【29】後宮と政治
ハロルドが宮に来て、ルイの顔だけ見て帰るというような日々が続いていた。
実は視察から戻った当初、やはりと言うかなんと言うか、ルイは発熱して寝込んでしまった。その時期は宮の誰もが、国王の饗応どころではなかった。
幼児の発熱は珍しくないとはいえ、面会はベルタが拒否した。万が一ハロルドにうつしでもしたら問題が大きくなる。
当番の女官がハロルドに茶くらい出したと思うが、ベルタ自身もルイの看病にかかりきりでしばらく自室にすら戻っていなかったので、そのあたりは定かではない。後から聞いたら、彼は律儀にルイやベルタの様子を事細かに女官に確認してから帰っていたらしい。
ようやくルイの体調も落ち着いて主従が胸を撫で下ろす頃には、ハロルドが頻繁に宮に足を運んでくるというのが常態化していた。
「ルイが病を得たことは私の監督責任です。申し訳ありませんでした」
ベルタは、ハロルドを無視していたことの気まずさもあって一応殊勝に謝罪から入ったが、ハロルドは状況を理解しているらしく責めるようなことは言わなかった。
「いや。元はと言えば、置いては行けなかったとはいえ幼い子を王宮から連れ出したせいだろう。本復してくれて良かった。苦労をかける」
最近は自力歩行できるようになってきたルイに追いかけ回されて楽しそうにしたり、まだ大した意味をなさない幼児の喃語に適当な相槌を打ったり、ハロルドは、ルイが産まれた当初に比べれば随分接し方に慣れてきたようだった。
宮の一歩外に出れば騒がしいのは察していたが、主観的にはルイの体調以外の心配ごとはないまま過ごしていた。
ハロルドも、政局に関わるような話は何もしてこなかった。
宮の警護状況や、特にルイの周りの人員配置について確認し、加重するよう取り計らっていくことはあった。
それは裏を返せば彼が王宮内で何か動いているということの証明だったが、ベルタは何も聞かなかったし、ハロルドもベルタに特別な動きを求めることはなかった。
そうした日々が続いて、冬も深まっていくのかと思っていたある日、ハロルドはいつも通りルイの部屋を訪れている時に唐突に人払いを要求した。
ちょうどルイがお昼寝の時間だったので、寝顔だけ見てすぐに帰っていくかと思っていたベルタは面食らった。
「ルイが目を覚ましたら呼ぶ」
乳母以下の女官たちは、ハロルドの指示にさっさと従っていなくなってしまい、ベルタは手持ち無沙汰にルイの掛布を撫でた。
女官たちが何かを期待しているのは正確に理解しているが、明らかにそういう類の話ではない。
ベルタの今の態度は、外朝となんら関わりを持たない第二妃として、額面通りに考えれば正しいものだ。
しかし、表面的な正しさを盾に取り、本来もっと動くべき人間がそれに気がついているのに動かない、そういう状況はベルタにとってひどく落ち着かない。それは彼女がまさに一番嫌いな人間の態度だった。
「ベルタ。保守派の貴族に気をつけてほしい」
「承知しております。ルイを、彼らに近づけさせはしません」
ハロルドは、ベルタが何もしないのをどう思っているのだろう。こちらが動かないことが彼にとっては都合が良いから黙っているのだろうか。
それとも彼は、妃が外朝の派閥に影響を及ぼして動くという事態を想定していないのかもしれない。少なくとも正妃の運用方法を考えるに、ハロルドが女と政を切り離して考えているだろうことは察せる。
「ルイはもちろんだが。君も特に、スミュールとオットーには注意してほしい。奴らは国内では後がなく、しかし他国に血縁を辿って逃れる道がある。奴らの狙いが掴みきれず、今締め付けを強めている最中だ。追い詰められて何をして来るか分からない」
「スミュール伯爵家は分かりますが、オットーですか?陛下が侍従を取られている家ではございませんか。……けれど、ああ、もしや監視の意味合いで」
ハロルドが保守派を切り捨てる前提で話していることへの動揺を隠しながら、ベルタは会話を続けた。
外朝の動きを見ていても、彼は大きく動く様子を見せておらず、その真意をベルタは今の今まで掴めていなかった。
「それもある。オットーは国内では地位こそ低いが、他国にある本家筋には力もあって保守派内では幅をきかせている。当主はともかく、跡取りがどこまで染まっているのか見たかったのと、人質としても押さえておきたかった」
その目論見の結果はベルタも知るところだろう。
彼ら、アンリとジョエルは国王への忠誠心だけは強い愚直な少年で、オットー子爵のように他国と繋がるほど擦れてはいなかった。
保守派の考え方には染まりきって、侍従の中ではいささか浮いていたし、片方はそれに気が付かないほど周りが見えていなかったが。
「今はアンリ・オットーの謹慎を一時的に解き、子爵家に返している。視察での一件を強く処罰するには時機が悪く、すまない」
「私に異存はありません。元々、あまり表立っては処罰しかねる問題ですし」
本気で罪に問おうとすれば色々厄介だし、第二妃が国王の側近に軽んじられていることが大々的に明らかになるのも問題だ。
「アンリのことは承知しましたが、ジョエルのほうは今も陛下がそばに置かれているのですか?」
保守派と事を構えるつもりなら普通に危険ではないだろうかと思って聞く。あの少年が、父親に命じられたからと言ってハロルドを害するような、そこまで大それた行動を起こすとは想像しにくいとはいえ。
「さすがに他に護衛がいないような場面では使わないがな。側近たちがうまくあしらっている」
その辺りは、さすがに門外漢のベルタがこれ以上口を挟むことではないかと思われた。
代わりにベルタは、真っ赤になって恋心を否定していたジョエルの顔を思い出していた。
「ジョエルに、試しに生家を裏切らせてみてはいかがですか」
「……あれが間諜として使えるか?」
「間諜ほどの働きは期待できなくとも、何も知らずおそばで呆けさせておくよりは役立ちましょう。うまくいけば駒として残しておくこともできます。そうでなくて元々、最低限保守派の動きをはかる物差し程度には使えるかと」
こちらの手の内をすべて明かす必要はない。事実を匂わせれば正義感で自分から生家と揉めてくれるだろうし、本人は隠しているつもりで顔に出る。うまく扱う必要はあるが、扱いやすい相手ではある。
そのようなことをハロルドに伝えると、彼は少し考え込む様子を見せた。
「確かに、奴らの狙いに早いところ当たりを付けておきたいし、手は多いほうが良い」
大胆な一手に出て裏では何を企てているのか。既にハロルドが、侍女の懐妊の話に懐疑的な態度を示している中で、保守派が焦った様子もなく、ある種淡々と主張を曲げないのは確かに不気味だという。
「だがベルタ、いいのか?ジョエルも君に散々な態度を取っただろう」
ベルタはきょとんとした。
「私は別に。一々気にしていたらきりがありません」
ベルタの反応に、ハロルドは少し困ったような顔をした。
「そうして不都合に耐えられてしまうと、視察での一件のように俺は、問題が起きるまで気がつかずに放置することになってしまう。君の環境を守るためにも言える範囲のことは言ってくれ」
まさか彼は、ベルタがこの王宮で色々な不都合に目をつぶって暮らしているのを、一々耐え難きに耐えていると思っているのだろうか。
それは無理がある。中傷をひとつひとつ真面目に取り合って問題と捉えていたら、この王宮でベルタにとって問題の発生していない日はない。
「陛下。お言葉を返すようですが、不都合を呑み込んで受け流さずには、私はこの後宮で生活することができません。恐れながら、旧国教徒の方々から見れば第二妃とは情婦と区別もつかぬ存在。ルイが、そもそも陛下の庶子であるとの言説も飛び交っているようですし、そのことは陛下もご存知のことと思います」
ベルタが基本的に沈黙を選択しているのは、ベルタの立場から何かを訴えようとすれば必然的に正妃の派閥に言及することになってしまうからだ。
それを考えれば、今この環境下でほぼ初めてプロスペロ教会の教義について言及するのは、悪手でしかない気がしてきた。
だが今言えと言ってきたのは彼本人だ。視察に出る前のハロルドには通じなかったであろう話題でもある。
「陛下におかれましては、南部の文化における多妻制の意義をご理解くださっているという前提で申し上げております」
彼は少なくとも、王室法を書き換えて形式的にはベルタを妃として召し上げた。そして南部において父の妻たちが、等しくカシャの一族として扱われているのを見たはずだ。
ベルタは言葉を切って、ハロルドの表情を伺った。彼はいつものように、多少の罪悪感にまみれた顔でベルタを見おろしているだけかと思った。それでこの話は終わるだろうとも。
しかし、彼は無表情に近い思案顔だった。
「知識としてはあったし、理解しているつもりだった。理解し、その文化に乗ろうと試みて第二妃として君を入れた。……だが、確かに当初想定していたより王宮内の反発は緩まなかったな。産まれてしまった王子の正当性を否定したい層と、教会が結びついてしまったのが予想外か」
個人としての自らを切り離すように話す姿を、ベルタはあまり見たことがなかった。
国王という立場から、第二妃の存在をはかるハロルド。目の前の妃のことは視野の外に、どうやら政の話をしているらしい。
「だが、そもそも利用しておいてなんだが、多妻制自体に疑問は残る。それ自体、元は異教徒の文化であって、ペトラ人固有のものではないだろう。大局的に見れば今後南部でも廃れていく風習ではないのか」
今更それを言うか。それは第二妃を正式に側室に格下げするという仄めかしだろうか。
とはいえ、今はそういう次元の感想を求められているのではないとわかっていたので、ベルタは自身の見解を述べた。
「潮流までは、存じませんが。少なくとも父は、妹たちには一対一の結婚しか認めておりません。南部に異教の文化が残ったのは、戦乱で土地が荒れ、家財を守るため、家として生き残るためには一夫多妻制が都合が良かったからだとも言われています」
「必要に迫られて残った文化というわけか。カシャどのが多くの妻を娶ったのも、若くして家督を継いだ立場の安定をはかるためだろうな。それにより、結果として南部の盟主としての地位を揺るぎないものとした」
「左様にございます。カシャの母たちは皆南部の有力諸侯の娘です」
ベルタの父は本当に若くして、十五歳の頃には家督を継がざるを得ない状況に陥った。代々カシャは南部最大規模の一族ではあったが、父が家を継いだ当初は現在ほどの影響力を有してはいなかった。
それを押し上げたのはひとえに父の功績だ。そしてその大きな背景として、有力な妻たちとの婚姻を最大限利用した事実がある。
ハロルドもある意味、父と同様の方策を試みようとしたのかもしれない。
だが王室においては南部のような文化への理解が薄く、彼自身も複数の妻を使いこなせるほど器用ではなかった。
何より彼自身がその精神の根幹に旧国教の教えを根ざしている。
この王宮で生きていくためには、ベルタは色々なものを諦めなければならない。彼女はそれに納得できる。そう故郷で決めてきた。
「ベルタ」
「……はい」
ハロルドが次に口にする言葉をベルタは予想したが、生憎今日はことごとく予想が外れる日のようだ。
「第二、という順位付けが良くないと思うんだ。第二妃の呼称を撤廃し、ただ『王妃』と、君のことを今後は誰もがそう呼ぶようにしたいと思う」
「は、」
話の展開に置いていかれたベルタをよそに、ハロルドは淡々と言葉を続けた。
「そのためには今後根回しと、地ならしが必要だ。ひとまず件の侍女の問題が解決しないことには動けないが。マルグリットのこともある」
今の話題とハロルドが言い出した結論は、繋がっていただろうか。流れからして王家の多妻制を撤廃するという話ではなかったか。
「だからしばらく待っていてほしい。君はこの件に関して何もしなくていい。ただルイを守って、ここにいてほしい」
「……陛下は、正妃さまのこと、どうなさるおつもりですか」
彼はしばらく沈黙したのち、答えた。
「今は、マルグリットに今回の責を負わせる形で動いている」
嘘だと思った。あり得ない。ハロルドが、あの正妃を切り捨てる?
「あなたは、そんなことはなさらない方だと」
「致し方ない。今後も王妃の名を利用され続けては、国が揺れる。どういう形であれ、マルグリットは実権から遠ざける」
「なんてこと。……そのために、お身内を、遠ざけてまで」
ベルタは彼を、それなりに誠実な人だと思っていた。その誠実さがベルタには向かないだけで。
共に育ち、妻となった女を切り捨てる選択肢があり得るという事実は、ベルタにその根底から彼の人格を疑わせた。
たとえ次にすげ替えられるのが自分だとしても、嬉しいはずがあるだろうか。ベルタなど、彼にとっては正妃より更に躊躇いもなく使い潰せる存在だ。
「正妃さまは、陛下にとっては家族ではないのですか?」
血の気が引いているのを自覚した。冷えて震えそうな指で、眠るルイの掛布を掴む。
ルイを確かな王位に付けたいと、ハロルドが視察で話したことを思い出していた。
「ルイは。ルイを王にすることが、そこまで大切ですか」
ベルタは嫌だ。王とはそこまでしなければならないのか。そんな冷たい、孤独な玉座に、何より大切なこの子を向かわせなければならないのか。
「……あなたの、ご自分の幸せを投げ打ってまで、守り抜く玉座を、この子に与えたいですか。外朝の声は一つの事実です。混血の、弱い王子などより、……この子の弟なり」
「ルイを次の王にする。その考えは変わらない。この子が、産まれるとわかった瞬間からだ」
ベルタは俯いていて、彼の表情は見えない。けれど、その声音は強いものだった。
ルイを抱きしめようと手を伸ばした。
ベルタの指先は冷えて温度をなくしていて、それに驚いたルイは起き抜けに弾かれたような泣き声を上げてしまった。
泣き声とルイの暴れる物音で、今にも女官たちが部屋に入って来るだろう。
「……また来る」
仕切り直してこれ以上ハロルドを問い詰める気にはなれなかった。ベルタは無言のまま、寝起きのルイに気を取られるふりをして彼を見送った。
そうして途方に暮れていた。




