【36】余波
叙任式の支度に駆り出されているセルヒオも、同じく忙しい日々を送っていた。
ルイ王子の立太子の式典の日程は、年が明けて春になってすぐの吉日に設定された。
しかしセルヒオたちは万全に万全を期し、年内の早い時期から、王宮の正面広場での予行や場当たりを始めていた。
舞台設営の打ち合わせのため、妃殿下にも臨席を願っていた。
「仕事が早いわね」
身軽な彼女はすぐに応じてくれたが、それでもそう苦笑された。
「広場に雪が降り積もってしまうと、舞台の設置も難しいので」
ここエリウエラル宮で行われる大規模な催し物としては、今回の式典がほとんど最初のものということもあり、セルヒオたち側近連中はどうしても慎重にならざるを得ない。
式典当日の日程は忙しなく設定されていて、実に予断を許さないものだった。
――午前には、王宮の奥まった場所にある王室礼拝堂で、限られた招待客だけを招き、ルイ王子の洗礼式を執り行う。
大抵の場合、洗礼の儀式がそうであるように、それは厳かで秘匿性の高い宗教儀式となるだろう。
しかし一転して正午過ぎには、ルイ王子はこの正面広場で、華やかで盛大な叙任式に臨むことになる。
「この舞台の高さで、ルイの姿は遠くまで見えるかしら」
「もう一段高くしましょうか」
「そうね。それか、ルイが乗る台だけ別に設えるか」
広場に仮組みした舞台の上で、妃殿下は仔細な点の確認に至るまで余念がなかった。
式典の舞台配置や貴族・外国使節の席次の確認、入退場の動線の決定など、細々としたことを詰めていく。
「妃殿下は何色のお衣装を着られますか?」
「私は黒か白のドレスでいいと思うの。ルイには陛下と同じ緋色の衣装を今作らせているところ」
この式典の実質的な主役が、ルイ王子の生母である彼女だということにもはや疑いはない。しかし本人は、演出上あくまで王子と陛下を立てる方向性に考えているようだった。
「白ですと聖職者たちや掲揚旗の色とも被るので、黒のほうがよろしいかもしれません。舞台上の椅子の布張りは貴色の緋色や、妃殿下の衣装と被らないようにいたします」
「衣装を決める者たちと早めに連携させるわ」
本人が出てきてくれると、相変わらず何かと話が早くていい。
細々とした打ち合わせの最中、彼女はかなり神経質に式典の見栄えに気を配っていた。
国王夫妻や司教が舞台上から話す言葉が届く距離には、貴族たちや外国からの使節の席が優先的に配置される。
ただ、正面広場の遠巻きには、ヴァウエラやその周辺地域から一般市民の立ち入りを許可するという方向で調整を重ねていた。
つまり叙任式の日は、国民の目にほとんど初めてルイ王子の姿が映る日になるということだ。
「否応なしに庶民からの注目度も高まっています。何しろ、国の先行きを左右する未来の国王陛下の初お目見えですからね」
幼い王子がその姿を見せる公的行事の機会は少ないということもあり、その期待値は想定以上に高まりつつあった。
この冬が明ければ、たちまち近隣の諸都市から王子の姿を一目見ようと王都に人が流入することになるだろう。
彼女は、それについても微妙に浮かない顔をした。
「情報は正しく行き渡っているのかしら。その触れ込みでいきなり三歳児がよちよち歩きで出てきて拍子抜けしない?」
「事前に絵姿など配布しておきましょうか」
春生まれの王子は、式典の頃にはぎりぎり四歳になるはずだが、とはいえあと数ヶ月で子供が劇的に成長するということもない。
「それは良い考えな気がするわ。画家に絵を描かせる間、ルイを座らせておく練習にもなりそうね」
セルヒオは、実のところこうして直接顔を合わせるまでは、妃殿下の様子を少し気にしていた。
……先日のシエナ修道会との一件で、妃殿下の周囲にはいまだに多少の余波があるだろう。
妃殿下はあの事件で、護衛騎士の一人を死なせている。
彼女は慣例に則り、職務に殉じた騎士の忠心を讃え、騎士の遺族には手厚い補償を付しはしたが、そうした粛々とした事後処理の手続きを見ている限りでは、その内心まではうかがい知ることはできなかった。
護衛騎士というのは、相当に身近な側付きだ。
そういう臣下を亡くしたことに何も思わないような人ではない。
例の事件のことを気にしていたのは妃殿下も同じだったようで、打ち合わせの流れの合間、彼女はセルヒオを気遣って話しかけてきてくれた。
「……パオラはどう? だいぶ回復してきたようで良かったわ」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。やはり宮仕えに復帰させていただいたのが良かったことのようで」
セルヒオの周囲にもあの事件の影響が残っていた。
あの当日、妃殿下が連れていた侍女は、彼の妻のパオラだったからだ。
パオラ自身はなんとか無傷ではあったが、彼女は自分のすぐ近くで護衛騎士が刺殺されるのを目撃したため、しばらく気落ちして過ごしていた。
「パオラは、あの場で気を失ったことを悔いているようだけれど。気にしないでとあなたからも言ってあげて。あの日、私が連れていたのが下手に勇敢な侍女たちだったら、まず間違いなく侍女は殺されていたでしょうからね」
パオラが助かったのは、彼女がその場ですぐに気絶したからだ。
異常事態を主人に知らせようと叫び声でもあげていたら、きっと、殺されていただろう。
「……しかし、妻本人が言う通り、妻が女官としては情けない失態を演じたのは確かです」
「失態のおかげで助かったのだからいいじゃない。別に女官の仕事は、血を見ても平気になるよう鍛えることでもないでしょう」
しかし彼女は、パオラの失態すらも幸運だったと捉えているようだ。
妃殿下はもともと大らかな人だが、彼女は明るくそう言った後、近くの者にしか聞こえないくらいに声音を低めた。
「――必要な犠牲は最小限でいいの」
その言葉からセルヒオは、彼女がシエナ修道会との一件に関する真相を理解しているのだと気がついた。
つまり、今回のことが、新国教会や陛下が仕組んだ策略であったということを。
「パオラが無事で本当に良かった。あなたのために」
――王妃を囮につかう。
異端審問会の性質上、王妃の生命にその場で危険が及ぶような事態は想定しづらいが、その側付きの臣下たちまでは、その限りではない。
セルヒオはもちろん、陛下の側近として、その可能性を事前に知っていた。
知ったところで口を出す余地はなかったし、……たとえその策略で、妃殿下の女官である妻パオラが殺されたとて、そういうものだ、そういう職分だと納得はしただろう。
実際にそれで護衛騎士は死んだし、妃殿下だってもし自身の侍女があの場で殺されていたとしても、そのことをもって陛下を責めるような真似はしなかっただろう。
政治的な大局が絡む駆け引きを前に、仕える個々人の命は必ずしも重くない。今回のことは、そう理性的に切り離して考えるべき局面で、妃殿下の振る舞いは、その意味でも模範的に近かった。
「陛下はもしかしたら、パオラのことであなたに何も言っていないかもしれないけど」
彼女が今言った通りだ。
――必要な犠牲。
別にそういうことで、セルヒオの忠誠心が揺らぐことはないと神に誓える。
「……ええ」
けれど妃殿下は、セルヒオの弱い返答を待って苦笑した。
「でも、彼はきっと言えないのよ。気にしていないわけでもなくて、でもあなた一人にそうやって気遣ったら、何人に同じようにしなければならないのかを気にしてしまうような人でしょう?」
陛下だってもし今回のことでパオラが死んでいれば、その忠心に真摯な対応をくれはしただろう。
けれど彼は「妻が無事で良かったな」とは言えない人だということを、セルヒオだって長年仕えて重々知っている。
「一番近いあなたにくらい、一言あってもいいのにね」
妃殿下は仕方なさそうに肩を竦めて言った。
確かにそうだな、とセルヒオは思ってしまって、彼女と一緒にほんの少し笑みこぼしてしまった。
「はは……それ、言ってもいいんですか?」
わかっているけど、一言くらいあってもいいのにねという気持ちを、他でもない妃殿下に――彼の妻である人に許されるというのは、うまく言語化できない場所で、どうしてかセルヒオを安堵させた。
「こっそり言っているの。これは悪口だから」
そうやって露悪的なふりをして、実際彼女は細やかに気を配る。
そういう彼女の姿は、もうすっかり平素通りだった。
いや、平素よりもなお、こういう時だからこそ彼女は人の心のことを考えるのかもしれなかった。