【2】王と正妃の肖像
現国王ハロルドは、前王の庶子としてこの世に生を受けた。
ハロルドの父と、その正妻との間には子が生まれなかった。やむを得ず、愛人との間に産まれた一粒種のハロルドを実子として立太子させ、その時点で近隣国や、国教であるプロスペロ教会との間には大きな亀裂が走った。
プロスペロ教会は一夫一婦制以外を許さず、また婚外子であるハロルドを正当な後継者と認めなかった。
それでも国力の差や、近隣国と比べた強大な軍事力を背景に融和の道を模索し続け、父の代では決定的な決裂や戦争には発展しなかった。
ハロルドは愛人の子ではあったが、愛人は元は正妃の派閥の侍女であったし、貴族たちに受け入れられやすい立場の女だった。
正妃に引き取られて実の子のように育てられ、五歳で立太子し、数年後には同じ王統の“純血”である従妹姫との婚約も成立していた。
つまり、父の代までは、ハロルドのように産まれる存在は例外として片付けられ、血統による瑕疵は次代の婚姻によって治癒されると考えられたのだった。
しかし、ハロルドは従妹であり正妃であるマルグリットとの間に、子をもうけることができなかった。
結婚生活の中で何度か懐妊したマルグリットだが、流産や早産に見舞われて不幸が続いた。そうしているうちに懐妊自体が難しい体となってしまった。
正妃は、自身が死ねばハロルドはまた婚姻できるため、自殺未遂まで起こした。
プロスペロ教会の教義は離婚を禁じているが、もちろん自殺も禁じている。ハロルドに離縁という禁を犯させるよりも己が罪を被ろうとした行動だった。
ハロルドは正妃を哀れに思い、同時にうすら寒い恐怖を感じた。
子に恵まれないくらいで揺らぐ権力とは何だ?
ハロルドは揺るぎない一国の長であり、常に執務に尽力して君主としての責を果たしている。マルグリットはその国家の女主人として確固たる地位にあるはずだ。
従妹であり、幼い頃からともに育ったマルグリットには家族としての情があった。
だが、最後の死産を経験した後、泣き崩れたマルグリットがハロルドに漏らした言葉は、彼をそれなりに打ちのめした。
『――貴方を救って差し上げたかった』
彼女はその身に流れる王統の純血を持って、夫の半身に流れる罪の血を贖いたかったのだ。
それがマルグリットの正義であり、つまりハロルドはマルグリットの生家である内陸の近隣国や国教会と関わり続ける限り、彼女の言うように不幸な罪の子として扱われ続けるのだろう。
その事実は彼に、旧来の勢力との別離を決意させるに充分だった。
『既に機は熟した。未だ、私を正式な君主と認めないプロスペロ教会から独立し、この地に新たな教会を立てよ』
もちろんハロルドは教義の分裂に際しても充分な注意を払った。
国王自ら新たに定めた国教に改宗したとはいえ、プロスペロ教会への莫大な補助金はすぐには打ち切らず、また絶対に改宗したくはないというマルグリットの言い分も聞き届けた。
マルグリットとハロルドは、以前のように睦まじい夫妻とは言えなくなったかも知れないが、それでも互いを兄妹のように思い、家族として尊重し合っている面は変わらなかった。
二人はこの国の盟主として、時に教義や政治的に対立の面を持ちながらも、ハロルドの代で現地との融和に大きく踏み出した王家の両輪をなして調和していた。
最初にハロルドに愛人を用意したのは、正妃であるマルグリット本人だった。
彼女は生家から貴族の娘を呼び寄せ、表向きは自身の侍女としてハロルドに侍らせた。
それでも中々子が産まれなければ、次はマルグリットに長年仕える侍女や、他にも身の回りの娘をハロルドに差し出した。
彼女は、旧来通りの、貴族の青い血だけを継ぐ跡取りを欲した。
それに黙っていなかった現地系の貴族たちも、マルグリットと競うように血縁の娘たちを王宮に上げるようになった。
マルグリットはその時ばかりは涙ながらに、どうかその娘たちに寵を与えないようハロルドに進言した。懇願と言ってもよかった。
本意ではなく王宮はハレムの様相を呈しながらも、ついに一人も健康な子に恵まれないままハロルドは三十路に差し掛かっていた。
それも無理からぬことで、生母の血で薄まったとはいえハロルドとて近親婚で煮詰まった王家の血統が色濃いのだ。
ただ一人でも、健康で頑健な子が、できれば後を継げる男の子が産まれれば、それ以上は望むべくもない。
交易都市の豪商の娘、ベルタ・カシャの輿入れが打診されたのはその頃だった。
カシャ一族は代々の商才で莫大な財をなしながら、それでいて王家には一切の権威を望まず仕官もしていない。
王都には遠い交易都市に居を構えるカシャ一族の内情は、あまり多くのことが知られていなかった。
王都に使者として来るのは萎びたような、それでも大変に扱いづらい老獪な隠居のみで、代々当主は寄り付きもしない。
そのカシャが、ついに王家に対し行動を起こした。
それは山が動いたような一大事でもあった。今後、近隣国の権威と遠ざかる限りは国内の豪族との融和は欠かせない。
しかもカシャ一族は現当主の嫡女、ベルタ姫を送ってくるという。
流石に今までのように建前上ですら、侍女や女官として王宮に入れるわけにはいかなかった。議会では過激派からは、マルグリットを廃して正妃として迎えてはどうかという意見すら出た。
ハロルドはそれは退けたものの、苦しい折衷案として妃として、第二妃の待遇で迎える確約を出した。捨てた国教の教えに、ついに完全に背く瞬間でもあった。
カシャ一族の嫡女を、冷遇しては置けなかった。
それは待遇自体もそうであったし、ハロルドはマルグリットの懇願どおりに彼女に差し出された娘以外には手を出していなかったが、流石にベルタ・カシャとは実際の意味で結婚せざるを得なかった。
幸いであったのは、彼女は未婚の娘としては晩婚であり、二十歳前後の落ち着いた姫だった。
ベルタ・カシャは賢く、そして王宮内の雰囲気や己の立場、対立渦巻く王家をよく理解して自覚的に振る舞える人だった。
大貴族の娘として何一つ申し分のない姫君だった。
もし彼女と、このような結婚ではなく出会っていたら、ハロルドはベルタを素直に好ましい女性だと感じただろう。
ただ、予想外であったのは、ハロルドが妃を迎えたことによるマルグリットの不満を逸らすよりも先に、早晩にしてベルタ・カシャが懐妊したことだ。
もちろん、ハロルドもいずれは彼女を実際に王妃として遇し、ペトラ人の血の入った実子をもうけることになる可能性も考えてはいた。
だが、それは少なくとも結婚早々の展望ではなかったし、正妃マルグリットとの関係性も考慮して婚姻から三日だけしかベルタ・カシャの元には通っていなかった。
どちらかと言うと妃本人よりも、妃を迎えたことによる貴族たちの動きや国内の調整に気を取られていたような状況で、懐妊の報告を聞くまで彼女のことは頭の片隅に追いやっていたほどだった。
油断をしたのは、最初にマルグリットと結婚して閨をともにしてから十五年近く、ハロルドは長く苦しい思いをしながら子を切望していたからだ。
子をなすための行為が、たった数度で懐妊に直結するなどとは考えもつかなかった。