を王家に取り込む目論見もあった。
敵対すれば小賢しく厄介な娘だが、引き入れてハロルドがうまく扱うことができれば、力強い味方になるだろうと。
「向き不向きに関わらず、妃殿下は既に王妃たらんとしておられるように感じます。ご本人が自覚しておられるかは疑問ですが」
セルヒオの私見はハロルドにとっては意外なものだった。
「おまえは感情的なベルタと接していないからそう言う」
「遠くの臣下からこそ見えるものもございます。客観的な状況のみを捉えれば、結果として妃殿下は黙して動かず、お立場として充分な行動しか取られておりません」
なぜセルヒオがベルタに肩入れするのかわからない。
彼は普段、差し出た口を利かない優秀な側近で、ハロルドにとっては最も信頼できる臣下の一人だった。
そのセルヒオが、ハロルドに対し苦言を呈している。
「陛下こそ逆に見失っておられませんか?王妃とは、仮想敵でも有用な臣下のことでもなく、貴方の妻として王族になる女性のことですよ」
「臣下ではなく王族なのだから尚更、彼女に求めることも多くなるのではないか」
「多くを求めるのは自由ですが、年若い妃殿下に理想を押し付け完璧を求められるほど、貴方は酷な方でしたか?」
売り言葉に買い言葉で返答をすべきではない。
ハロルドは、何か言いたくなるのをぐっと堪えて黙り込んだ。
「差し出たことを申し上げました。ご無礼をお許しください」
丁寧に謝罪をしながらも、彼は言い切ったことに後悔はなさそうだった。
振り上げた拳を降ろすのは難しい。ハロルドは会話を放棄し、手振りだけで側近を追い払う。セルヒオはさすがに少し青ざめた顔をしたまま下がっていった。
不興を買う危険を冒してまで苦言を呈してくる側近は貴重だ。
だが付き合いの長い彼をしてここまで言わせるのは、本当に久々のことだった。
そして熟考するまでもなく、セルヒオの言葉の中には一つ、単なる事実が含まれている。
「年若い、か」
本人の資質に、年齢は関係ないとハロルドは思っている。
だが確かに、過去のマルグリットには散々許容してきたことだ。ベルタに対しては僅かな瑕疵さえ許さないという態度に、正しさはあるか。
独り言は誰に聞かれることもなく消えていった。




