【18】古都の調べ
最初にトレントというきつい土地柄に当たったことで、その後の道程はむしろ順調に進んだ。
侍従の粗相は予想外ではあったが、元々アンリのような保守派の護衛に関する諸問題は旅の大きな懸念事項だった。それを考えれば、こちら側で処理し切れる範囲で済んだのは不幸中の幸いと言える。
何より旅の序盤でハロルドから言質を取ることに成功したベルタは、助言によって側近連中と衝突するストレスを避けることができた。
今回は危険だったが、ああいう人間も使いようだ。
割に上手くやったんじゃないかしら?とベルタは内心自画自賛したが、もちろん落馬未遂の一件は当然侍女たちには伝わってしまい、しこたま怒られた。
力量を忘れた無茶はしないように、と真っ当に釘を刺され、それは確かに大いに反省するところだ。
南部最大の都市メセタは、北方の美しい整然とした街並みを見慣れた一行の目には、雑多で猥雑な雰囲気の街に映った。
居住区をすっぽりと囲う堅固な石積みの防護壁。
街の中心部にあったはずの巨大な古城は数百年前、海の向こうの異教徒からの侵攻で焼け落ちて以来一度も再建されていない。
そして他の都市には中々類を見ないことに、城の跡地は広場として住民に開放されている。
「朝には中心部の広場に市が立ちます。街の祭りや大きな行事は全部この広場で行われます」
国王と妃の行幸を歓迎する式典を行う、と日程上は記されていたが、二人の乗った馬車と物々しい護衛騎士たちが広場に到着した時には、既に街の一般市民が所狭しと広場に詰めかけていた。
説明を求めるハロルドの視線をよそに、ベルタはにこやかに都市の説明をする。彼らは、今はそのような観光案内を興味深く聞いていられる場合ではなかったが。
「妃殿下……どのようにいたしましょう」
不安げな御者がベルタに直接助けを求めた。
人が多すぎて馬車が進めないのだ。
「構わずゆっくり進みなさい。民は避け慣れていますから。中央の舞台のそばまで馬車で乗り上げて良いわ」
雑多に民が溢れかえる広場の先で、そこだけ穴を空けたように大きく開けた場所が見えた。
そちらにいる者たちは盛装をして礼儀正しく跪いている。この街の太守、カシャの一族だろう。
馬車の横を護衛する騎馬がいなければ、歓声を上げる民がこちらに伸ばす手が直接馬車に届いただろう。それくらいの熱気だった。
古代の闘技場もかくや、という賑わいを見せる広場に馬車ごと突入し、凄まじい喧騒に話し声すらかき消される。
彼ら一人一人の表情が笑顔なので歓迎されているのだろうが、何がなんだかわからない。
ハロルドは、国民からは常に一定の支持を受けている君主だ。王都の民からの人気も、歴代の王に比べて高いほうだ。だがこれほどの熱量を向けられたことはなかった。
これは、カシャ一族が代々築き上げた民との関係そのものだ。
古都市メセタのあり方は、その価値観に衝撃を与えるに十分な熱量を持ってその日国王ハロルドを迎え入れた。
カシャの姫、ベルタを妻とした男としてのハロルドをだ。
広場の中央付近に到着すると、自然と市民の声は遠く小さくなった。
中央に跪いていた正装の一団は、こちらが近づくと一斉に立ち上がって顔を上げる。
一族の主だった者たちが一堂に会している上に、全員が王族とは初対面だ。ベルタはハロルドにそっと耳打ちした。
「中央の大柄で派手な男が父、その横の細身の女が第一夫人である母です」
彼女の端的な説明はありがたかったが、ハロルドは彼らに向けた顔に笑みを貼り付けるので精一杯だった。
長年中央を悩ませ続ける喰えない男、カシャの当主、ベルタの父。
もっと年齢のいった老獪な、いかにも金満然とした人物を想像していたというのに、実際のカシャの当主は役者と見紛うばかりの大柄な美丈夫だったのだ。
彼はその外見に相応しい、よく通る美しい声を芝居掛かった大仰さで発した。
「ようこそいらっしゃいました。第六代アウスト国王陛下。陛下は本日、御身のお出ましによって、またひとつこの国と我が都市の歴史を塗り替えられました」
決して大声を出すわけでもないのに、その声は周囲の空気を震わせて聞き入らせるような力があった。これがカシャ、まつろわぬ南部の民が皆一目置くだけの盟主。
「この素晴らしき晴れの日に、卑賎な風習にて恐縮にはございますが、当地風に我が民からの祝歌をもって歓迎に代えさせていただきたい」
「ああ。許す」
「ありがたき幸せ」
カシャの当主は恭しくこうべを垂れた後にゆっくりと身を起こし、そして片手を大きく振り上げた。
広場中に響く鐘が一度鳴り、集まった市民の大合唱が始まった。
民謡のような、素朴で美しい調べだ。とても今日のために練習したという様子ではない、自然発生的に誰もが歌えるような、この地方の人間ならば当然の歌なのだろう。
ーーさあ行こう 同胞たちよ 時はきた
広場中の市民の大合唱が中央の舞台に向けられて発され、空が割れるようだ。迫力が凄すぎて立っているだけで圧倒される。
ーーわれら 誇りある民
ーーおお自由よ 命賭して守らん
広場の中央でカシャの一族は、慣れたように民とともに口ずさむ。
ハロルドは、ベルタまでもがおそらく無意識と言った様子で体を揺らしたのを見た。
それは、数百年前に突如として始まった異教徒の侵攻、その長く凄惨な戦争の時代から歌い継がれている、平和を願う反戦歌だ。
のちに式典や婚儀、様々な場で聞かないことのない祝歌となっていった。
南部の民の魂に刻まれた歌だと、この時まだハロルドは知らず、ただただ辺境の調べに聞き入った。




