【16】ペトラ
彼は無言が苦手な性格なのか、道中あれこれと馬車の中でベルタに話しかけてきた。
「昨夜はよく眠れたか?」
「ええ、陛下」
「ルイはぐずっていないか?そろそろ馬車の旅にも慣れてきただろうか」
「はい。今のところは」
「……そろそろ南部が近い。明日あたりに大河に着くだろう」
「さようにございますね」
一方ベルタのほうはどちらかと言えば静かに過ごしたかったし、ルイを連れて父に会うことを思えば少々気が重かったのもあり、公務に関係がありそうな話題以外は適当に受け流していた。
夫に何か期待するとか、当てにするという甘い考えを持たないと心に決めてからは、ベルタにとってハロルドはちょっと苦手な上役というような位置付けだった。この視察旅行でハロルドとの私的な交流を深める意図はまるでない。
ただ、そろそろ大河に着くようなので、ベルタは南部の人間と王を接触させるための注意事項を述べた。
「陛下。大河を渡る前に一件お願いがございます」
ベルタが自分からハロルドに話しかけるのは珍しかったので、ハロルドは必要以上に身を入れて聞いてくれた。
「なんでも言うといい」
「恐れながら、南部に滞在する間は私のことは名でお呼びください。ベルタ、と」
なんでも良いと言ったわりにハロルドは一瞬固まった。さほど難しい要望とは思えないのだが。
「何か理由はあるのか?」
「特別な理由があるわけでは。ただ、陛下は妃の一人として私を同伴なさったのですから、一般的な夫婦のように見えたほうが都合がよろしゅうございましょう」
「なるほど」
ハロルドはそう言って沈黙したので、ベルタは彼が納得して話が終わったのかと思って窓の外などを見て過ごしていた。
しばらくして、ハロルドは軽く勢いをつけて視線を上げた。
「ベルタ」
「はい」
「……呼んだだけだ」
さようにございますか、と相槌を打つか迷って、ベルタは結局何も答えなかった。
大河というのは、国土を横断するように流れる文字通り大きな河だ。
大河以南、国土の約三割にあたる面積はペトラ人の実効支配地域となっている。あちら側には国家が任じるような爵位のある領主は数少なく、大抵は土着の領主が太守を名乗り治権を行使していた。ベルタの父などがその最たる例であるが。
この大河、川幅の広さそのものはもちろん、ペトラ側の岸の地形の悪さが天然の要害となっている。
河を渡ったところであちら側は見渡す限りの断崖絶壁、たまに拓けた道があっても道幅が狭く限られている。
現王室が百年、南部の実効支配を諦めるに至った理由になるだけの地の利があった。
過去には異民族との凄惨な戦闘が繰り広げられた歴史を持つ河川だが、平和と交易の時代が続いている現在は、吹き抜ける川風の気持ち良い穏やかな場所だった。
「すごいな」
対岸の岩場を見上げたハロルドは、思わずといった様子で感想を漏らした。
「陛下は、大河をご覧になったことは?」
「あるが、河口付近の港町に行ったときだ。あの時は港まで迂回して渡ったが、今回のように最短距離の道順を見るのは初めてだ」
ハロルドは土地勘のある官僚たちが公式に設定した視察ルートが、このような道なき道であることに驚いている様子だ。
「ここより上流は王都側も山脈に呑まれて悪路になりますし、下流から渡るにはかなり迂回しなければなりません。このまま突っ切るのが一番ペトラ側の街道にも出やすいんです」
ベルタが二年前にあちらから出てくる時もここを通った。
船が用意されている岸辺で待機していた現地の役人が、ベルタの話を引き継ぐようにハロルドに口上する。
「対岸は絶壁ですが、崖の間にわずかに切れ目がございます。河を渡る船でそのまま、狭い谷幅を航行いたします」
役人が説明するそばでは、既に先行の護衛兵士の乗った船が、崖の合間に入るところだった。対岸からは、知らなければ航路があるとは到底思えないような地形だ。
「十人乗りの船がぎりぎり通れるほどの隙間しかなく、快適な船旅とは言えませんがどうかご辛抱くださいませ」
「問題ない。どうりでこの日数でメセタまで着くはずだ」
ハロルドは感心したようにそう返した。
それから現地の役人はベルタのほうに向き直り、すました顔で再び儀礼的に頭を下げる。
「妃殿下におかれましては、お久しゅうございます」
「ええ。息災そうで何よりよ、トレント家の」
役人は太守トレント家の一族の者だった。ここで大河を渡ると最初に着くことになる町の太守一族だ。
「ますますご健勝のご様子、安心いたしましたよ。もっとも、ベルタさまはこれから行く先々で会う者たちに同じようにご挨拶されてお疲れになるでしょうな」
役人はすまし顔を崩してにやりとした笑みを見せた。
「覚悟しておくわ」
「わはは、行ってらっしゃいませ!道中どうかお気をつけて」
役人に促されるまま進もうとして、ベルタはふと隊列の後ろに目をやる。馬車から出てきたジョハンナがだいぶぐったりしている様子なのが気にかかった。
今日の馬車移動はルイがぐずり倒したのだろう。まだ馬車酔いしないでくれるだけでも優秀な幼児だ。
「陛下。船での移動は心配ですし、私はルイに付いております」
ベルタがそう言うと同時に、馬車から降ろされたルイがぎゃんぎゃんと泣き声を上げた。彼以外は大人しかいない一行で、幼児の泣き声はやたらと耳につく。
ハロルドは、ルイのぐずり声を聞いても特段不快そうな様子は見せず、平素と同じように頷いた。
「行ってやれ」
「はい」
ルイは、ベルタが抱き上げて一度は泣き止んだものの、結局初めての船に怯えて水上では終始泣き通しだった。
 




