【33】苦しい夜に
ベルタとルイを自室へ返した後も、ハロルド本人は忙しなく過ごし、なかなか部屋には戻ってきていないようだった。
それどころか彼自身も修道院領への接収などに直接軍を動かし、王宮を留守にしていたようだった。
ベルタも身軽だと言われているが、なんだかんだ彼だって相当に動く王さまだ。
数日後、ハロルドがようやく王宮に戻ったと連絡を受けた日の夜。ベルタは彼の部屋に赴いて、その帰りを待っていた。
夜半遅くにようやく部屋に戻った彼は、とても疲れた顔をしていた。
無理もない。
情勢も戦力差もこちらに一方的に有利とはいえ、敵も無抵抗ではない。
追撃軍とシエナ修道会士・傭兵たちとの小競り合いが、各地で勃発したという話はベルタも聞いていた。
そうでなくとも、何か強大な信念を持った集団を相手取って殲滅を仕掛ける、という展開は心身を摩耗するに違いなかった。
「大過なかったか?」
「……あなたこそ」
ベルタがこうして、彼の部屋に訪れることはそう多くなかった。彼はたぶん、自分が疲れた時のこうした顔をあまり見せたがらない。
だいたいは、彼のほうがベルタの部屋に来る。ベルタはそれを待つ。
けれど、そういう関係からベルタが一歩踏み込んでみても、ハロルドは別に嫌な顔はしなかった。
彼が寝台に腰掛けると、部屋の端に控えていた彼の従者が音もなく頭を下げて下がっていった。
今は疲れた彼と話をすべきではないかと迷いながら、ベルタはなんとなく手持ち無沙汰に水差しを持ってみたり、グラスに水を注いで寝台の横のテーブルに置いてみたりと世話を焼いた。
コト、とわずかな音を立てたグラスに、ハロルドがわずかに視線だけを上げた気配がした。
「――ルイの洗礼式だが。……洗礼と同時に、王太子への叙任を盛大に宣明する形を取ろうと思う。これまでは、ルイの立太子に関しては、成人後に自ら意思表明ができるようになる頃を待とうかと思っていたが」
弱い灯りに照らされた室内で、彼の声が響く中、青い瞳にわずかに反射する光だけが瞬いた。
「この問題に関し、これ以上議論の余地を残しておくのは危険だ。ルイの地位も君の立場も、早い段階で国内外に広く知らしめておく必要がある」
「ハロルド」
彼の頭の中はまだ忙しなく働いているらしい。
ベルタは名を呼んで、顔を上げた彼と目を合わせて苦笑した。
「明日にしましょう」
ハロルドもまた困ったように笑いながら、水差しを置いたベルタの手に触れた。戯れるような曖昧な強さで腕を引かれる。
「眠れそうにないんだ」
……目が冴えて。
グラスの中身は、酒のほうがいっそ気が紛れただろうか。けれど酔って解決するような問題とも思えない。
「……寝物語でも?」
内心ものすごく様子を見ながら、ほんの少し茶化してみせる。ハロルドは全部わかっているように笑って、ベルタの腰を抱いた。
「いいよ。話があって待っていたんだろう?」
それはそうなのだが、ベルタが彼に聞きたかった内容も、こんな夜に彼をもっと疲れさせるに違いない。
体が触れ合ったまま近い距離で見上げられ、ベルタは仕方なく、用意していた追及の言葉を口にした。
「……シエナ修道会を焚き付けた、黒幕がいたはずです」
彼がわずかに目を細める気配がした。
「私は異端審問官たちとは、これまで関わったこともありませんでした。けれど長官ジャマスは、私を異端と弾劾したあの日、明らかに確信を持っていた」
「それが奴らの仕事だ。審問官はそうやって鎌をかけて自白を強要する」
ハロルドはベルタから目を逸らしざま、そう答えた。
違和感はずっと付き纏っていた。
「そうだとして、面識のない王妃に向ける態度にしては、あまりにも」
――そもそもあの日、どうして王家の者くらいしか使うことのない礼拝堂に審問官たちが何人も入りこめたのか。ジャマスらはおそらく、あの場からベルタを連れ出せると確信していた。
そして、ハロルドはなぜ、ああまで都合良くあの場に居合わせることができたのか。
「最初は、あなたが仕組んだことだったのかと思いました」
もし、彼本人がシエナ修道会と事を構えるために、ベルタを囮としてあえて審問官を焚き付けたというのなら、全て説明のつく展開だ。
ベルタはずっと彼に目を向け、彼の反応を見逃さないように追っていた。
ハロルドはちらりとベルタを見上げて、ほんの少し表情を緩めて苦笑しただけだった。
「――そうだと言ったらどうする?」
彼のそういうやり方に幻滅するか、と問われても、ベルタは答えられない。
またそうやって、ベルタを蚊帳の外に置きっぱなしにしないでほしい。
「新国教会の者たちですね?」
ある種の確信をもって踏み込んだ言葉を、彼はさすがに否定しなかった。
かの教会には、ベルタを明確に「異端」だと断じることができるだろう程度には、ベルタ自身の思想や不信心を知る人がいる。少なくとも一人。
ベルタが以前から宗教的な講義を受けて、余すところなく信仰について問答をした彼女ならば。
「……シスター・ステラが、彼らに漏らしたということでよろしいですか」
彼女との問答における、ベルタの宗教思想のまずさを追及されれば、それこそ言い訳の隙もない。
正統信仰に全く帰依していないという点では、ベルタは確かにこの王宮の異物に違いなかった。
ハロルドの口調は、この静かな夜に沿うような穏やかなものだった。
「シスター・ステラは俺が知る中で、最も敬虔な、最も気高い。尊敬すべき宗教者の一人だ。今回のことは、……彼女の進言とも思えなかった」
けれど、実質的にベルタの問いかけを肯定した彼の返答に、ベルタは胸の奥が締め付けられるような重い衝動を味わった。
ほとんど確信をもってこうして夜半に詰め寄るまでに至っているのに、ベルタはその事実をまだ受け入れ切れないでいる。
「ただ、彼女は決して君のことを裏切ったわけではなかった」
「……ええ」
「シスターはむしろ、このままいけば、君がいずれシエナ会士の標的となることを見越して危惧していた。――向こうが決定的な場で王妃を糾弾してしまうよりも先に、シエナ修道会を叩いておくべきだと進言してきたんだ」
わかっている。
彼女はベルタを裏切ったのではなくて、彼女の同胞を裏切ったのだ。
要するに、今回の件について表層的な真相を語るとすれば、それは同じプロスペロ教徒間の、会派同士の潰し合いに過ぎないということだった。
「シスター・ステラをはじめとする新国教会の者たちは、シエナ修道会士の長官ジャマスに対し、王妃の異端思想への懸念を密告するという形を取って、彼らがあの日あの場で君を糾弾するように仕向けた。……会士たちを、俺に捕らえさせるために」
シエナ修道会の先鋭的な思想や、前時代的な異端審問所の継続については、既に国内のプロスペロ諸派閥からも眉を潜められていたようだ。
「シスターに言われたよ。君のような人を王妃にし、次の時代に踏み出した王には、過去の遺産を清算しておく責任があると」
シスターたちはその気になれば、国王にだってそれだけ近しく進言できる距離に身を置いている。
けれどシスター・ステラが、その近しい距離感を利用して政治に介入しようとすることなど、今までになかったということだろう。
だからこそハロルドも、彼女の進言に耳を傾けた。
文字通り、捨て身の進言だ。
敬虔な信仰の中に生きる彼女が、明確に同胞を切り捨てる意思をもって立ち回ったことには、ハロルドや王太后はむしろ、今もってベルタ以上に衝撃を受けているのかもしれなかった。
「彼女はもう、君には合わせる顔がないと言っていた」
「……シスター・ステラは、今どこに?」
「既に王宮を辞した。今はまだ王都にいるだろうが、事態が落ち着いたら王都を離れて、小さな市井の修道院などを回ると言っていた」
一瞬最悪の想像をしかけていたから、ベルタは彼女の消息を聞いてほっとした。
けれどそれは、果たして彼女のためになっているのだろうかという問いが浮かぶ。彼女は彼女の哲学の中で救われているだろうか。
「……彼女の意思を尊重すべきでしょうか。つまりは、もう私は、シスターに会わずにおくほうが」
彼女がベルタのためにしたことで、もし彼女が地獄の業火で焼かれるようなことになってしまうとしたら。
「そうだな」
今回のことが、全てベルタ一人のために起きた事件だと考えることは誤りだ。
けれど南部出身の王妃を立てたことで、彼らは今、痛みを伴う変革を突き付けられている。
「そのほうが、本人にとってはきっと楽だろう」
自分たちは、共に歩むことができるだろうと彼女は言った。
ベルタが国母として立つ国は、きっといつかそうなると。
けれどベルタにその祝福をくれた彼女は、ベルタから離れていく。
「……わかりました」
「君が気に病むことはない。彼女は彼女で、それなりに折り合いが付いているから今回の進言に及んだんだろう。母上は連絡手段があるようだし、きっと今後もシスターの消息はわかる」
ベルタに悠長に落ち込まれたら彼女も迷惑かもしれない。
というよりも、異分子であるベルタを王宮の政治機構に呑み込んだことで、最も痛みを受けているのは言わずもがな国王ハロルド自身に違いなかった。
彼はそうして、今回の件について異端審問所の全面的な粛正を自身の政策とした。
それが、プロスペロ教会への明確な造反と取られる危険性も重々に考慮した上で。
「……何か、私にできることはありますか?」
そんなこと、今夜彼に聞くべきではないかもしれない。
けれど彼らが役割をこなしていく姿を、ベルタはただ守られた場所から見ている。
「王妃として、私に」
何かできることがあれば。
彼は優しい顔で、ひどいことを言った。
「耐え続けることだ」
ベルタは、場にそぐわずついつい笑いたくなってしまった。それくらい途方に暮れていた。
なんて、なんの慰めにもならない言葉だろう!
「誰が何を言っても、誰が離れていっても」
それは端的で、つらく、難しいことだった。でも、彼自身が王としてずっとそうしてきた。
その場にあり続けるために、彼はいったいどれだけのことに耐えてここまで来たのか。
そしてこれからも、耐え続けるのだろうか。
「……耐えられなくなったら、あなたはどうするんですか?」
ハロルドは少し俯いて、考えたようだったが、彼がその答えを有していないことは明白だった。
「早くルイに代わってもらおうか」
苦し紛れの冗談。
そういう状況でしか、彼はその重圧のかかる場所から降りたいと自白すらできない。
「それは良い考えです。でも、あと十年と少しは待ってくださらなければ」
早くハロルドが、その王としての重圧を分け合えるくらいには、ルイが大きくなればいい。
ルイが頼もしい王太子になれば彼も安心できるだろうし、もしかしたら、次代に権限を譲与した後には楽隠居もできるかもしれない。
「……君でもいい」
彼は最後に軽い言葉でそう言って、その冗談を切り上げた。