【34】廃妃の知らせ
秋頃の、修道院領の急激な没収の流れを、プロスペロ教会の本流がただ指を咥えて見ているわけもなかった。
教会との関係性が悪化の一途を辿っていることは、誰の目にも明らかだったが、かの教会が次に打ってきた手は方々を唖然とさせた。
――それは、当国アウスタリアの「王妃」マルグリットと国王ハロルドに対する、婚姻無効の証文の通達という形を取った。
無効理由は、近親婚によるもの。
プロスペロ教皇はついに明示的に、敬虔なプロスペロ教徒国の王女マルグリットという駒を、アウスタリアから取り上げにかかったのだった。
「……その手札は陛下の側こそが持っていたはずでは?」
彼のほうからはいつでも、マルグリットの祖国ロートラントに対して、彼女との婚姻の無効を証明できたはずだった。
しかし、ハロルドがいつまでも諸国との外交の兼ね合いで、のらりくらりとマルグリットを手放さないでいたものだから、先方がついには業を煮やしたということらしかった。
*
プロスペロ教皇の今回やりように関しては、アウスタリア国内に残された保守派の勢力でさえ困惑していた。
つまり今回の件では祖国ロートラントさえ、自国の王女マルグリットを切り捨てる選択を取ってきたということだ。
今は国内で小さくなって過ごしている保守派貴族たち。
本国に見捨てられ、距離を置かれたのは彼らも同じであった。
「……ロートラントが教皇に手を回して切らせたのか?」
「いえ、どちらかと言えば教皇庁の独断に近いかと」
腐ってもかつての最大派閥だったというだけあって、派閥の主軸が倒れて求心力を大きく低下させた後も、彼らはその絶対数自体は保持したまま、緩やかに燻っているような状況にあった。
「しかし、ロートラントがこの件で、強くマルグリットさまを庇うというようなことはないでしょう。マルグリットさまの離宮幽閉の窮状にも、かの国はついには資金援助の一つもしませんし」
彼らは保守派の派閥の中でも、先のマルグリットの政変に付き従わなかった日和見陣営に近かった。
派閥の中でも急進的な層が失脚した後に残ったのは、臆病で及び腰な保身貴族たち。
――あるいは狡猾で、機を読んで待つことの効用を知る、延命特化の陣営とも言える。
「もしくは、別のプロスペロ教国の意図が裏で絡んでいるのかもしれません」
「別の国?」
「……マルグリットさまを廃して、次もまたロートラントか、そうでなくともプロスペロ教国から年若い王女を、我が国に送り込もうと画策しているやもしれませんね。現在はカシャ妃が王妃として立っているとはいえ、アウスタリアの内情を知らぬ北方諸国などは、土着の妃など簡単に押し退けられる愛妾程度に捉えている節があります」
アウスタリアは、その全盛期に比べれば国力は斜陽にあるとはいえ、大陸諸国から見れば依然として大国だ。
王家同士の外交結婚や、血脈的な繋がりを築くことに旨味を見出す者たちは当然多い。
しかし、それらの大陸諸国の画策は、国内の保守派貴族にとっては甚だ迷惑なことでしかなかった。
「――――まったく。余計なことをしてくれたものだ」
彼らは、ここでプロスペロ教会やロートラントが派手な動きを見せることによって、下手に粛正の契機を陛下に与えてしまうことを危惧していた。
「馬鹿なことを。……こんな手に今更意味はなかろう」
大陸諸国の年若い姫君とどういう縁談が持ち上がったところで、陛下がそれを受け入れるわけもない。
「もはや陛下は、やっとのことで得たご実子のルイ王子にかかりきり」
「陛下の目が完全に南に向いてしまっている今、大陸諸国から迎えるような新たな王妃との間に御子をお望みとも思えません」
「ルイ王子が産まれる前か、そうでなくとも誕生直後の一手ならばともかく。国策はここ二、三年で完全に大局を決した」
そう、今回の教皇庁の方策を悪しざまにこき下ろす彼らは、完全に現状に対して静観の方針を決め込んでいる。
なぜなら、従来の保守層に対する陛下の政策は、たいがい穏当でなだらかなものであったからだ。現状のアウスタリア国内では、保守派への締め付け自体はそれほど強くもなかった。
確かに南部太守や北部の新興貴族層が台頭する中で、彼らの席は徐々に数を減らしているが、その既得権益の切り分け方は、彼らが耐え切れないと思うほどには激しい改革ではなかった。
保守派はもともと、財務庁や財務顧問院の動向については無関心だった。
王妃が何やら金勘定に傾注して一族の者を当該部署に官吏雇用させていることなども、内心で若干蔑みつつも、その効用に関してはいまだ大幅に軽視していた。
懸念の的であった改宗の問題に関しても、蓋を開けてみれば新たなアウスタリア国教会の教義は、その内容は従来のプロスペロ教の主派と大した違いはないものだった。
まあ、都合よく領土の巻き上げに遭っている修道会などはたまったものではないだろうが、保守派貴族たちは単に新たな国教会にちらほらと鞍替えし、様子見を貫いてこの苦境を乗り切れば良さそうだった。
彼らはもともと、そこまで信心深くもなかった。
「とにかく、今は耐えて雌伏すべきだ」
「敵意を露わにして陛下に警戒されるべきではない」
彼らが次に勝機を見出しているのは、むしろルイ王子の登極が既定路線となった後の政策についてのことだった。
幸いにして、陛下や南部陣営の頼みの綱であるルイ王子は、世継ぎとしては今のところ愚鈍も愚鈍。
ルイ王子の代になれば、必ず体制のどこかに綻びが出る。
(――ルイ王子の許嫁に保守大国の姫君を当てるなどして、南部を牽制してかかるか)
(――そのためには、あの黒髪の王妃がいささか邪魔ですがな)
(――あるいはそう緩やかな同調路線を取っていると油断させておいて、決める時こそ一気に王子暗殺を謀るべきです)
彼らは声を落として密談を交わし合った。この情勢下の国内で、滅多なことをそう口にすべきでもないし、態度に出すべきでもなかった。
「陛下は今回の件にどう出られるか」
「まあ、どうもなさらないだろう。王太后さまが隣国に手を回して、縁談が公に持ち上がるよりも前に立ち消えにさせて終わりではないか?」
そのあたりの立ち回りは王太后が上手くやるだろう。
しかしそこまで考えた保守派の貴族たちは、やはり既に高齢の王太后に頼りきりの外交戦術には懐疑的になった。
王太后の外交力に頼れなくなる時間はやがて遠からず訪れるだろうが、その時にこの国は、外交の主軸をどこに置くのだろうか。
最大の問題は、現国王ハロルド自身が大陸諸国と有意な交流を築けていない点にある。
しかしそれも彼個人の資質の問題ではなく、もともと彼が王太后の実子ではないという出自に起因する問題なので、当人もわかっていたところでどうにもならないのだろう。
「――そうなると、やはりおいおい、北方の領土への支配が緩んでくるな」
陛下の目は明確に南に向いている。その間、黙ってアウスタリアの背中を見つめている北方諸国でもない。
「北方の飛び領地の辺りは、やはり――」
「し、滅多なことを口にするものではない」
今でさえ、山深い北方の国境付近がきな臭いことは周知の事実ではあった。
他国と接する国境線は往々にして衝突や小競り合いが生じやすく、それが戦争に発展する潜在的な危険は常に付き纏う。
アウスタリアも、もちろん多くの国家の例に漏れず、北にも南にも諍いの種を抱え続けている。
「陛下も、方々に敵だらけで大変なものだな」
もっとも、国体がいかに斜陽であろうと、朽ちる果てる最後の日まで権力にぶら下がって甘い蜜を吸い続けるつもりでいるのが「保守派」だ。
彼らにとって、国策の舵取りの責任などは所詮、他人事だった。