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【24】帰途


 正直に言えばハロルドは、ベルタと婚約状態にあったというあのオラシオとかいう男に対して特に思うところがあったわけではない。


 もし王家に来ていなければ、確かにベルタはきっとこの地で結婚してあの男とあの街で暮らしていたのだろう。

 そう知ったところで、そういう日は来なかったことは明白であるので、つまりハロルドにとって別のあり得たかも知れない未来は関心の外だった。


 ただ、珍しく目に見えて狼狽しているベルタの様子が普段とは違い、年相応の娘らしさが垣間見えた気がして、なんとなくつついていただけだった。



「そなたはあの男と結婚したかったか?」


 しかし、会話のはずみでつい聞いてしまったことは、言うそばから言い過ぎだと気がついた。


 もし、そうだと答えられたとしても、ハロルドがベルタにしてやれることは何もない。

 彼女の意思を聞き入れることもできず、意に染まないことと知ってしまった状態でも、ハロルドは彼女を王宮に連れ帰ることになる。そしてこれから共に時間を過ごしていくことになるのか。


 考えてみればハロルドは、自分がベルタにどう思われているか知らなかった。


 息子ルイを巡る一件のせいで、彼女に嫌われ抜いたことは自覚していたが、ベルタの対応はいつも事務的で筋道立ったものだった。彼女のその個人的な好悪の情を認識したことはない。


 夫として、一人の男として、もし生理的に嫌悪されていたら立ち直れない気がする。こちらから聞いてしまっておいて勝手なのはわかっているが、あまり具体的に答えてほしくない。


 ハロルドが墓穴を掘って勝手に焦り始めた間、ベルタは先程まで口数が多かったのとは打って変わって、少し悩むような素振りで俯いた。


「誰と結婚したいとか、したくないだとか、直接的に考えることはありませんでした」


 膝の上で行儀よく並べられた彼女の手が動き、その両手の指が絡まった。


「婚姻は、カシャの家に産まれた責務のためにするものでした。嫁いだ先で求められた働きをすることで、責務を果たすためのものです。……そして、以前の私は、己が果たすべき責務はこのラマルタにあると考えておりました」


 つまり彼女本人も、オラシオとの婚約を受け入れていた。

 あのオラシオという男はどうだろうか。幼い頃からベルタと接し、この土地の多くの人間のように、彼女に対して好感を持たないことなどあり得るだろうか。


「陛下の後宮に入った直後も、正直に申し上げれば私の心は故郷にありました。けれど、王家に嫁ぎ、思いもかけずルイを授かりました。カシャの家から出なければ、絶対に産まれなかった子です」


 ルイの誕生によって、その父と母は大きく運命を変えた。

 ハロルドにとって、たった一人の混血の我が子に次代の王位を引き継がせることが王としての至上命題となった。


 そしてベルタは、ある意味ではルイの母親として生きる以外の道を閉ざされた。前例のない第二妃という椅子に縛り付けられ、選択肢を奪われた状態で、我が子への情を質に取られ続けている。


「ルイのことを、将来を考えると、胸が絞られるように痛みます。けれど私は私の人生に、あの子がいなければ良かったとはきっと一度も思いません。王宮であの子を孤独にしないための人生に、私は納得します」


 彼女の声は少し霞んでいた。


 ベルタは生家と我が子のために、柔軟に環境に順応しようとしている。産まれた時から政治的な意図でもって教育された人間が、変化を受け入れようとすることが如何に難しいか、ハロルドはよく知っている。


「ベルタ」


 彼女を呼ぶハロルドの声も、霞んで小さいものになってしまった。


「はい」


「俺は、ルイを次の王にしたい。孤独な王ではなく、盤石な、日の沈まぬ大国の雄王に。あの子を愛しているんだ。そして、あの子に出会わせてくれた君には、感謝している」


 親しい者に対する呼びかけを、ベルタに対して今までしたことがなかった。これで夫婦のふりをしているのだから笑ってしまう。



「実はカシャどのに叙爵の話を持ちかけて、断られた」


 ハロルドは、自分の今回の視察での行動を簡単に話した。

 ベルタは彼の話を全て聞き終えてから、ハロルドにひとつ助言をした。


「父が具体的に陛下に何を申し上げたかは存じませんが、父の話を全て真に受ける必要はありません。やたらと情感的な言葉選びで相手をけむに巻く、基本的には劇場型の人です」


 あのカシャ当主の強い求心力が、実の娘に言わせればそうなるという事実にハロルドは面食らう。


「父を動かすのは簡単です。誠意はさほど重要ではありません。父は、実利があれば動きます」


「実利。実利か」


 それが一番難しいが、結局のところそうなのだ。弱い王に賭けて泥をかぶる気はないと言った。

 つまりはハロルドの問題であって、今回望ましい成果が得られなかったからと言って方向性を諦める必要はない。


「わかった。ありがとう」


「礼に及ぶほどのことは申しておりません」


「それでも、カシャのことを話してくれるのは、自分の首を締めることだろう」


 カシャと王家が、共闘関係ならばまだしも、潜在的には対立の芽も残っている。ハロルドと当主の関係性において彼女がハロルドの立場で助言をくれるのは貴重なことに思われた。


「私はカシャの娘であると同時に、王家の第二妃でもあるのですから」


 ベルタは、微笑みとも自嘲とも取れる微妙な顔をした。









 王家の一行はラマルタから戻って程なく、王都への帰途についた。


 カシャ一族の屋敷の者たちは、ベルタはもちろんルイとの別れを殊更惜しんだ。両親が移動している間もルイはずっとメセタに留まっていたため、ちやほやと可愛がられていたらしい。



「それでは父上。お暇いたします」

「陛下、妃殿下の道中のご無事をお祈りいたしております」


 ベルタとカシャ当主の別れ際の言上は、驚くほど簡素なものだった。

 そういえばメセタについてからも、彼ら父娘が個人的な会話をしている場面をハロルドはほとんど見ていない。


 もちろんハロルドが知らないだけで、二人で話し合うべきことは山程あっただろうが、彼らの間に流れる独特の雰囲気に、ハロルドはどういうわけか釈然としない思いを味わった。



 帰りの道中は、行きよりもよほど穏やかで、問題らしい問題は起きなかった。


 何かあったとすれば、一日悪天候が続いた日があって、晩秋の長雨に押し留められて夜までに予定の町へ到着できなかった日があったことくらいだろうか。


 急遽その夜を明かすことになったのは、小さな農村だった。


 村長はしきりに恐縮しながら自らの館を国王夫妻に提供してくれたが、部屋数が足りず、護衛のための兵士は当然入り切らない。兵士たちは小雨の降り続く中、村の内外で野営の支度をした。


 ハロルドは侍従たちが主人の今晩の寝床を真剣に検分している間、手持ち無沙汰になった。うっかり目が合ってしまったベルタと話す会話も思いつかず、ふと、雨に濡れた彼女の髪が乱れて首筋に張り付いているのに気がついた。



「一緒に寝るか?」


「…………ばっ、! 馬鹿なこと言わないでください」


 ハロルドが何の気なしに言った言葉が、ベルタの脳内に届くまでに時間がかかったらしい。


 ベルタは少し間を置いて、急速に沸騰した薬缶のように怒り出して普通に暴言を吐き、彼女とルイのために整えられた隣の部屋に消えていった。


 ルイを抱いた乳母が目を白黒させてどう行動すべきか迷っていたようだったが、室内からすぐにベルタに呼ばれ、ハロルドにぺこりと会釈して去っていった。


 もっとしみじみ嫌がられるか、冷静に断られるかと思っていたので、ハロルドこそ驚いた。


「陛下。悪趣味ですよ」


 寝床の検分を終えていたらしい侍従が、開けっ放しだった扉の前で小言を言い出した。ハロルドと同年代の気心の知れた側近だ。


「妃殿下のお立場も考えて、そういうのは王宮に戻られてからにしてください」

「わかってるよ」


 結局、次の朝には悪天候が嘘のように晴れて、以降の旅は日程通りに進んだ。










 二ヶ月近い視察を終えて王宮に戻った頃には、王都は既に初冬に差し掛かっていた。

 そして王宮の貴族たちは、ある一つの話題で持ち切りになっていた。


「それは……」



 後宮では、正妃の侍女の一人の懐妊が発覚していた。




 

次章マルグリット編です。

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