【17】婿殿
船を降りて、現地の太守が用意していた馬車に乗り換え、その日のうちに南部最初の町に到着した。
町についた瞬間から正直ベルタは嫌な予感がしていた。
この町の太守、トレント家の当主は、大河と近接する土地柄もあって何かと北方貴族とは折が悪かったと記憶していた。そして当主の空気感は市民感情にも直結する。
当主は、町を囲う城郭の外まで視察の一行を迎えに出ていた。
けれど、ベルタがルイと同乗していた馬車を降りると、当主はハロルドの馬車を素通りしてこちらに歩み寄りそうな素振りを見せたのだ。
ベルタはルイを抱き降ろそうとしていた手を止めて足早にハロルドの馬車に近寄り、ハロルドと並んでできるだけ近くに立った。当主がハロルドに礼を取っていると見えるように。
「ようこそお越しくださいました。ベルタさまのお越しを首を長くしてお待ちしておりました」
「世話になるわ、トレントの叔父上。私の旦那さまにご挨拶を」
当主は仮にも国王をスルーしたことを全く悪びれる様子なく、極めて朗らかにハロルドに笑顔を向けた。
「恐れ多くも国王陛下の拝謁の栄に浴します。トレント家当主・シーロにございます。ご滞在の間はどうぞごゆるりとくつろがれませ。歓待の支度もしてございます」
「そなたはベルタの叔父なのか?」
ハロルドは直截に当主に問う。
「はい。もっとも直接の叔父ではございませんが。私の妹がカシャご当主の第三夫人であり――ベルタさまの三番目の母にございますれば、ベルタさまは幼少時より親しみを込めて私のことを叔父と呼んでくださるのです」
王都の文化圏では理解しづらい価値観だろうに、ハロルドはなるほど、と一応納得する様子を見せた。
その日はハロルドと並んで二人、下にも置かぬ豪勢なもてなしを受けた。
問題が起きたのは翌早朝のことだ。
出立する前に、文官や女官たちを町に置いたまま身軽に周囲の山村を見て回ろうということになっていた。
ハロルドは少数の供回りと護衛兵士のみを連れた。それに加え当主が手配した者たちと、地形に慣れた自警団を連れての視察はお忍びに近く、ベルタは緩衝のために同行を申し出た。
後から思えば、それがまずかった。
少数での視察は馬によるものだったが、ベルタは嫁いで以来乗馬から遠ざかっていた。
久々に馬に乗る上、道は山間の悪路で、ベルタはふとした拍子に馬の扱いを誤った。馬に舐められて加速されてしまったのだ。
「いけない!ちょっとっ、誰か、手綱を引いて!」
慌てて周囲が目に入っておらず、ベルタは近くに並走する騎馬に助けを求めた。
間の悪いことに、その時ちょうどベルタの一番近くにいたのは侍従のアンリだった。彼は助けを求めたベルタに一瞥もくれず、自分も馬を更に走らせてベルタの横から離れようとさえしたようだった。
「ベルタさま!」
結局、逆側を並走していた騎馬に体当たりで減速を促され、ベルタの馬は止まった。
落馬の不格好を晒さずに済んでほっと息を付きかけたが、次の瞬間ベルタは場の惨状に気がついて目眩がした。
道の少し先で侍従アンリが、自警団連中に馬から引き降ろされ、地面に頭から縫い付けられるように拘束されていたのだ。
「貴様!敢えてベルタさまの御身を危険に晒すとは何事か!申し開きによっては容赦せぬぞ」
「この者は妃殿下であらせられるベルタさまに対して護衛の役割を果たしませんでした。消極的とはいえ謀反と取られて仕方のない所業」
「この者は国王陛下の側近ではないのか!なぜこんな痴れ者が紛れ込んでいるのだ!それとも貴族連中にとってはこれが当然の態度か?」
ベルタは慌てて馬から降りた。その時ちょうどすぐベルタの後ろにいたハロルドに片手を突き出し、絶対に降りてくるなと身振りだけで制止する。
ここで王本人が出てきたらいよいよ収拾が付かない。
ベルタは一度深呼吸して、自警団の面々に一喝した。
「やめなさい!」
明らかに非があるアンリのほうをなぜか庇う羽目になっているベルタは、しらを切り通すために自分に気合を入れる必要があった。
「ですが、ベルタさま、」
「ごめんなさい、忘れてた。この者は時々こちら側の耳だけ聞こえづらくなるのよ」
「そのような役立たずの護衛などを御身の周りに置かれますな。捕らえて町に差し出し、尋問致しますか」
「やめて。馬から振り落とされそうになったなんて、みんなに知られたら恥ずかしいもの。あまり大ごとにしたくないから後はこちらで処理させて」
「しかし、」
「私の顔に免じて見逃してちょうだい。それと、あなたたちは少し先に行って待っていて」
全然誤魔化せていないが、ともかく有無を言わせず自警団たちを追い払うことには成功した。
ショックを受けたように引き倒された状態から動かないアンリに、ベルタは近寄った。手を差し伸べて助け起こす気には到底なれない。
ベルタに気がつくと、アンリは半ば呆然としたまま顔を上げて、それでも聞き苦しい悪態をついた。
「あ、あいつら……このようなことをして、ただで済むと思うな、」
「黙りなさい。アンリ・オットー!おまえは今自分が何をしでかしたかわかっているの?」
ベルタはこの、もう片方と見分けがつかない侍従のことを、まだ物の分別も付かない子供だと思っている。
自分の判断基準を持たないから、外朝の人間が悪し様にベルタを罵るのを真似して、自分の立場ですらそれが許されると思っている愚かな子供。
外朝の大臣や貴族たちを刺激するのを控え、王宮内では自分に対するどんな罵詈雑言も黙殺しているベルタは、この子供にだけ一々目くじらを立てるのも面倒だと思っていた。
「王宮内ではおまえが私に対してどんな態度でいようが、周囲はおまえを無能だと思うだけで何も言わないのよ。けれど、ここがどこだか理解している?王宮とは違う政治構造で成り立つ辺境よ」
ああ本当に、アンリは連れてきてはまずかった。けれどベルタはハロルドに、側近を置いていくよう進言できるような立場にはない。
「何のために視察に来ているか考えて行動なさい。陛下がペトラ人と事を構えないように努力されている姿は目に入っていないの。……それも分からないようなら、おまえは今からでも任を辞して去りなさい。血の気の多い南部の人をこれ以上刺激する前に」
国家の盟主としてもてなされるどころか、ベルタの婿として体良く附属物扱いされているような昨夜の宴を思い起こす。
トレントの手荒い歓待に耐えたハロルドの努力が、この侍従のせいで水の泡になるのはさすがに忍びなかった。
*
ハロルドの位置からは、ベルタがあわや落馬しそうになっていた一瞬の光景も、それを事もあろうに自身の侍従が無視したことも一部始終が見えていた。
彼女は落馬しかかった衝撃からか多少足腰をふらふらとさせながらも、彼女に忠実なペトラ人から侍従をかばい、引いてはハロルドをかばった。
久々に怒りを示す彼女の言葉を聞いた。
やはり、ベルタを怒らせている侍従のほうにどう考えても非がある状況だった。
一つ言い訳をするとすれば、ハロルドは自身の侍従が妃に対してこのような態度を取ることを知らなかった。
双子の侍従は、ハロルドに対しては従順で忠誠心の強い小間使いであり、主人の前ではこれまでボロを出していなかったのだ。
だが、さすがにこれは。
「控えよアンリ」
理路整然と怒りをあらわにするベルタに、何やら言い返そうとしていた侍従の口をハロルドは強い言葉で封じた。
「カシャ妃の、ベルタの言う通りだ。たった今おまえの任を解く。俺が視察から戻るまで、大河の向こう岸へ戻って逗留し、謹慎していろ」
「へ、陛下……なぜ、私は、へいか、」
なおも何か言い募ろうとする侍従はもはや視界に入れず、ハロルドはベルタの肩に触れて自身のほうを向かせた。
「この者の無礼を知りながら、どうして何も言わずに耐えるような真似をする?知っていればもっと早くに対処したし、そなたを危険に晒すようなことはなかった」
しっかりして見える彼女が馬上で手元を誤った瞬間、ハロルドは肝が冷える思いをした。
ベルタはハロルドに触れられた距離をすぐに避けたし、侍従に向けていたよりよほど控えめだが冷めた視線を投げてよこした。
「私は陛下の身の回りの人事に口出しをする裁量は持ち合わせておりません。王宮にいる時に、私が侍従の態度が気に入らないから解雇してほしいと申し出たとして、陛下はそれを聞き入れますか?」
ベルタからそのような進言を受けたことはないが、もしあったとしてもハロルドが真偽を確かめるに至る前に、周囲から口出しが入って話が捻じ曲がるだろうことは容易に想像できる。
相変わらず痛いところを突いてくるベルタだが、今回の旅程の先の長さを考えるとここで正論に押し負かされてばかりはいられない。
苦し紛れになったハロルドは、彼女を全く正当に扱えていない後ろめたさに目をそらしながら、ベルタにお願いをするしかなかった。
「……せめて、この視察の間だけでも俺がそなたの言葉を誠実に聞き入れると、信用してくれ」
ベルタは特に表情を変えなかったが、そのわりには頷いてくれた。
「わかりました。私もルイがいる以上、陛下が南部ペトラ人と険悪になられると立つ瀬がありません。助言は忠心から申し上げることと、ご信用ください」




