5.
この2週間でずいぶん馴染んだ廊下を歩き、書庫へと到着。
この屋敷が自分の家という感覚はまだ薄いものの、学校か会社程度にはなじみのある場所になった。
書庫の大きな木製の扉を一生懸命押し開けて、必要な隙間を確保するとそこから体を滑り込ませる。
書庫は今日も静謐と紙のにおいで満たされており、2階まで吹き抜けになった壁面全体が作り付けの本棚なのは、さすがに歴史ある公爵家、という風格だ。
背の高い窓が並ぶ一面以外の三方が本棚で、一部の本棚が壁面からせり出し、まるで階段箪笥のように本棚兼2階への動線になっている。
もちろん、階段箪笥と違ってきちんと手すりはついているが。
そして、吹き抜けの2階をぐるりと回廊が囲み、いちいち1階に下りずとも簡単に調べ物ができるようにところどころに低いテーブルとスツールなど置いてあったりもする。
もちろん1階には本格的に調べ物や書き物ができるライティングデスクをはじめとして、ゆったりくつろいで読書するためのソファや、ちょっと本の中身を確認するためのスツールなどが背の高い本棚の合間に点在している。
広さといい設備といい、小さな、そして贅沢な私設図書館の体である。
私がその私設図書館に滑り込むと、たいてい無人であるそこに、今日は先客がいた。
窓際にしつらえられた読書スペースに兄が座っており、入ってきた私に気づいて友好的とは言い難い視線を投げつけてくる。
外からの陽光を銀色の髪が弾き、生まれながらの貴族然とした美少年が気だるげにソファで本など広げてくつろいでいるのはまるで一幅の絵だが、いかんせん視線だけで邪魔者を焼き殺せそうな冷たいその表情は、絵にするには少々向かないだろう。
兄は無言で本を閉じるとソファから降りようとしたので、邪魔者たる私は慌てて両手を広げてストップのジェスチャーをする。
「ごめんなさいね、くつろいでいるところお邪魔をして。すぐに出ていくからそのままでいて」
精一杯愛想よく笑うも、兄の視線は冷たさを増しただけ。
私は慌てて手近な本棚から適当に本を抜くと、もう一度兄に向って謝罪の意を込めて微笑んで見せてから書庫から退散した。
いつも私が占領しているから兄はゆっくり読書もできないのかもしれないし、ここは譲るべきと判断したのだが、私は書庫に行くとたいていお茶の時間にアルマが呼びに来てくれるまでずっとそこにいるので、その間にお部屋の掃除などしてくれることが多く、従って部屋に戻ると今度はアルマの仕事の進行を妨げることになる。
かといって、屋敷内をあちこち探検した限り、落ち着いて本を読めそうな場所というのも他にない。
―――仕方ない、か。
私は小さくため息をついて、玄関ホールを目指した。
庭の木陰に座を占めて、おとなしく本を読んでいるのが最善、という判断だ。
屋敷の規模に対して全体的にシンプルすぎる調度でまとめられている“我が家”だけれど、玄関ホールはさすがにこの家の顔だけあって、来客向けに美術品や花で整えられている。
ここも2階まで吹き抜けになっており、大理石の床に豪華な絨毯、美術品として価値のありそうな大きな花瓶にあふれる花、という具合だ。
掃除も、よくこんな少人数で分担して全てをこなしているのにこれだけ丁寧にできるわね、と感心するほどチリひとつ落ちていない。
私が目覚めてからはお嬢様も散らかさないし、ちょっとは不要なタスクの削減に役に立っているはずだけれど、それにてもスタッフのレベルは高い。
感心しつつも書庫のそれより大きな玄関扉を全身を使って押して開け、私は屋敷を脱出し、陽光の中へ出た。
一瞬目の前が真っ白になるほどのまぶしい光に目を閉じて、ゆっくり開けると遥か先の門まで馬車のわだち跡が刻まれたまっすぐな石畳の道が見え、両脇を丁寧に手入れされた緑が飾る。
柔らかい暖かさを含んだ空気が頬を撫ぜて、ふわりと庭の花の香りが届いてくる。
春ね。
持ってきた本を抱えなおして玄関ドアを閉め、私は石畳の道を庭園へ向けて進み始めた。
この石畳というやつ、見ている分にはとっても中世ヨーロッパ的で素敵なんだけれど、歩くとなると最悪だ。
前世で石畳というときっちり成形された石のタイルがわずかな継ぎ目で平らに敷き詰められているものがおなじみだったか、石材の成形技術も未熟なこちらでは見た目こそ優雅で美しく見えても、とにかく凹凸がすごい。
でこぼこなのだ。
大切なことなのでもう一度言うけれど、これが本当にでこぼこなのよ。
幸いにしてお嬢様はまだ踵の高い靴デビューはしておらず、踵が1センチあるかどうかというほぼ平底のパンプスのような靴を普段履きにしているため注意していればそうそう足を取られることはないのだけれど、これからハイヒールを履くようになればここは正しく地獄の1丁目と化すだろう。
もともと踵の高い靴が苦手だったので、今から憂鬱だ。
暗澹たる未来に我知らずため息が漏れるが、本を抱きしめて庭を進むうちにその溜息は今度は別の意味を持つ。
とにかく、見事な庭なのだ。
季節が春ということもあって、丁寧に手入れされた花々が咲き乱れ、蔓薔薇のような植物が巻き付いた木製のアーチなど、こぼれんばかりに咲いた花が美しすぎて本気でため息が出た。
ところどころに噴水があったり、小さな迷路があったり、とにかく庭師の腕が存分に発揮され、散策者を飽きさせない庭なのだ。
けれども。
私が普段ここではなく書庫を選ぶのにはもちろん理由があって。
「また来たのか!!今度花を荒らしたら許さんと言ったはずだ!!」
背後からの突然の怒声に、私の肩が反射的にびくりと上がる。
―――そう。
これが、あまり庭に出てこない理由。
「が、ガーランドさん!もうお花を荒らしたりしないわ!ちょっと庭の隅を借りたいだけで」
振り返った私の視界には、手入れをしていた庭木の陰から目ざとく私を見つけて石畳の歩道に出てくるがっしりした中年の庭師の姿。
そんなに上背はないのだけれど、いかんせん肩幅が広くていかついおじさんな上、ぼさぼさの黒髪にたっぷりの髭、もじゃもじゃの眉毛の下にはぎょろぎょろ動く迫力満点の目と来たものだから、身長が低めでも迫力は満点。
それに、もう慣れたつもりだけれど、やっぱりもともとの自分よりもずいぶん視線の位置が低くなってしまった今の自分から見れば十分に大男だ。
こちらが本能的に恐怖を覚えるのは仕方がないことだし、相手が私を見てとっさに威嚇するのも仕方がないこと。
私降臨前のお嬢様は庭の花を勝手に摘んでおり、庭師の彼からすると私は庭を荒らす害獣、といったところか。
主家のお嬢様に対してなかなか強気の対応だけれど、庭を見てわかるとおり彼は本当にこの庭を愛し、丹精込めて世話をしているので、こうなるのもある意味仕方がない。
“摘む”なんて言ったけど、実際は“荒らす”のほうが近いような状態だったし。
剪定用のはさみを手にこちらに大股で向かってくる姿は職人気質の庭師というか悪鬼の様相で、生存本能が逃げろと警鐘を鳴らす程度には剣呑だ。
特にこの体はまだほんのこども。
太刀打ちできる相手ではない。
私は本を抱えなおすと、ガーランドさんに視線を向けたままそろそろと後退する。
「本当に他意はないのよ。部屋の掃除をしてもらっていて、書庫も使えないから本を読むのに木陰を借りたいだけなの」
庭へ来た理由を説明するも、ガーランドさんのぎょろっとした目で睨みつけられると、前科がある私は全く信頼されていないことが知れる。
距離が近づいてきていよいよ本能的な恐怖が制御しきれなくなり、思わず彼に背を向けると、私は本を抱きしめて戦略的撤退をすることにした。
これは敗走ではない。あくまで、一時的な撤退なのよ。
関係改善を諦めたわけじゃないんだからね。
ダッと走り出した私を、幸いにも彼は追いかけてはこなかった。
でも彼の視界にいるうちは針のムシロから逃れられないような心もちだったので、私はメインのルートから外れて枝分かれした小道をあてもなく走る。
この体には大きすぎる本が重くて、何度も抱えなおしながら。
お嬢様はこれまで運動を積極的にしてこなかったらしく、すぐに息が上がって肺が締め付けられるように痛む。
それでも必死で足を動かして、そして私は派手に転倒した。
ああ、石畳・・・本当に、憎らしいわ、石畳。
見た目以上にでこぼこのある石畳に足を取られて、体が一瞬浮く。
大人の私でも転ぶ自信があるのに、こどもならさもありなん。
今更遅いけれど。
足を取られ、驚いて放してしまった手から革表紙の本が飛んで、あ、と思う。
本に傷が、と思っていたら体が地面にたたきつけられ、瞬く間に全身から痛みの信号が送られてくる。
体の反射で目にはたっぷりと涙がたまり、しかし前世27年の経験で耐えていれば一時的な痛みはやがて引くことが分かっているので、泣きわめこうとは思わない。
倒れこんだ時に全身に受けた衝撃でしばらく起き上がれずに冷たい石畳に転がっていて、衝撃が去った後にあちこちから上がる痛みの悲鳴をなんとか無視しつつ、そろそろと手をついて倒れた姿勢から体を起こして座り込む。
まず手のひらが目に入って、とっさに頭を庇うため前に出したせいで、柔らかい両の手の平は石材の鋭角でついた切り傷だらけになっていた。
ホント石畳って見た目だけでいいこと一つもないわね。
とっさに手を犠牲にしたおかげで頭や顔に怪我はないようだ。
けれど、目視で確認するまでもなく膝のほうはひどい状態だろう。
何せスカートなので、かばってくれる衣服すらないのだ。
・・・スカート!
今日は淡い水色のワンピースを着ていた私は、慌てつつも手のひらの血をつけないようにスカートを持ち上げて、膝からの出血で生地を汚さないようにする。
もう無駄かな、と思ったけれども、倒れた時に都合よくめくれあがったおかげで凄惨な膝の事故現場には触れなかったようで、水色の生地に汚れはなかった。
ハーフパンツみたいな長さのドロワーズとかいう下着が微妙に膝に触れそうだったので、膝上で絞られた部分を片方ずつぐいと上に押し上げておく。
この下着も誰も見ないのに裾に無駄なフリルがたっぷりついていて、白いから血なんかついたら後が大変だ。
下着の処理を終えてほっと一息つき、手首までをかばってくれた袖も確認。
幸い砂利が少しついていたくらいで破れたり血の汚れはないようだったので、念のため指先を使って注意深く肘までまくり上げておく。
よかった。
血ってついてすぐ処理しないと取れないのよね。
自分で処理できるならまだしも、ここで“私”がそんなことをするわけにはいかないし、誰かの余計な仕事を増やさずに済んで一安心だ。
目にいっぱい溜まっていた涙が堤防を越えてあふれ始めたので、血をスカートに落とさないように注意しつつ手の甲でそれをぬぐう。
痛みによる警告はずっと続いており、一度ぬぐった涙もすぐにまたじわりと目を潤してくるけれど、一旦無視の方向で。
久しぶりだわ。
こんなこどもみたいな転び方をしたのなんて。
とりあえず手足に擦り傷切り傷がたくさんできたものの、致命的な怪我は負わずに済んだことにほっとしつつ、今度は本が心配になって視線を本のほうへやる。
と。
さっきまで誰もいなかったはずの道の先に、男の子がひとり立っていた。
男の子、という言い方は少々語弊があるかもしれない。
地面にへたり込んだままの私から見ても十分背が高く、年の頃は10代半ばから後半に差し掛かったくらい。
“私”の感覚では男の子でも、少年と呼ぶほうが相応しいか。
白と灰色を混ぜたようなまだらの髪はぼさぼさと無造作に伸ばされ、長い前髪のせいで目の色がわからない。
華奢ではあるがしっかり筋肉のついた腕がまくり上げた裾から覗き、庭仕事をしていたのか土汚れが見える。
彼は確か、ルークっていうんだっけ。
記憶を探ってなんとか彼を思い出す。
庭仕事の手伝いから簡単な大工仕事、薪割りなんかまで幅広く雑用をしてくれていたはずだ。
お嬢様との直接の接点は・・・なかったように、思う。
ただこの子が覚えてないだけかも知れないけれど。
私の状況を察したルークは、さわらぬ神に祟りなしとばかりに無視して行ってしまうかと思ったけれどその逆で、こちらへ近づいてきた。
「・・・転んだの」
私の傍らに来てしゃがみこんだ少年が無愛想な声で、ぽつりとつぶやくように言う。
本当につぶやくようで、私に対して言われていると思わなかったので一瞬反応が遅れたけれど、ふと我に返った私は思わず首を横に振る。
・・・いや、まぁ、言い訳のしようもなく明白に、転んだんだけどね。
「あの、大丈夫よ。問題ないわ。一人でお屋敷に戻れるから、気にせず仕事をしてください」
彼の目が私の手の傷と擦りむいたと言うにはちょっとアレな状態になった膝とを往復し、私は慌ててスカートをつまんで彼の視界から膝を隠す。
でも汚さないように傷口に触れないよう持ち上げた状態で。
転んだのは久しぶりだけど、私だって伊達に2回目のこどもをやっているわけではない。
前回だって散々転んで大きくなったのだから、経験値は十分。
このくらいの痛みでわんわん泣いたりしないし、どこかで傷口を洗ってアルマに心配をかけないようにどうにかこうにか誤魔化して・・・
すっと私にかかった影がどいて、彼が立ち上がったのを思わず目で追う。
髪で隠れて目が見えないため表情の読みにくい彼は何も言わないまま私に背を向け、来たほうへ戻りはじめる。
―――ありがとう。声、かけてくれて嬉しかったわ。
その背中へ向けて心の中でつぶやいて、私は目下の問題に意識を戻す。
少しだけ、ああ、ほんとに行っちゃうのね。と思わないでもなかったけれど。
でも庭仕事含めいろんな雑用をこなしてくれている彼の邪魔を、このお嬢様が一度たりともしなかったと思えるほど、私は気楽にはなれない。
時間、まだまだかかりそうね。
これにて連投一旦終了。以降週一程度更新予定です。宜しければ引き続きお付き合いください。