【12】母と子
「ルイ王子にお会いしましたよ。あなたの産まれた頃によく似ている気がするわ。ああでも、赤子はみな可愛らしいから、可愛らしいところが似ているだけかしら」
久しぶりに母に呼ばれて王太后宮に足を運んでみれば、晩餐を共にする間中上機嫌に孫自慢をされた。
「カシャ妃やルイに関することは全部報告させていますよ。母上が一昨日カシャ妃の宮を訪ねたことも聞いています」
「あら。そうなの。では私が王子を膝に抱かせてもらった話も聞いたかしら?王子はまだ人見知りを覚えていないのか、おばあさまのお膝でもお利口でしたよ」
「さあ。そこまで細かい報告は」
ルイのために新しく増員された新人女官の中には、数人ハロルドの息のかかった者も紛れ込ませてあった。
王子の周囲の安全を図るためと、内部に目を光らせて余所からの間諜を防ぐためだ。
現状ではハロルドからあちらに送り込んだ間諜のようになっているが、それは別に当初意図したところではなかった。
「あなたは数ヶ月王子の顔を見に行けていないようね」
どこまで事情を把握しているのか、はしゃいでいるように見えて存外冷静な母の表情からは読み取れない。
「カシャ妃が臥せっていたので、遠慮していました」
カシャ妃の宮に入った女官からもそのように進言があった。カシャ妃の不調の原因は心労からと診断されていて、今は周囲の者がみんな神経質になっていると。
カシャ妃の宮は彼女のペトラ人の侍女を中心に、新人女官たちも団結を深めている。この雰囲気の中で陛下の肩を持てば浮いてしまうと報告が上がり、己があちらの使用人たちにどれほど嫌われたか察した。
「そう、ではこのまま遠慮なさるのがよろしいでしょう」
母の言い方は冷やかだったが、ハロルドはそうした対応を受けても仕方ないと知っていたので甘んじて受け入れる。
「どうしてもと言うのなら私と一緒の時に行くか、父王として王子の成長を確かめたいと正式に御前に召し出すのが良いわね。そういう場ならカシャ妃の側の反発も少ないはずだわ」
後から顧みて、あの時カシャ妃をあそこまで激昂させたのは確かにハロルドに非があったと反省した。
「カシャ妃はずいぶんと回復なさったけれど、それでもあそこまで痩せてしまって。お可哀そうに」
「わかっています。もうルイを生母から取り上げようとしたりはしませんよ」
確かに息子の誕生に気を取られ、冷静さを欠いていた。
ハロルドはルイが可愛かった。
産まれるはずがないと思っていた実の息子に、盤石な態勢でこの王位を譲り渡すために、ハロルドはこれから数十年かけて打てる手はすべて打っていかなくてはならない。
その立場を安定させるための一手として、正妃の子として育てたほうが良いと考えたのも事実だった。
ハロルドがルイに向ける愛情に、生母が誰であるとか、彼が王室では前例のない現地ペトラ人との混血児であることなどは関わりがなかった。
だが、誰でもそう感じるわけではないということに思い至らなかったのは、やはり浅慮でしかなかった。
『きっと、きっと可愛がってくださいます。この子に流れる汚れた血を哀れがり、可哀想がって慈しんでくださいますわ』
カシャ妃の悲痛な叫びは、夢から覚めるようにハロルドを我に返らせた。
そのことを彼女が知るはずもない、正妃マルグリットが最後の死産の後に漏らした本音。
『――貴方を救って差し上げたかった』
正妃マルグリットにとってハロルドやルイがどう見えているのかを理解すれば、彼女にルイを預けるように言った自分の発言がどれほど周囲の反感を買ったかは容易に想像できる。
「……母上」
「何でしょう」
「カシャ妃はほとんどマルグリットと接していないはずです。それでも彼女は、私よりよほど早くマルグリットの性状を理解しているように思える。どうしてでしょう」
母は少し呆れた顔をして、それからハロルドを宥めるように言った。
「もちろん、カシャ妃は聡明なお方ですよ。年齢より大人びていらっしゃるし、すべてが敵のような王宮にあって認識すべき重大なことを間違えない、気を遣うことに慣れた敏感なお嬢さんね。……けれど、マルグリットに関してはハロルド、あなたが少々鈍すぎますよ」
母からの指摘は耳に痛いものだった。
「マルグリットは敬虔なプロスペロ教徒で、その上あの子の産まれた祖国の、この王家の親戚はみな『貴族の青い血』に誇りを持っているの。気がついているでしょう。マルグリットは育てられたように育って、その価値観はもう変わらないわ。永遠にね」
「マルグリットは九歳の時にこの国に来た。私と一緒に育ちました。彼女はとっくにこの国にいる時間のほうが長い」
言っても仕方がないことだとわかっても、言わずにはいられない。
ハロルドもまた、数年前までは妻と同じ教義を信仰していた。生涯たった一人の伴侶として、愛していくのはマルグリットだと考えていた。政局の都合で改宗したものの考え方の根幹は中々変えられるものではない。
「ハロルド。……あなたは国家の盟主として現実を見て、新しい時代に漕ぎ出した。けれど、マルグリットがあなたと同じ景色を見てくれたことはある?」
「母上、それは」
「見切りをつけることもあの子を楽にすることだわ。あの子はあなたの無謀な期待には応えられない」
母が口にしようとしていることの、あまりに大それた内容にハロルドは呆然とする。
「この先一緒になってこの国を憂える、そんな伴侶があなたにとって誰であるか、」
「母上!」
ハロルドは椅子を蹴るように立ち上がった。彼の前にあった銀食器が床に落ちて耳障りな金属音を響かせる。母も、給仕の使用人も水を打ったように静まり返っている。
ハロルドの荒い息づかいだけが残った。
「カシャからの賄賂はそれほどあなたの懐を暖めましたか?」
母が突然カシャに味方し始めた理由を、ハロルドが知らないわけがなかった。
ある程度金が絡んでいるのは察していたが、確かにこの王宮で王子が四面楚歌になるのも困り物で、ハロルドは母が王子の後ろ盾になることを止めさせるつもりはなかった。
しかし、この母にここまで言わせるほどの力が働いているのなら、さすがにハロルドはカシャの小細工を見逃すわけにはいかなかった。
「ハロルド。座りなさいな」
「母上、質問に答えて下さい」
「座りなさい」
母は全く悪びれもせず冷静で、ハロルドには着席を促し、給仕には新しい食器を持ってくるよう目配せした。
有無を言わせぬ様子。座らなければ会話を続ける意思はないと無言を貫かれ、ハロルドは渋々元の席に座り直した。
「カシャからの財政援助に関してあなたから当て擦られる言われはないわ。税収に上乗せされた南部のペトラ人地域からの寄附収入がなければ、この国の国庫だってとうの昔に痩せ細っているでしょう。その寄附を盾に取られて妃の座を質に入れたのは、王たるあなた」
「何から何までその通りですね。けれど近隣国に対して権威を維持するためには、強大な軍事力を維持する必要があった。私はそのために身を切る思いで寄附を受け入れました。私腹を肥やすためではありません」
「喪服しか持たない老婆が今更私腹を肥やして何になるというの?私がお金を使うのだって、四十年前に出た生家との繋がりを維持するためであったり、他国の王侯貴族と交流して情報を手に入れておくためだわ。国庫の財産も使わずに私が築いた交流や情報網は、全部あなたと国家のためになっているでしょう」
母の言っていることにも色々と穴があるものの、大意では正しい気がしてしまって、ハロルドは結局いつも言い負ける。
だが今回は母も譲るところがあった。ハロルドが拒絶した、正妃マルグリットへの言及についてはこの日はそれ以上のことは控えたのだった。
「第一、カシャからの援助だって言うほどではありませんよ。私は実際に会ってみてカシャ妃を気に入ったの。彼女ならルイ王子を導く良い母になってくれるでしょう。経済力だけで王太后の助力が買えると思ったら大間違いだわ」
実際に買収された人間の口から出るほど説得力のない言葉だが、王太后は前王亡き後、一時期はハロルドの摂政として政局の中心に立つこともあった女傑である。
俗世の権力から遠のいて久しいとはいえ、その目がそう安々と曇ることはないかもしれない。
「母上がカシャ妃を気に入ったことは充分によくわかりました」
食事を続ける気にもなれず、ハロルドは適当に辞去の挨拶を述べて王太后宮を去ろうと立ち上がる。
「ええ。カシャ妃は、ジェーンの命日に彼女に花を供えたもの」
さっさと立ち去るハロルドの背中を、母の独り言のような小さな声が追った。
ジェーン。
それは彼女の昔の侍女で、ハロルドを産んで間もなく亡くなった生母の名だった。




