【23】あるべき
ジョエルは第二妃ベルタ・カシャのことが苦手だった。
彼の感情の由来は単純に、自分より見えている景色の解像度の高い人間が好かないというだけのものなのだが、それを自覚できるほどジョエルはまだ冷静ではなかった。
いつも無表情を貼り付けたように厳しい顔をしている第二妃が、南部視察の間はよく笑うことにはジョエルも気がついていた。
特に、彼女が陛下と別行動となったラマルタへの先行視察は、第二妃が羽を伸ばしている様が護衛にも伝わってくる。
美しい異国情緒溢れる海辺の街並みに、黒髪で長身の妃の姿は驚くほどしっくりと馴染んだ。見たこともない建築様式は、海の向こうからもたらされたものだろう。砂漠の国に立つような建物も、大陸の最南端に近いこの土地柄なら風土に合うのかも知れない。
現地の教会はうっとりするほど繊細で瀟洒な美に溢れ、ここに信心深い人々が住んでいないことが、ジョエルには不幸に思えてならなかった。
第二妃の異母妹だというグラシエラ姫は、意外なことに第二妃とは似ても似つかなかった。
彼女は北方の血が入ったような優しい飴色の髪に、折れそうに華奢な腰つきの可憐な姫君だった。
異母妹グラシエラは、夢見る乙女のような甘やかな顔で第二妃を見上げ、再会の喜びを全身で表現した。
第二妃はそんな妹を、特に感慨もなさそうな様子でいなしながら、腕を組まれて引かれるまま街での買い物や海辺の散歩に付き合っていた。
街の市民の中には、当然のように第二妃の顔を知っている者があった。彼らは第二妃を姫さまと呼び、まるで彼女がずっとこの地に住んでいたかのように気さくに話しかけてきた。
旅装の略式とはいえ、王家の妃として遜色のない服装に身を包んだ彼女にだ。
市民らの反応は、翌日陛下がラマルタへ到着され、第二妃を随行して街を視察している間も変わらなかった。
変わったのは第二妃の反応だけだ。第二妃は陛下と合流した後は、南部にあって常にそうしていたように、内務官か何かのように陛下に付き従った。前日までのように密かにはしゃいでいた顔など片鱗も覗かせない。
彼女は、就任したばかりらしいラマルタの新太守よりも街に詳しかった。
街の海上交易の成り立ちから、各地の拠点への物品の運搬にかかる日数、メセタへの街道整備による人口の増加等、書類を読み上げているのではないかと思うほど細かな知識が出てくる。
「最も、私が知るのはすべて二年前までの知識ですが」
第二妃は最後にそう付け加え、彼女が陛下に向けて良くする愛想笑いをした。
グラシエラとその夫であるラマルタ新太守は、陛下と第二妃の視察に付き従っていたが、本来は説明される側であるはずの第二妃が誰よりも詳しいという状況が発生したために、彼らが口をはさむ要素はなかった。
ただ、グラシエラは前日のように第二妃のそばに近寄りがちな立ち位置を取るために、自然と彼女は陛下の御身にも近づいていた。もしグラシエラが屈強な男であったなら、護衛としてジョエルは彼女を差し止めただろうと思うくらいの距離だった。
一通り街を見終え、夕暮れ時よりも少し早いような時間だったが、一行はメセタへの帰途に付く。
グラシエラは零れそうな大きな瞳をうっすら涙ぐませながら、王家の馬車の前に立った第二妃の両手を握りしめた。
「また会えるわ」
第二妃は本心からそう思っているというよりは、彼女を慰めるような口調でそう言い、優しい手付きで肩を撫でた。
温度差はあるが、彼女たちは確かに仲の良い姉妹なのだろう。
「そう。……そうですわね。本当はもうお会いできないと思っていたけれど、こうして今、目の前に姉さまがいるもの。またそういう巡り合わせがあるはずだわ」
姉妹が別れを惜しむ間、周囲の人間はそれなりの時間待たされていたが、グラシエラがあまりに情感豊かに訴えるので中にはつられて目頭を熱くする者もいた。
そんな衆目の中、グラシエラは姉に笑いかけ、言った。
「小さい頃は姉さまが結婚なさるお相手と、私も結婚したいと思っていたわ。そうすればずっと一緒にいられるでしょう?でも今は、姉さまが本当は結婚するはずだった方と結婚して、姉さまの暮らすはずだった街にずっと住まわって、そういう未来もとても幸せよ」
この時ばかりは、第二妃は目に見えた焦りを表情に滲ませて、思わずといった様子でグラシエラの後ろに控えて青ざめている新太守、オラシオに視線を向けた。
第二妃と新太守の視線が、密かに苦々しく交わった。
ジョエルも、そしてもちろん陛下もその視線の動きに気が付かれただろう。
彼らの間に流れる決定的な沈黙は、過去に過ごした時間を余人に察させるに余りあるものだった。
*
もちろん帰りの馬車は、王と妃の同乗である。
ベルタは未だかつてない気まずさを味わいながら、無言のハロルドの向かいでひたすら気を揉んでいた。
意図の読めない無言の相手との同乗はこんなにすわりが悪いのかと、ベルタは密かに行きの馬車での己の態度を自省するが、反省は後でいくらでもできる。今はもっと考えなければならないことがあった。
「陛下。よろしゅうございますか」
「ああ」
「愚妹が申したことは事実ではありません。私とラマルタ太守は婚約関係にあったわけでは。ただあちらが分家の出で、歳も近く、勝手に周囲にそう思われただけのことです」
北方諸国からもたらされた価値観ではおそらく、正式な婚約はほとんど婚姻と同義だ。一度婚約を破談にしたことのある娘と思われたら、今更どんな問題が起こるかわからない。
「なるほどな。幼い頃から共にあって、結婚が自然と思われるような仲だったということだろう」
言い訳が苦しいのは、その点はハロルドの理解が正しいからだ。
事実、ベルタ本人も、自分はこのままオラシオと結婚するのだろうと思って、物心ついてからの十代を過ごした。
もっと言えば、ルイが産まれてさえいなければ、ベルタはいつか後宮を辞して実家に出戻り、その時点で適当な分家の男と再婚することになっていただろう。
そしてその有力な候補の一人は、他でもないオラシオだった。
貴族文化の中では離縁になった娘がまともな扱いを受けられなくとも、カシャに帰された後はベルタは別の価値観の中で生きられただろう。
「周囲の大人たちが汲んでいたのは子供たちの関係性ではなく、嫡女である私を、よほどのことが起きない限り家から出さないという、父の強い意向です」
異母妹を視察に同行させたのは悪手だった。彼女が、時と場合、そして人の都合というものを考えずに感情を爆発させるのはいつものことだが、ベルタは久しぶりに彼女に会って警戒心を鈍らせてしまっていたかもしれない。
おかげで後手後手に見苦しい言い訳をする羽目になっている。普段から沈黙は金だと心得ているベルタにとっては苦手な展開だった。
「俺は何も言っていないぞ。わざわざ先行してラマルタへ一泊したそなたの行動を疑ってもいなければ、過去に何か決定的なことがあったとも疑っていない」
ハロルドは、どちらかと言えばからかうような軽い口調で話していたが、楽しそうにしていて突然笑顔で刺してくる人間をよく知っているベルタは判断に困った。
「私がラマルタへの小旅行を願い出たのは、あの者に会うためではありません、むしろ異母妹との結婚を祝うためでした」
「だが、一族中から似たような誘いはいくつもあっただろう。そなたはその中で、あの男と異母妹を選んだ」
言うべきか言わないべきか悩んで、この期に及んで小細工は更に曲解を招くと腹をくくった。
「陛下。人ではありませんわ。私の特別の思い入れは、あの街そのものにございます。ラマルタは本来私が相続するはずの街でした」
「……太守としてか」
「相続の形の如何までは、決められておりませんでしたが。ラマルタは海上交易の要衝、加えて、異教徒との複雑な歴史の根ざす街です。現地に融和して大陸に残った異教徒の文化も色濃い。カシャの長子たる私が継ぐべき難しい街でした」
そして、ベルタの生母であるカシャの第一夫人とも縁の深い街だ。だが、そもそも南部の太守たちの縁戚関係や相続の慣習を知らないハロルドにそこまで説明する必要はないかと、ベルタは口を止めた。
「そなたが担うはずだった役割を、あの男や、ましてやそなたの異母妹が担うことができるのか?少々力不足ではないか」
ハロルドの興味は何やら明後日の方向に移ったようだ。
「オラシオは元々父に見込まれておりましたし、ああ見えてグラシエラも情緒にいささか問題があるだけでそれなりに出来の良い妹です。今回は二人とも、私が陛下をご案内していたので遠慮しておりましたが」
そうだ。かの土地は、既にベルタの手を離れている。
「……今回、ここを訪れることが叶ってよろしゅうございました。あの二人が今後とも手を取り合って、ラマルタを守る要となるのだと、安堵いたしました」
思いもかけず感傷的なことを口にしてしまい、ベルタは、らしくない己を自覚した。
もうベルタがこの地を継ぐ日は来ないし、ベルタが特別何かをせずとも彼らの日常は穏やかに変わらず回っていく。
街から遠ざかる、ハロルドと乗ったこの王家の馬車の中にだけ、ベルタの未来はあるのだった。




