【25】初動
王都の市街を通り、表の王宮に達して、住まいの後宮に戻るために王宮の深部へ向かって歩いていたところだった。
隣には、同じく王宮の奥の執務室に戻るであろうハロルドがいたが、彼もまた王宮が常とは違って騒がしく、どこか浮足立っている雰囲気に違和感を覚えているような浮かない顔をしていた。
不在にしていた国王が帰還し、多少は普段と違って不思議はないが、どうもそれだけではない雰囲気だ。
疑問はすぐに、王の執務室付近で待ち構えていた保守派の貴族によって解消された。
「マルグリット妃殿下の元侍女であります、アドリアンヌさまがご懐妊あそばされました」
「それは……」
ベルタは弾みで口を開きかけたが、勝ち誇ったような顔でベルタを睨めつける保守派貴族の手前、明確な言及を避けた。
ちらりと横で同じ報告を聞いていたハロルドの顔を見るが、彼もまるで初めて聞いたような反応で、まだこの報告を噛み砕いて驚きを表現する一歩手前といった様子だった。
彼の立場では、その知らせはどういう意味をもっているのだろうか。観察していても、すぐには真意はわかりそうにない。
「それでは、私は宮に戻りますので」
ベルタは居心地の悪い外朝をさっさと辞して自分の宮に引っ込むため、ハロルドに手短な辞去の挨拶をした。
「ああ。……長の公務ご苦労だった」
二ヶ月ぶりに戻ったベルタの宮は、冬の訪れによってどこか寒々しかったが、留守居をしていた女官や侍女たちによって手入れは完璧だった。
もちろん彼女たちは、ベルタが欲しがるだろう情報を手に入れていた。
「まあ、懐妊は狂言かと思われます」
「十中八九嘘でございましょう」
彼女たちのあまりに身も蓋もない物言いに、久しぶりに接してベルタは少し動揺した。二ヶ月もハロルドやその周囲の人間と常に共に行動していたので、持って回った言い方をする癖がついていた。
「件の侍女は今どうしているの?」
「正妃の派閥が囲い込んでおります。懐妊が発覚してから一度も表には出てきておりません」
「正妃の宮に姿があるのは、アドリアンヌの顔を知っていた女官が確認いたしました」
その点は懐妊が事実か否かに関わらず、正妃はそうするだろうと思われた。実際ベルタもルイを懐妊していた間は、不慮の事故を警戒して滅多なことでは宮から外に出なかった。
「それで、あなたたちが懐妊を嘘だと感じる根拠は」
「ベルタさまのご出産を介助した御典医たちが解雇され、王宮内から姿を消しました。代わりに正妃の宮に詰めている医師に関しては調査させておりますが、どうやら正妃の生国あたりの出身のようです」
「外朝の動きもおかしいですわ。通常、妃の懐妊情報はかなり時差があってから表に出回ります。けれど今回は後宮内に噂が出るか出ないかのうちに、一気に広まりました。火付け役がいるはずです」
それに、これほど王宮内で広まっているのに、誰もハロルドに知らせる早馬を走らせなかったのはおかしい。先程の様子を見る限り、ハロルドも明らかにあの場で初めてそれを知ったらしかった。
本来なら真っ先に王に伝えたい慶事のはずだ。ハロルド本人の介入すら防いで一気に王宮の大勢を掴もうとする派閥の仕業か。だが、ハロルドはそこまで王宮を野放しにして二ヶ月も不在にするだろうか。
ベルタが思案に暮れていると、一度城下の家に下がらせていた乳母ジョハンナが鼻息荒く登城してきた。二ヶ月ぶりの家族水入らずのために、二日ほど休暇を出していたのだが。
「ベルタさま。嘘にございました」
「ジョハンナ、落ち着いて」
この子は南部出身の侍女たちより更に、言質を取られるという感覚がないのだろうか。
一度落ち着かせたジョハンナに宮の奥、ベルタの私室で話を聞くには、彼女は留守居の女官たちが集めていたような情報と、そしてもう一つ新しい情報をもたらした。
「主導しているのは正妃さまというより、女官長スミュール伯爵夫人のようです。女官長の夫はいわゆる保守派貴族の急先鋒ですが、最近動きが激しいようで、当シュルデ家にはさすがにお声がけはないようですが、親族の中にはあちらの派閥から打診があった家もございました」
「女官長ね。ああ、そうか」
正妃マルグリットには既に、このような大規模な企みを主導する気力や采配をとる能力はないかも知れない。
一方で彼女に同情もしきれない。自身の派閥の者を抑えておけないのは、本人の責任に他ならない。
「アドリアンヌの懐妊自体が嘘か、それとも陛下の御子でない子を懐妊しているのかは定かではありませんが、少なくとも後ろ暗い意図があるのは明らかです」
「けれど事実が明らかであろうと、あちらの派閥の勢いが強すぎます。この後宮では正妃がそう言えば黒いものも白くなってしまいます。ましてや、陛下がこの問題にどう出られるか」
「ベルタさま。動かれるならば事態がこれ以上大きくなる前に、迅速になさるのがよろしいかと」
否が応にも大勢は動き出してしまっている。
これはベルタにとって予想外の事態だ。
どちらかと言えば、このまま緩やかな対立が続くと思っていた。少なくともルイがもう少し成長した後、立太子の問題が現実的になる頃までは衝突は起きないだろうとたかを括っていた。
「ベルタさま」
とうとうあちらが先手を打って来た。おそらく本当に、ここで一気に後継を巡る権力闘争はけりがつく。
正当ではない可能性の高い「王子」を立てる前に、あちらは紛う方なき直系であるルイを亡きものにしようと必ず動き出す。あるいは、その勢力の裏に他国が絡んでいるのなら、ハロルドにさえその矛先を向けるだろう。
その局面にあって、ベルタは一歩も踏み出すことができず立ち竦んだ。
「……静観。静観よ」
「姫さま?」
今は動けない。いや、ベルタは動かない。
「後宮官吏が公式に否定していないのならば、つまり陛下がアドリアンヌのもとに渡っていたのは事実なんでしょう。そもそも陛下がやらかしている可能性もある以上、決定的な瑕疵には欠ける。これを解決することができるのは陛下しかいないし、私の立場で吠えたところで、正当性は主張しきれない」
そうまでして、王家のために動く義理がない。
ベルタには我が子ルイを王位に付ける必然性はない。むしろこの子がたった一人の王太子候補でなくなれば、ルイはもっと安全に、健やかに生きられるかも知れない。
いずれ臣籍に下り、王弟のような立場で爵位を賜って穏やかに暮らす。それが混血の王子にとっては、冷たい王座に付くよりはよほど幸福なことではないだろうか。
「ですが、ルイ王子の御身に危険が及びます」
「ルイの身を守ることまでが、私の役目よ。ルイだけは絶対に守る」
ベルタは内心に抱えた真意を、この宮の中でさえ口に出すことはできなかった。
ベルタと命運を同じくしている南部ペトラ人侍女はまだいいが、ルイのためにこちらに付いた女官たちは、ルイの登極に賭けた家の者たちだ。
彼女たちに裏切りのきっかけを与えてしまわないよう、ベルタは、何も言うことができない。
本当は、彼はアドリアンヌの懐妊を喜んでいるのではないかと思っている。ベルタとの子でさえ自分の実子は可愛いハロルドだ。今度こそ正妻であるマルグリットの手元で産まれ、既存の文化の中で養育されるであろう子は、彼にとってはどれほど可愛いだろう。
この宮の人間が懐妊を偽りと断じるのは、長年ハロルドにルイ以外の子がないことが大きな原因だろうが、それでも産まれる時には産まれるものだ。
ハロルドは、真偽を確かめることから目を背けてわずかな可能性に縋るか、あるいは偽りの子と断じた上で、茶番に乗るか。
「陛下がどう出たとして、直接的にルイの身に危険が及ぶような愚かな選択はなさらないでしょう。陛下は我が子を、ルイを愛しているとおっしゃった。私は、その言葉にだけは嘘はないと信じる」
「……ベルタさまが直接動かれるのは、ルイ王子のために得策ではないとお考えなのですね?」
「そうよ。事実は事実としてそのうち自ずと明らかになる。無闇に動いて保守派の恨みを買う必要はない。私たちは、あちらが自分で自分の首を締めていくのを、ただ守りを固めて眺めているの」
ハロルドが自分で保守派に見切りを付けてこの問題を解決しようとするのなら、それはそれで構わない。ベルタにとっては何も起きず、ただ今まで通り、この王宮での日々が続くだけだ。
この日以来、第二妃ベルタもまた石のように動かず、王宮内に姿を見せることはなかった。




