7.
「・・・どうして、花壇を荒らしたの」
まるで独り言のような小さな問いかけ。
ルークの視線は膝の擦り傷に注がれていて、医療用テープの偉大さについて考えていた私は一瞬理解が追い付かず、思わず「え、」と問い返す。
「花壇。花が欲しいなら言えばよかった」
ルークの言葉に、花壇から花を“拝借”した時の記憶が映像のように蘇る。
綺麗に咲いていた花々は、私の手の届くところだけ無茶苦茶に切り刻まれていて、両手に抱えた花は明らかに花としては無念な終わり方をしたような状態だった。
花が、欲しい。
・・・花が欲しかった、のよね。
だから、この子は手元にあった手芸用の華奢なハサミで軸の太い花を切ろうとして、何度も失敗して結果的に花壇を荒らしてしまったのよね。
ふ、とさらに深いところにあった記憶が蘇る。
まだ“私”の記憶を得る前の、この世界で育った8歳の私の、ほんのささやかな願いとともに。
「・・・ええ、確かに花が欲しかったの、よ。でも、それは誰かに用意してもらった花じゃダメだった。この手で摘んで、この手で生けないと意味がなかった。・・・ガーランドさんが育てた花をもらう時点で、誰かに用意してもらった花なのにね。」
ふふ、と苦笑すると、私の膝に傷薬を塗り終えたルークが顔をあげる。
目線は見えないものの、続きを促されているような気分になり、私はひとつ頷いて続ける。
「父さんと母さんのお部屋に飾るつもりだったの。毎日メイドさんたちがきれいにしてくれて、父さんたちが帰ってくる予定に合わせて花だって飾ってくれてたのに、自分で花を摘んできて、自分で父さんたちのお部屋に飾れば、もしかしたら父さんと母さんが帰ってきてくれるかも、なんて考えちゃったのね。きっと喜んでくれて、ほめてもらえるんだわ、って。それで、思いついてしまったものだから、試してみずにはいられなくなったの。考えなくたって、私が彼らのお部屋に花を飾ったからって、二人が帰ってきてくれるわけなんてないことくらい分かるのに、もしかしたら、に縋ってしまったのね。ほんと、馬鹿なことをしたものだわ。花だけでなくハサミも駄目にしちゃったし。それに理由も言わずに大切な花壇を散々荒らしたから、ガーランドさんと仲直りもできなくなっちゃったし」
薄く笑うと、私の話を聞きながら膝の傷の処置を終えたルークが立ち上がり、隣の椅子に腰かける。
これが偽らざる事の顛末。
お嬢様は屋敷に置いて行かれてさびしくて、どうにかして両親にそばにいてほしくて、つまらないことがすごくいいアイディアに思えて、どうしてもそうしなきゃならないような気持ちになって、そのつもりなく花壇を荒らしたのだ。
誰にも手伝ってもらわず、自分の手で花を摘んできて飾って、ただ、両親に喜んでもらいたくて。
「・・・そう。次、旦那様たちが帰宅される時は、言えばいい。」
「え?」
ルークはテーブルの上に並んでいた道具を一つずつ丁寧に木箱に片付け、それを棚に戻すために立ち上がると半身だけ私を振り返る。
「花の切り方、教えてあげる。ガーランドさんに許可とって、部屋に飾る花、見繕えばいい」
彼はそれだけ言って私に背を向け、救急箱を元あった場所へ戻そうと棚のほうへ行ってしまうて。
「ちょ、待って!もういいのよ!」
慌てて声をかけると、振り返った彼は長い前髪のせいで相変わらず表情が読めないけれど、それでも私の言葉の続きを待っている気がした。
「・・・前に、花壇を荒らした時ね。考えなしだったから花瓶もなくて、応接室にある花瓶を勝手に持って行ったの。生けてあった花はそこに置いて、ね。花瓶が大きくて重くて、入ってた水をあちこちこぼしてしまって、なんとか父さんたちの部屋まで持って行ったんだけど、それはもう酷くて」
その時のことを思い出して、思わず自嘲気味の笑みを浮かべる。
一抱えはある花瓶に、半分ほどしか水がないのにほとんど茎がない花を一生懸命押し込んだそれは、お世辞にも鑑賞に耐える代物ではなかった。
花壇を荒し、ハサミを駄目にし、綺麗に生けられた応接室の花をしおれさせ、あちこちに水をこぼしてやっとのことで達成した目的がそんな有様で、そしてもちろん願いも叶わなかった。
またお嬢様がいたずらをした。
もういい加減にしてほしい。
何度掃除をさせれば気が済むのかしら―――
そんな、使用人たちの声がひそひそと聞こえてきて、そして何よりも辛かったのが、その次に両親が帰ってきた時、私のしでかしたその“いたずら”について、なんのお咎めもなかった事。
彼らは、私が彼らの部屋にひどく不格好な花を飾ったことを知らなかったのだ。
私の願いも想いも、“いたずら”ともどもなかった事にされてしまった。
「もういいの。―――私は、ただ、私のことをきちんと見ていてくれる誰かが欲しかったの。片手間でなくて、いつでもそばにいて、私をしっかりと見ていてくれる誰かが。でも、それを領主である父さんとそれを支える母さんに求めるのが・・・間違いではなくても、100%正しくもないことは理解できたわ。だから、今はもう平気だしもういいのよ。お花を飾って両親の気を引いたって結局一時的なものだし、私一人が彼らを独占できないこともちゃんとわかったから」
要するにお嬢様は、ごく当たり前のことを望んだだけだった。
自分を愛してくれる誰かにそばにいてほしかった。
一番順当に、両親を求めた。
その願いは何をしても叶えられずに、そして、どうしても満たされない承認欲求にいつも苛まれていて、いたずらという形で大人たちの気を引いた。
自分の気持ちを、上手に言葉にできなかったから。
けれど言葉の代わりの行動で大人たちの仕事を増やすせいで嫌われて、さらに周りに人がいなくなって、心の空洞が広くなって。
寂しい。誰か助けてほしい。そばにいてほしい。私を、きちんと見ていてほしい。
満たされない気持ちだけ増えていって、それをうまく言葉で伝えられなくて、どうにかしたくてまた“いたずら”と呼ばれることをして。
悪循環だった。
――まぁ、それももう終わりだけど。
“今の私”であれば、親の仕事も理解できるし誰かに認められたい、見ていてほしいという人間として当たり前の欲求も、ある程度制御して抑え込むことができる。
今の状況が寂しくない、と言えるほど冷血ではないつもりだけれど、私には逃げ場がある。
かつて、27歳のしがないOLだった時の、本当にささやかな日常の記憶という逃げ場が。
そこにはもちろん、かつての私の両親や妹との記憶もたくさんあって、確かに愛されていたと感じることができる。
私はこんなになってしまったけれど、今でもきっと、私が彼らに家族の情を持っているように、彼らも私のことを想っていてくれるはずだ。
例え彼らの記憶の中で、私が永遠に27歳のままだったとしても。
当面そのあたたかな“家族”の記憶を支えにして、ゆっくりとこちらの世界に居場所を作っていけばいい。
「良くはない、でしょ」
棚に傷薬を戻したルークが、こちらにしっかりと体を向ける。
そして、私のほうへ歩いてくると座った私をまっすぐに見下ろす。
「今の状態のままなんて、良くはない。こどもがそんな風になんでも聞き分けよく理解するのも、良くはない」
真剣な声の調子に思わず彼を見上げると、前髪の隙間から濃いエメラルドのようなきれいな森の色の瞳が垣間見える。
とてもきれいな色なのに、なぜ隠すのだろう、なんてどうでもいいことを考えていると、私がきちんと理解できなかったと思ったのか、ルークがさらに言葉を続ける。
「今度こそ旦那様たちの部屋に花を飾って、気持ち、伝えるほうがいい。―――俺も、手伝うから」
「・・・え?あ、はい?」
なんだかずいぶんと間抜けな返事をしてしまう。
色々とあってもう平気、というのを理解してくれるまで説明するのが面倒だったのと、ずいぶん真剣に私に向き合ってくれる彼に、なんだかびっくりしてしまったのと。
きっと今の私はとっさにした返事と同じくらい間抜けな表情をしているだろうけど、ルークは一つ頷いて了承の意を伝えてくる。
どうやら、次両親が帰ってくる時は生け花の実習をしなければならないようだ。
―――別に愛着もない生物学上の親のために、大人ほど器用ではないこの体でお花を生けるのとか正直ちょっとめんどくさいし、なんとか回避できないかしら。
両親が帰ってくるのが楽しみすぎて熱が出た。
アリよね。
ルークの親切に対して不謹慎なことを考えた天罰が覿面にあたったのか、小屋の入り口に唐突にぬっと人影が現れる
ずんぐりがっしりした体格にぼさぼさの髪と髭、眉毛の下のぎょろぎょろ動く茶色い目。
ガーランドさんの出現に、私は我知らず ひぇ、と小さく悲鳴を上げてしまう。
神様、仕事が早すぎます。
確かにちょっとだけ不謹慎なことを考えたわ。それは認める。
でも、実際にはまだ熱が出たふりとかはしていないわけだし、この罰則は不当だわ。
ここはもちろん三十六計逃げるにしかず、迷わず走ぐるを上と為す。
「あああ、あの、ありがとうね、おかげで助かりました。では、私はこれで!」
ルークに傷の手当のお礼を言うのに思わずどもったけれども、そもそもガーランドさんとは初対面から怒鳴りつけられたので本能的に恐怖する仕組みがすでに出来上がっている。
頭では彼が正しい、正当な主張で怒っていると理解できていても、体が竦む。
その彼がドア口に立って、こっちを睨んでいるこの状況で平静を保てるかというと否だ。私がもう少し身体的に大人になって、彼がもう少しおじいちゃんになれば彼の身体的優位性が崩れ、あるいはこのトラウマも克服できるのかもしれないが、今はまだ時期が悪い。
そうよ、前にも言ったけどこれは戦略的撤退。
命を守る行動ってやつよ。
私は椅子からぴょんと飛び降りて、膝の傷に来た衝撃に一瞬だけ顔をしかめてから傍らのテーブルの上にある本に手を伸ばした。
残念ながら若干身長が足りなかったので、察したルークが取ってくれた本をありがたく受け取る。
うわ、表紙に傷が・・・。
これ怒られるわよね。またいらんことをした!って。
とりあえず見なかったことにして、本をぎゅっと抱きかかえると小屋の唯一の出入り口に向かう。
そう、私の天敵によってふさがれている出入り口に。
目を合わせちゃだめよ。
通り過ぎざまちょっと会釈とかして、脇をかわして気配を殺して逃げるのよ。
大丈夫、前世で散々捕まると面倒臭い部長相手にやったから、ある意味得意だものね。
しかし、前世の私が磨き上げた“衆目用に最低限の礼儀を発揮しつつ厄介な相手に存在を気取られず気配を殺してウォークスルーそののち全力離脱”というOLスキルの最上級みたいなヤツはその威力を発揮することなく終わった。
―――修業が、足りなかった。
やはりこの体はまだこども―――主に気配を殺して背景に同化することについて、圧倒的に、経験不足だった。
目礼だけで脇をすり抜けようと試みた私の行動はもちろん許されるはずもなく、通り過ぎざまにガーランドさんに首根っこを摑まえられて猫の子みたいに持ち上げられ、もといた椅子へと戻される。
猫ならともかく人間に対して首根っこ掴むのはやめてもらいたいものね。
リアルに首が締まって一瞬目の前が真っ白になりかけたわ。
二度目の人生、事故死だけは絶対に避けると決めたのに、さっそく過失致死未遂。
さすがにこれは抗議しても正当性は我にあり、と、そばに立つ威圧感たっぷりのガーランドさんを見上げると、目があった瞬間彼のほうが目をそらした。
うっぐ・・・!こちらもこちらで反射的に体が怖がるものだから、抗議の言葉が出てこない・・・!
「・・・あの花は切り花にゃ向いとらん。地面から離したら2日ともたんからな」
「うぇ?」
私の取り扱いに対して抗議しようと思っていた矢先に全く関係のないことを言われて、一瞬理解が追い付かない。
妙な声を出した私に、眉間にたっぷりしわを寄せた怖い顔を向けて、ガーランドさんが繰り返す。
「だから、あれは向いとらんのだ、切り花には。・・・切り花用はこの奥の花壇だ。次、旦那様が戻られる時にゃルークに見繕ってもらえ」
それだけ言うとガーランドさんは足音も荒くさっさと小屋を出て行ってしまう。
後ろからちらりと見えた彼の耳は真っ赤になっており、なにか知らないけれどまた怒らせたのかも知れない。
ああ、諦めないって言ったけど、彼との関係改善とかホントに絶望的ね。
「良かったね。花、くれるんだって」
私たちのやりとり、というか、一方的にガーランドさんがなにか言っていたのを傍で聞いていたルークが、唇に薄く笑みを乗せる。
「え?・・・え?あ、そうなの?・・・私また何かして怒らせたんだろうな、ってことしか分からなかったわ」
困惑して彼が出て行った小屋の出入り口を見ていると、ふ、と空気がこぼれるようにルークが笑う気配がする。
「あの人、しばらく前に来て、ここに入るに入れず全部聞いてたから。もう、怒ってないよ」
・・・うわ、ずっと外にいたのね。
しかもなんでか知らないけど怒りは解けたらしいし。
・・・あれ?
神様ありがとう?って言うべきよね?
何もしてないのにあれだけ拗れに拗れてたガーランドさんとの関係が、若干持ち直した?
「また、来ればいい」
ぽつりとかけられた言葉に、本を抱いたまま私はルークを振り返る。
「花の世話、すれば、“ガーランドさんの花”じゃなくなる。やり方、教えるから」
「えっ・・・」
私のために自分の仕事が増えるようなことを、彼は進んで請け負うと言ってくれているように聞こえる。
なんだか少し、元気が出るわね。
自分付きの侍女にまで嫌われているお嬢様を、それでもこうして見てくれようとする人もいる。
視線を落とすと丁寧に包帯が巻かれた両手が目に入る。
「ありがとう。誰かにこんなに優しくしてもらったの、初めてだわ」
私の返答を急かすでもなく待ってくれている彼に、心からお礼を言う。
私は今、前世の記憶を取り戻してから初めて、心から笑っていた。
意識して笑みを浮かべて見せるでもなく、ただ嬉しくて。
もしかしたら、いつか屋敷のみんなと仲直りできる日が来るかもしれない。