【40】冬の一日
その数日後、その年初めての雪が新王都に降り積もった。
今年もまた、一際寒さの厳しい冬だった。
大雪に見舞われたヴァウエラでは、春の式典の予行演習どころではなくなった。
そうでなくとも例の僧侶たちの一件があって、結局セルヒオら数名の官吏たちが減俸という軽科を受けた直後のことだ。
雪がなくてもああいう目立つやり方はしばらく控えなければならなくなっていただろう。
後から聞いたところによると、あの日座り込みをして捨て身の上申をした僧侶たちは、さすがに示しがつかないということで、一旦市街で捕らえた上、投獄の処分に処されたらしい。
とはいえハロルドは、その僧侶たちへの処分を一度棚上げした。
あの僧侶たちは今も拘束されているが、これに対する王宮内の見方はひとまず、重すぎる処罰は免れただろうという意見が大半だった。
もしかしたら年明けの立太子の叙任式が終わる頃までは、念のため獄中に留め置くかもしれないとのことだったが、そののちは特に問題も残らず軽科で済むだろう。
一安心というか。これで気がついたらうっかり獄中死、というような展開にならない限りは、王宮内も落ち着いて春の支度ができるというものだ。
「お母さま! ゆき!」
雪で一部の機能が停止した王宮内で、ルイだけはとてもご機嫌だった。
「ワンッ! ワォン」
彼は飼い犬と一緒に、雪の降り積もった中庭を元気よく走り回っている。
「ゆっき、ゆっき!」
「王子! 雪合戦をいたしましょう」
体力のある子供の雪遊びの相手は、寒さに強そうな女官たちとシュルデ子爵に任せた。
ベルタは精一杯温かい服装に身を包み、中庭が見える位置の窓からルイたちが遊ぶ姿を見て過ごしている。
王都で過ごす数年目の冬も、相変わらず寒さには慣れなかった。
「みんなでシュルデしちゃくをやっつける!」
「ええっ! 私でございますか、……よしきた、王子、私に雪玉をぶつけられたら王子の勝ちですよ」
キャッキャと甲高い笑い声を上げながら雪の中を転げまわるルイは、しょっちゅう雪合戦の集中力を欠いては、室内のベルタのほうを向いてぶんぶんと手を振った。
ベルタも外のルイに手を振り返して、ルイが雪遊びに満足した後に体を温めるための、熱い湯や毛布の支度を急がせた。
結局、彼が遊びに飽きるよりも早く、女官たちがルイを切り上げさせた。
王子に風邪を引かれてはたまらない。
「やだやだ! もっとあそぶっ」
「また明日にしましょう」
「お天気もまた悪くなって参りましたし」
小さな頬を真っ赤に染めたルイは駄々をこねたが、雪が染みた寒さで手足が冷えてガタガタとしているところを、侍女たちに実に手際よく着替えさせられていた。
着替え終えたルイが丸々と毛布に包まれ、暖炉の前にちょこんと置かれる頃には、また外はすっかり本降りの雪に見舞われていた。
雪に覆われた空は重く、窓の外は真昼だというのにまるで夕方のように暗かった。
もう少しすれば誰かが明かりを持ってくるかもしれない。
暖炉でパチパチと燃え盛る炎が、薄暗い室内を橙色に照らしていた。
しばらく、暖炉の前で大人しく手足をかざして温めていたルイだったが、ふとベルタのことを思い出したのか手招きで呼び寄せた。
「お母さまも」
ルイは、同じく暖炉の前に陣取って暖を取っていた飼い犬のミルコをぎゅうぎゅうと押し、暖炉の前にベルタの席を作ってくれた。
ミルコは迷惑そうな顔をして、フルフルと緩く尻尾を振っている。
「お母さまも火にあたるの?」
ルイが何を思いついたのかは知らないが、ベルタはまあ彼の言う通りにするかと思って、犬と彼のそばにそっと座った。
ルイはすぐに母の膝の上によじ登って座ると、ベルタの両手を持ち上げて、先程まで自分がそうしていたように暖炉の火にベルタの手をかざさせた。
「お母さまはさむいのが苦手だから」
自分のほうが雪に濡れてぷるぷる震えているのに、なんとも面倒見が良いことだ。
ベルタはなんだか無性に愛おしさが募って、膝に座ったルイを背中から強めに抱きしめた。
顔に当たる暖炉の炎も温かかったし、腕の中でバタバタ動く幼児の存在も温かかった。
そうでなくても二人でくっつき合って、こんな寒い日に身を寄せ合って過ごしているのはベルタを特別な気持ちにさせる。
「お母さまが育ったところは、ここよりもっと暖かったのよ」
なんだかもう、色々なことを考えなければならないのも面倒だし、ずっとこうしてルイと二人で過ごしていたい。
雪が降り止んだら、どうせまた自分があれこれと走り回らずにはいられない性格だということは棚に上げて、ベルタはそんなぬかるんだ思考に沈んだ。
ほんの数年前にはこの世にいなかったような小さな存在のくせに、彼が今ではベルタの心の大部分を占拠して離さない。
ルイは、そんな感慨など知らぬげに、真上にあるベルタの顔を見上げて首を傾げた。
「お母さまはここじゃないところでそだったの?」
「そうよ」
「ふぅん」
ルイの、最近少し伸び揃ってきた髪を、手で梳いて撫でる。
「べつのところからきたの? お父さまも?」
「ううん。お父さまはここにいたのよ」
ハロルドが育ったのはここヴァウエラではないが、まあ南部と比べれば旧都ダラゴは目と鼻の先だろう。
「?」
ルイはつぶらな瞳を丸くしたまま、不可解そうに唇を尖らせた。
彼にとって、父と母がそれぞれ別々の場所で生まれ育って、それぞれ違う時間を歩んでいたということは、少し想像しづらいのかもしれなかった。
「お母さまはここよりもっと暖かいところで育って、お父さまと結婚するために王都に来たの」
ベルタは苦笑思わず苦笑する。
ルイは覚えていないだろうが、彼が生まれてからの一年くらいの間は、ハロルドと彼ら母子は完全に没交渉だったのだ。
彼と一緒に過ごした時間は長いようで、短いようで、けれどルイにとっては、両親が揃って自分と一緒にいるのが当たり前のことなのだ。
「どうしてお母さまは、お父さまとけっこんしたの?」
結婚、という言葉の概念は、ルイも知っているようだった。
幼児のその純粋な問いはベルタを困らせた。
父に言われたから、とか、南部と王家の力関係だとか、そういうことの説明を求められているわけでもないし。
……こういう時、子供は両親の馴れ初めにどういう種類の返答を期待するのだろうか。
思わず真剣に考えて目を泳がせたベルタに、横でだらりと寝そべる犬が呆れた視線を向けた。
「どおして?」
ルイはくるり体の向きを変えて、膝の上でベルタと向かい合って座り直した。
彼の深い青色の瞳も、どんどん端整になっていく顔つきも、毎日見ているのにいまだに時折、見慣れない思いがする。
「そういう運命だったからよ」
彼は、ベルタとハロルドの子だった。
そう思えばベルタ自身、それ以外の答えはないという気がした。
「神さまがそうお決めになったから」
神が何かも知らないくせに、身勝手にもそう思う。
運命という言葉は、個人の力では動かしようのない所与の事象に、実に都合の良い理由をくれる。
ベルタがカシャの嫡女として育ったこと。ハロルドが混迷の時代の王家を背負って立つ君主であること。そしてルイが、そんな二人の子としてこの世に生を受けたこと。
そうした事実は、単に事実としてもう揺らがない。
だからベルタはこんな冬の一日ですら、穏やかな気持ちで過ごしている。
ハロルドと少しばかり言い合いをしても、互いの価値観に齟齬があっても。彼がたとえ、ベルタの意見を時には聞き入れなくても。
それでもこうして、これからも彼とルイと生きていく。そういう所帯じみた日常に感化されて折り合いをつけていくことは、想像していたよりも実際、難しいことではないのかもしれなかった。
だから、ハロルドが今王宮にいないことも、彼が今どこに行っているのか、ということについてもベルタは察していたが、そのことについては別に何も言わないと決めていた。
ただ、――それを聞いた時、最近の彼が頓に刹那的な顔を覗かせる理由の一端に、ああそうかと妙に腑に落ちる思いがした。
それはベルタが知らない、そして知るべきでもない、彼と彼女の話だった。