【37】嘆願
連日、広場に出て打ち合わせをしているうちに、どこから噂を聞き付けたのか、王宮正面の大門の前には庶民たちが見物に詰めかけるようになっていた。
エリウエラル宮も新王都ヴァウエラも、従来の王都や王城と比べれば、かなり開放的な構造になっている。
特に新たな王宮は、外庭の最も外を囲う門壁から市街地までの距離が、たった一本の大通りを挟んだだけで隣り合うという立地だった。
もちろん宮殿の敷地面積は広大で、門の外から覗いた程度では王宮の建造物そのものは見えないが、広々とした正面広場は外からも覗くことができる。
……その正面広場に、「王妃さまがお出になっていらっしゃる」と知った庶民たちが、連日すっかり門前に人だかりを作っていた。
門兵たちは対応に苦慮している有り様で、というのも、追い払おうにも市民たちは明らかに礼儀正しく、騒ぎ立てずにただ王妃の姿を一目見たいと詰めかけている善良な民のように見えたからだった。
妃殿下は護衛たちにも門兵にも、特段の指示は出さずに市民たちの見物を黙認した。
彼女の護衛たちは、今はまだ有事の張り詰め方を残しているせいもあり、多少渋い反応も見せた。それでも身を入れて妃殿下を説得して追い払わせるというほどでもなかった。
誰もが、警備上のわずかな瑕疵を気にする程度で、まさかそのことで本当に有事が起きるとは想定していなかったからだ。
――だから、後から思えばその件は、居合わせていた関係者全員の、連帯的な不注意が原因で起きた事件だと言わざるを得ない。
セルヒオがその日、事態に気がついたのは、門前の人だかりから伝播したざわめきが、門からかなり距離のある正面広場の奥にまで届いたためだった。
妃殿下や護衛たちも、ふと同じ動作で顔を正門の方向へと向けた。
門兵たちから怒号が上がり、辺りがにわかに騒然とし出したのは、それからすぐのことだった。
「……! ……!」
「――!」
「……――!!」
門兵がこちらに背を向けてがなり立てる怒号の内容までは、こちらには届かない。
「何?」
妃殿下は怪訝な顔をしたが、護衛騎士たちが先んじて彼女の行動を押しとどめるように、それとなく囲んで陣形を敷いた。
「……市民たちの中に、何か」
「紛れ込んでいるのか?」
「妃殿下、どうぞこの場を動かれませんよう」
遠目にも門前に、数人から十数人の人影が座り込んで、何かを抗議するよう門兵に対峙しているのが見える。
護衛たちは妃殿下に関わらせたくなさそうにしているし、しかし妃殿下は門前を気にしてしまって、すぐにはこの場を離れてくれそうにない。
仕方なくセルヒオは申し出た。
「ちょっと見て参ります。妃殿下はこちらにいらして下さい」
セルヒオは部下数人を引き連れ、正門のほうへと足を向けた。
彼らが門に近づいていくと、困惑し切りらしい門兵たちのほうも助けを求めるように、セルヒオたちに小走りで駆け寄った。
「僧侶たちが動かんのです、妃殿下にお慈悲を乞いたいと」
「……僧侶?」
たちまち嫌な予感がして、セルヒオは、連日のことで妃殿下の動向を市民たちに知られるような展開を作ってしまったことをようやく後悔した。
あの事件の余波を自覚していながらも、それは彼にしては珍しい、明確な失策に違いなかった。
「どうか、妃殿下に! お願いでございます。妃殿下にお目通りを」
「王妃さまっ、王妃殿下! どうか……」
「どうか我らにお慈悲を! どうか」
「我らはシエナ修道会とは、無関係にございますれば……!」
セルヒオは甘く見ていたのかもしれなかった。粛正を受ける側の人間たちが、どれだけ必死にもがこうとするのか。
服装からも明らかにそうとわかるように、彼らはプロスペロ主派の修道士たちであるようだった。
――国王ハロルドは昨今、先鋭化したプロスペロ主派の諸教団に対する弾圧を強めているところだし、察するにその粛正の対象となっている会派の一つの僧侶であろうことは見て取れる。
(まずい。妃殿下が――)
セルヒオは、まず即座に踵を返そうとした。ひとまず門の外の事象に対応するよりも先に、妃殿下に広場を離れるよう進言すべきだった。
しかし、遅かった。セルヒオのすぐ後を追うように、護衛たちの制止をやんわりと引きずるような形で、妃殿下が門の近くにまで来てしまっていた。
*
ベルタは、門扉の重厚な鉄格子越しに、跪いて地面に頭を擦りつける僧侶たちの姿を見た。
「なんの騒ぎです」
ただでさえ、先のシエナ会派への粛正断行の記憶も新しい中だ。僧侶たちの逼迫した様子を、遠巻きに見つめる民衆たちの表情すら強張ったものだった。
しかしベルタは、今起きていることに険しく眉をひそめるものの、具体的な状況についてはさほど把握していなかった。
先日のシエナ修道会のことをはじめ、ベルタはプロスペロ主派の内部で細かく細分化され、あるいは階層だって成り立っている諸会派の構造については、あまり知識がなかったからだ。
「妃殿下、我々は! シエナ修道会とは無関係にございますれば!」
「王家の皆々さまへの忠誠心に曇りはございませぬ」
優柔不断な門兵たちは、他の庶民たちの目もある手前、捨て身の覚悟で門前に座り込みを決めた僧侶たちを打ちづらかったらしい。
彼らはベルタの登場にほっとしたような顔をして、ベルタの裁可を仰ぐように一様に彼女に視線を向けていた。
セルヒオの顔色が悪いので、ベルタはどうやらさっさとこの場を収めて立ち去ったほうが良さそうだ。
「どうか、これを――」
「お受け取り下さいませ!」
僧侶の一人が、平伏しながら必死に両手だけを伸ばして何かをこちらに差し出している。よく見るとそれは、粗雑な料紙が折りたたまれた書状のようだった。
ベルタは迷いつつも、言葉だけは強く発して僧侶にそれを退けさせた。
「――手紙を下げなさい」
嘆願書の類は、迂闊に受け取ると痛い目を見る。
僧侶は、思わずというように反射的に顔を上げた。初老の痩せた顔の男だった。
「そういうものは受け取らないわ。私にもし言いたいことがあるのなら、この場で今言いなさい」
ベルタはそう言いながら男を観察した。
生気のない痩せこけた頬。その印象は、なぜか例の異端審問所の長官ジャマスのことを思い出させる。
長く肉食を禁じ、清貧と禁欲の厳格な教えを守り通した人間というのは、皆一様にこうした顔になるのだろうか。
男は大いに言い淀みつつも、ベルタがこの場に留まっているのもそう長い時間ではないと理解しているのか、明確な危機感と悲壮感をその声音に乗せて話し始めた。
その言い条は、ほとんど助命嘆願のようなものだった。
「――先のシエナ修道会への粛正によって、我ら系列とみなされた諸会派も激しくその余波を受けております」
「既に幾人もの信徒が捕えられ、投獄されています」
「修道院も取り潰しに合い、信徒や身を寄せていた孤児たちは路頭に迷い、明日をも知れません」
ハロルドが近頃、プロスペロ教の諸会派に関して、ある程度厳格な対応を敷いていることは知っていた。
「どうか妃殿下! 恐れ多くも妃殿下に反意を向けたシエナ修道会に関しては、そのような粛正の憂き目に遭って当然のこと。しかし我らは単に信仰に生き、神のための日々を送るのみにございますれば」
補助金の打ち切りや修道院領の接収、既得権益の奪取……。
そうした方策によって炙り出されて困窮した者たちだろうと思ったが、先日のシエナ修道会の一件も絡んでいる分、ややこしいのかもしれない。
果たして彼らは、シエナ修道会に危うく異端視されかけたベルタが個人的な恨みをもって、系列の諸会派にまで粛正の手を広げさせていると思っているのだろうか。
いや、それにしては、わざわざその当人に対して火に油を注ぎかねない上申だ。
陛下よりはまだその妃のほうが、弱者に甘い穏当な対応を期待できると、ベルタに当たりにきたのだろうか。
……さて、どうしたものか。
「神のため、信仰のためと、そなたらは言うようだけれど」
ベルタはため息を隠して、ゆっくりと口を開きながら門前の僧侶たちを睥睨した。
「――その神は陛下にこそ、この国土を治められる、包括的な権限をお授けになりました。陛下のご意向に背く行状すらも『神のため』と宣うのならば、邪な教えに染まっているのは、どちらか」
王妃が「甘い」と思って摺り寄られるのは困りものだ。
少なくともこの場では、彼女は彼らの嘆願を受け取るべきではなかったし、そうした捨て身の上申を持ち帰って国王と対峙するだけの気概を見せるべきでもなかった。
「そ、そのような、ことは」
「我らはただ、……貧しき者たちに寄り添い、信仰のために」
「ならばそなたらのすべきことは明らかでしょう。それは、このような場に出てくることではない」
実際は彼らの言っていることのほうが、おそらく人道的なのだろうな、とは思う。
とはいえ政治とは、大を捨てて小を守り抜くという感情論では成り立たないし、この国が融和の方向に向かっている以上、古いプロスペロの急進的な諸会派への弾圧を強めていく方策は、ある程度は仕方のないことだ。
「そなたらは早々に立ち去り、陛下の――この国家の意向に逆らわない限りにおいての信仰を表明なさい」
ベルタは門の外の兵士たちに目配せをして、彼らに僧侶たちをつつかせ、その場から退去させた。
ベルタ自身も後ろ髪を引かれる思いをしながら、自らの護衛たちに強く促されるまま、早々にその場を立ち去った。