49.
つい先ほどまで確かに狼の姿をしていたもの―――そして、今や人の姿を取った見慣れた青年は、まるで何事もなかったかのように当たり前にそこにいて、私はそんな彼をかける言葉もなく馬鹿みたいに口を開いて見つめるばかりだった。
いきなりが過ぎるわ。
怪物ランドの洗礼を浴びるのは一体これで何度目だろうか。
前世の常識は今生の非常識。頭では理解してるつもりなんだけど、毎度こう不意打ちだと対応が追い付かない。
「・・・水」
ふう、と大きく息をついたルークが、私に向き直って不意にそう言うので、今やエルメラちゃんが水のお皿を取り上げようとしたり、そのあと頭を抱えていた理由が完膚なきまでに理解できてしまった私は慌てて足元の水差しを取り上げると、それを両手でぎゅっと握る。
「ごっ・・・ごめんなさいね!!わた、私、知らなかったのよ!まさか自分が、“お水が欲しければ跪いてお飲みなさい?”みたいなことをやらかしたなんて!」
ビジネス女王様は仕方がないから求められるならやろうと思っていたけれど、まさか必要のない相手にまで女王様を発揮してしまうなんて思ってもみなかったのだ。
エルメラちゃんめ、ルークに気付いた時点でもっと適切な言葉で素早く私を抑止してくれていたらよかったのに・・・!
「いや・・・水、もう少しもらえる?」
慌てて謝る私とは対照的にルークは相変わらずの平熱が低い感じで、そんなに気にした様子でもなかった。
でもまぁ、彼が気にするのと私がやらかしたことをきちんと反省するのは別問題だからね!
「ええと、ちょっと待って!何かちゃんとした杯を持って・・・いや、早くおうちの中へ入りましょう!そうしたら杯もあるし、お水ももっとたくさんあるわ」
水差しを持ったまま右往左往し、混乱状態ながらベストと思われる判断を下すも、伸びてきたルークの手が水差しを持って行ってしまう。
そして、杯を待つ間もなく水差しから直接残った水を飲み干して、また一つ大きく息をつくとやっと乾きが癒えたようだった。
空になった水差しを返してもらおうとするも、その前にエルメラちゃんとアルマが私の前に割り込んできてさっさとお皿と水差しを回収していく。
二人とも動揺しているようで、なんだか動作がいつもよりぎこちなく見えた。
エルメラちゃんは気付いて止められなかった動揺、アルマは私と同じで知らなかったから動揺しているように見え、気付いていたのかいなかったのか、ミケーラだけは全く動じることもなく私の後ろに控えており、振り返って彼女らの動きを確認していた私と目が合うとはにかんだように笑って視線を下げた。
・・・やっぱりこの子の世界、ちょっと私が中心すぎないかしらね。
「疲れたろ。とりあえず部屋へ行って休んでな。風呂の用意をしてもらってるから。夕食前くらいに呼びにやるから、今回取ったルートの確認だ。それが終わりゃ後は領地に帰るまで休み、ってことで、ゆっくりすりゃいい」
父さんがルークの背中をぽんぽんと叩き、お屋敷のほうへ促しながら今日と今後の予定について話しているのを聞きつつ、私たちも父さんとルークの後を追って一緒にぞろぞろと屋敷へと引き返す。
ルークをお部屋に案内する、という仕事が発生してしまったようで、エルメラちゃんが手にしていたお皿をミケーラに手渡し、さっと先導するように先頭に立つと、こちらへ、とルークに声をかけていそいそとお屋敷のドアに手をかけ、重そうに見えるその立派な扉を大きく開く。
お屋敷案内ツアーができなくなって内心いくらかしょんぼりしているだろうに、今は私がやらかして彼女が片棒を担ぐ形になったルークへの仕打ちのほうが頭を占めているらしく、わずかに残った動揺以外の感情は見えなかった。
「父さん、私も年明けに領地へ戻るまで特に何もしなくていいのかしら?」
少し足を速めて父さんとルークに並びつつ問いかけると、父さんは私のほうを見て唇に太い笑みを浮かべながら一度頷く。
「今年は慌ただしく王太子殿下の生誕祝いに出席したからなぁ。一人で夜会や茶会に出るのはもう少し慣れてからで構わないさ。普段は毎日勉強してるだろ?ミザリーも少しゆっくりするといい」
毎日勉強と言っても、先生に教わる歴史と一般教養、マナー等に最近ダンスが加わった程度で、マナーは貴族の特殊なヤツを除けば前世のそれと大差ないので別段勉強しているという感じでもなく、勉強も一度勉学から離れた身であったのが幸いして割と楽しくやれている。
唯一ダンスがちょっとアレだけど、精神的に鬱になるほど大変、というわけでもない。
正直なところ、たかがあの程度のタスクで労ってもらえるとか、やっぱりうちの教育方針は甘すぎるんじゃないかと思う。
お兄ちゃんはもっと長い時間お勉強に武術の稽古にと拘束されてるみたいだから、私に対する教育方針が、と言ったほうがいいかもしれないけれど。
・・・なんにせよ、貰えるお休みなら遠慮なく貰っておくけれどね。
「そう・・・折角王都にいるんだし、お屋敷の外を見てみたいわねぇ」
「屋敷の外、か。・・・そうだなぁ、そういえばミザリーと出かけた事なんて数えるほどもなかったなぁ」
半ば独り言のようにこぼれた私の本音を、父さんが妙にいい耳で拾ってしみじみとつぶやく。
やっぱり仕事がちで、ろくすっぽ家庭を顧みてこなかったのね、この人は。
分からないでもない。分からないでもないわ、前世職業婦人だったから。
でもきっと、こどもたちは寂しかったでしょうね。
「がーちゃんと一緒にお屋敷の周りを探検してきても構わないかしら?」
どうせ聞こえているのだから、と開き直って聞いてみると、左肩のがーちゃんが慌てる。
「ちょっとご主人!鴉に期待が過ぎますよ!!せめてミケ姐さんを護衛に連れてってください!」
「ミケ?・・・ミケーラ?護衛に?」
突然護衛に猫兄弟の末っ子長女を指名したがーちゃんの言動を不思議に思い、がーちゃんを見るために左を向いた視界に斜め後ろにいたミケーラも入っており、ぱっと顔をほころばせた少女が嬉しそうに何度もうなずくのが嫌でも目に入ってしまう。
・・・そういえばミアーニャが言ってたような気がするわね。護衛も兼ねてる、とか。
でも正直、有事の際に自分より小さな女の子を盾にするとか私にはできないわ。
「いやぁ・・・三人だけ、ってわけにゃいかないな。どうせなら父さんと王都見物へ行くか。馬車を出して、この周辺だけじゃなくもう少し遠い商業区まで足を延ばして」
馬車。
王都見物。
商業区。
うわぁ、なにそれ楽しそうじゃない。
領地でも全くお屋敷の敷地外へは出たことのない、入れ子式の箱の一番中の箱に入ってるくらいの箱入りお嬢様な私なので、そもそもおうちの敷地外へ出る、というのがそれだけで新鮮で楽しそうだ。
しかもここは前世とは全然時代も歴史背景も建築様式も文化も違う国ときている。
揺るぎない前世に支えられた文化的バックグラウンドを持つ私にとっては、海外旅行へ来たみたいなものだ。
「だったらぜひ壁一つ向こうの市井の人たちが暮らす街を見てみたいわ!このお屋敷の周りを観光した後、ちょっとだけでもいいから!」
王城をわずかばかり余裕をもって囲む初期の壁の名残と、その名残のすぐ外側に幾分余裕をもって作られた貴族街を囲む第二の壁。
そして、その割としっかりと残っている第二の壁の向こう側に広がる第三の壁までの広い場所―――この王都の大半を占める市井の人々が暮らす場所こそ、私の興味を最も引き付ける場所だ。
お貴族様の暮らしはある程度見知っているけれど、一般市民、ごく普通の人々がどういう暮らしをしているのか、興味が尽きない。
可能ならぜひ一度この目で観光・・・もとい、様子を見てみたい。
「うーん・・・まぁいいか。一番地味な、家紋の目立たん馬車でなら。それとも壁のそばでうちの馬車を降りて、辻馬車でも拾うのもいいな。しかし・・・うーん、あの辺で父さんの知ってる店と言うと・・・羊の丸焼き、は・・・食べないよなぁ、女の子は」
私の久しぶりのわがままを真剣に検討してくれているらしい父さんが、さっそく計画を練り始めるのを横で聞きつつ、まだ見ぬ壁の先へと思いをはせる。
どうやら観光方々ご飯を食べに連れてってくれるつもりらしいけど、羊一頭丸まるは食べないわねぇ、女の子も大人の女性も。
王都へ来てもワイルドが留まるところを知らないんだけど、獣人御用達のお店か何かなんでしょう、きっと。
「丸焼きは食べきれないわね。でも一頭丸まるじゃなくて部分なら頂くわ。それに父さん、私はご飯を食べたりお買い物したいと言うより、街の雰囲気が見たいのよ。建物とか、人がどんな風に暮らしてるか、とか」
まぁ余裕があればご飯を食べたりお買い物したり、観光スポットで記念写真なんか取ったり・・・ないわね、カメラが。
とにかく家の外の世界を見る、というのが大目的だ。
正直わざわざ馬車を出してくれるなら、ぐるっとそのあたりを走ってもらって車窓観光だけでもそれなりに満足できそうだ。
それを素直に伝えると、父さんはへらりと人好きのする笑みを浮かべた。
愛娘とのお出かけを、義務感からでなく純粋に楽しみにしているのがよく分かる。
後でがーちゃんによくお願いしておかなければ。
万一私が妙なことを口走りそうになったら、どんな手段を用いてでも止めてくれるように。
「何やら楽しそうなところ申し訳ありませんが、予定の変更はできませんよ。今日の仕事もまだ半分も終わっていないでしょう」
不意に私たちの間に冷たい声が割って入って来て、父さんの笑顔が強張る。
進行方向へ視線を戻せば、そこには父さんの副官にして敏腕冢宰、そしてなんか知らないけど伯爵家当主でもあるジーク・アルメイダが立っていた。
「ジーク、お前来てたのか」
笑顔から一転、苦虫を噛み潰したような表情になった父さんが、脱走しようとしたところを見つかった犬のようなどことなく後ろめたい声色でそう言うと、ジークは浅く顎を引く。
「今日ルークが着く予定だったでしょう。午後に伺うと言っておいたはずですが」
彼もなんだかんだ言って伯爵様なのだから、きっと貴族をあまねく招集するらしい新年のお祝いとやらには参加しなければならないのだろう。
そして、領地のお屋敷からアルメイダ伯の王都別邸にいつどうやってかは知らないけれど来ていて、今日ルークが着いたらそのまま通信網構築のための会議になるからこちらへ出張ってきている、という所かしら。
隣の父さんを見上げると、ジークから視線を外して頬を掻いている。
どう考えても彼が今日ここに来る予定を忘れていたのだろう。
「あー、そうだったな。一旦ルークを休憩させて、会議は夕方からだ。お前も適当に時間を潰してなさい」
走ってきたルークに配慮した父さんの発言は、上司としては拍手を送りたいものだったけれど、あっさりジークに却下される。
「予定が詰まっている、と申し上げましたが?書類の決裁がほとんど終わっていないじゃないですか。午前中は一体何をしておいでで?・・・ルーク、大丈夫だな?」
兄の言葉に、ルークが無言で頷く。
走ってきたならお風呂入って、ちょっとゆっくりしてからでもいいと思うんだけど、私が手ごわい敏腕副官殿を言いくるめられるとも思えない。
そもそも弁舌が立つとは言い難いけれど一応上司である父さんを一方的にボコボコにするような人だから、まぁ距離を取ってこっちへ来るようなことがあれば走って逃げる、が正解よね。
なんだかんだでまだ全然打ち解けてないし、魔女疑惑・・・もとい狐憑き疑惑も払しょくできてないから、触らぬジークに祟りなし、ってね。
「分かった分かった、今から会議だな。書類仕事は今日中に片付けるから、二日後のあれだ、一つあったろ。別に行かなくてもいいような茶会の誘いが。あれを止めてだな、ミザリーと王都見物へ・・・」
「二日後、というとラ・メール公の茶会ですね。昨日の夜会で公に会って、昨夜の件の詳細な相談をしたい、と言われております。行かないわけにはいかないでしょう」
ジークの口から衝撃の名前が飛び出し、私は思わず父さんを見上げる。
反対側からルークも父さんを見ており、四大公爵家の一つに数えられるラ・メールからのお茶会のお誘いを“別に行かなくてもいいような茶会”と断じた父さんを、二人そろって両側から信じられないものを見る目で見てしまう。
ルークの目は相変わらずうっそりとした前髪の下だけど、なんとなく“なんかとんでもない事言ってるなこの人”という雰囲気は伝わってくる。
前方のジーク、両脇の私たちからあり得ないものを見る目を向けられた父さんは、逃げ場を探して視線をさまよわせるも、さすがに真後ろを向く、というあからさまな選択はしなかった。
まぁ真後ろを向いたところで、アルマあたりが“うちのご当主様がちょっと何言ってるか分からない”という視線を向けているだろうから、結局四面楚歌なわけだけど。
自分の劣勢を悟った父さんは、ラ・メールとは日頃から連絡が他所より密だから別に行かなくても・・・などと小さな声で言い訳をしている。
「父さんが忙しいなら仕方ないわ。今回はおうちで大人しくしてます。お仕事頑張って」
お出かけ一つで話がこじれるのも面白くないので、私は父さんにそう言いつつジークに邪魔をするつもりがないことを言外に伝える。
私が折れれば済む話であれば、いくらでも折れるわ。
わがまま言ってもメリットなんて一つもないものね。
私が折れれば不毛な会話は終わるだろうと期待していたけれど、そんな娘の心を知ってか知らずか、父さんが情けない表情で私を見た。
「いや、一日くらいなんとかなるから一緒に王都見物へ行こう。ジークもいるし、どうとでもなるだろ」
「なりませんよ。その段階は過ぎました。持って来た書類はすべてあなたの決済待ちで、いずれも猶予はありません。遊んでいる暇があればさっさと会議を終わらせて、一枚でも決済を進めてほしいものですね」
父さんの希望的観測が多々入った楽観的な予定の見通しは、ジークに一刀のもとに切って捨てられた。
それでも状況が呑み込めなかったのか、あるいは理解したうえで呑み込みたくないのか、父さんがぶつぶつと何事か文句を言っているが、ジークはそれを完全に無視。
「また今度、もう少し余裕のある時に改めて連れて行ってちょうだい。それまでは王都見物を楽しみにお勉強を頑張れるから、悪いばかりじゃないのよ?」
改めて折れてみると、父さんがますます情けなさそうな顔で私を見る。
・・・・これはどっちかと言うと、父さんのほうが私とおでかけ案に一気に乗り気になったぶん、フイになったのがつまらないのかしらね。
いい大人が、急なお出かけがダメになったくらいでこんなになるのはどうかと思うけど、見てる限りは書類仕事の類は嫌いみたいだし、そこから逃げて娘と遊べる機会と言うと二重の意味でおいしかったのかもしれないわ。
けどまぁジーク・アルメイダ伯の姿をした現実が目の前にいて、首根っこ掴まれてしまった以上どうしようもないけど。
「ごめんなぁ・・・今度はちゃんと予定に組み込んで、絶対邪魔させないからな」
しょんぼりした犬の顔のまま私の頭をぽんぽんと大きな手が撫で、ジークに牽引されるように父さんが行ってしまう。
ルークも当然通信網会議に出席するためその後をついて行くのだが、歩き始める直前に身をかがめて私の耳元で小さくつぶやきを残して行く。
「明日から休みだから。一緒にこの周りを散歩にくらいは行ける」
え、と思って彼を見るも、すたすた足早に去ったアルメイダ伯と、嫌々それについて行った父さんとに後れを取った彼はそれ以上何も言わずに小走りで二人に追い付くため行ってしまった。
「これは・・・ルークと一緒に行ったりしたら、父さんが拗ねるヤツね、きっと」
ぽつりとこぼれたつぶやきに、ルークの言葉を聞き取れなかったらしいアルマは小首を傾げ、聞き取れたらしいエルメラちゃんはわずかに苦笑。そして、ミケーラは私が誰とどこに行こうと一緒に行く、というように、私のスカートの端をほんの少し握るのだった。
翌朝。
相変わらず空気はピリッと冷えていたけれど空は上々の冬晴れで、寒いながらも気持ちのいいお天気だった。
朝食を終えて早々に本日も内勤の父さん以外は外回りが忙しいらしく、お兄ちゃんも母さんも慌ただしく用意をしてそれぞれの持ち場へと散っていく。
そんな二人を見送って、唯一閑職に回されて暇な私はエルメラちゃんのお屋敷探検ツアーに参加していた。
とりあえず屋内外の主要な場所と、必要な場所への行き方を教えてもらい、おすすめの庭を見物し、こちらの庭師さん―――ガーランドさんくらいの年のグリンワルドさんというおじさんだけど、こちらは全然威圧的ではなく終始にこやかに庭の見どころなど教えてくれて、切り花のお土産まで持たせてくれたナイスミドルだ―――に挨拶をして、昼食を中庭で摂り(寒いのにどうするのかと思えば、わざわざ厚手の布でできた天幕を張って火鉢を持ち込んで防寒を万全にした上でのピクニックランチだった。貴族って色々アレよね、規格外というか贅沢というか無駄が多いわ。がーちゃんが私の左肩で“冬外にいても寒くない、なんてことが起こりえるんですね・・・貴族って、俺たちとは別の生き物だ”とかしみじみ呟いてたのに同意しかない)、その後屋敷内に戻って図書室を教えてもらい、何冊か面白そうな本を選んでやっと部屋に戻ったのはお茶の時間だった。
王都の別邸と言うことで本邸に比べると比べるべくもなく狭いんだけど、それでも広い。
ちょっとした大学くらいあるんじゃないの?という敷地に、ちょっとした大学くらいあるんじゃないの?という規模の建物だ。
さすがに前世で一般的な大学ほどの高層建築ではないし、建物も1号館から何号館まで、みたいな規模でなく1号館と購買兼カフェテリア一棟くらいの規模だけど。
それでもこどもの足で歩きまわると少々疲れる。
ここよりさらに広い領地のお屋敷は隅々まで知ってるわけじゃないけど、あっちは果樹園とかまであるし翼棟でつながった別棟があるのだから、土地が広い国はいいわよねぇ。
そんな有り余る土地に贅沢に建てられた建物を隅々まで掃除しろって言われると絶望しかないわけだけど。
身の丈に合った生活―――大切な事よね。
がーちゃんのためにお茶菓子を小さめにちぎってソーサーに並べてから、アルマが淹れてくれたお茶を片手に一息つきつつ、エルメラちゃんがせっせと切り花を生けてくれるのを見ていると、彼女は今日のツアーに大変満足しているようだった。
私も立派な社会人なので、彼女らの仕事を積極的に褒めたのが効いているのかもしれない。
報われてる、って思うのって、仕事のモチベーション維持に重要だものね。
でも私が褒めることによって、プランから実行までエルメラちゃんとメイドたちの手による本日のピクニックランチみたいなやつが、さらにパワーアップしないとも限らないところにうっすら不安は感じるわね。
庭が見える豪華な天幕に案内してくれつつ、私が考えたんですよ!って嬉しそうに言うから、かわいいし思わずちょっと大げさに褒めちゃったのよねぇ・・・
こんこん、と響いたノックが私を物思いから現実へと引き戻し、私のそばでお茶が濃くなりすぎないよう管理したり、お菓子を取り分けてくれているアルマに代わってミケーラがさっと来客対応に出る。
ドアの外にいたのはルークで、振り返ったミケーラに頷いて見せると彼女はほわりと了承の笑みをこぼした後、ルークを私のところまで連れてくる。
そのころにはアルマがぬかりなくお茶の用意を進めており、すぐに一脚のカップが彼の前へと準備される。
「お散歩のお誘い?」
私の正面のソファに腰を下ろしたルークに、要件の見当をつけて問いかけると、彼はアルマからお茶を受け取ってお礼を言った後私に対しても頷きを寄越した。
「―――今日は忙しかった?・・・ずっといないみたいだったから」
「あれ、もしかして何回か来てくれた?今日はね、エルメラちゃんのお屋敷ツアーに参加してたのよ。こっちに来るのは初・・・久しぶりだから、全然覚えていなくって。面白かったわ。お昼は中庭のテントで頂いたのよ。それがすごく素敵でねぇ。ねぇがーちゃん?」
ティーテーブルの上で小さくした焼き菓子を一つずつ食べていたがーちゃんは、私の呼びかけに咥えていたひとかけをさっと飲み込むと、なぜかため息を返してくる。
「俺ね、裏庭の木に間借りして暮らしながら、時々あのお屋敷の中ではどんな暮らしをされてるんだろう、なんて想像してみることがあったんですよ」
くるくると首を回して私とルークを順番に見てから、真っ黒な鳥は言葉を続ける。
「そして今日、知りました。俺の想像力には限界があったけど、空に天井なんてなかった、ってことを」
つまりお貴族様の暮らしは彼の想像の遥か上・・・もしかしたら真上じゃなくて斜め方向かもしれないけど・・・だったようだ。
完全に同意よ。
春とか暖かくて気候が良くなって少なくとも火鉢がいらなくなってからピクニックランチをすればいいのに、あえて燃料と人手を投入してこの冬の日に春の陽気を再現するんですものね。
しかもタチが悪いことに、私一人を喜ばせるためだけにその大掛かりな仕事が行われたのよ。・・・やめよう。真剣に考えたら頭痛くなってきたわ。
「ご主人がたまに言ってる、世界線が変わる、ってこういう事なんだなぁ、って」
そうポツリと呟き足して、がーちゃんがまた溜息をつく。
ついにがーちゃんも体験してしまったのね。突然の世界線の変更を。
がっくり肩を落としたがーちゃんを慰めるように撫でていると、ルークがわずかに笑う気配がする。
「明日、馬車を出してくれるって。商業区まで行こう」
「え?父さんにお出かけしてもいいか聞いてくれたの?・・・あの人、拗ねなかったかしら」
「少し。―――でも、遅くならない約束で納得してくれた」
拗ねたのね。やっぱり。
後でちょっとフォロー入れとかないとね。
「そっか。ありがとうルーク。私本当にお出かけって数えるほどしかしたことがないから、実はすごく街を見てみたかったのよ。がーちゃんとミケーラも一緒でいいかしら?」
数えるほど、ってだいぶん粉飾しちゃったわ。
“私”になってからはお出かけは今この王都公邸に来てるのが初めてなのだから。
「小型の箱馬車だけど・・・大丈夫。明日、昼からみんなが出かけたら行こう」
そういう事になった。




