4.
せっかく兄ができたのだから、どうにかして仲良く・・・いや、少なくとも存在を無視レベルで嫌われている現状を改善できないか、少し考えてみよう。
しかしなんで8歳でこんなに捻くれ曲がってしまったのかな、現世の私は。
”8歳児の書棚”から意識的に記憶を引き出していくと、私はいつも不機嫌だったように思う。
大した理由もないのに誰かれなく当り散らして、自分の不満をただぶちまける嫌なこどもで、でも主家筋のお嬢様を厳しく諌めてくれる使用人はそばにおらず、それが原因で増長してしまったのだろう。
一人、主人の家族だろうと主人その人だろうとお構いなしに悪いことをすると怒ってくれる優秀な冢宰タイプの使用人がいるのだけれど、お嬢様はその彼の目の届かないところでわがままを炸裂させており、また、その使用人は父について家を空けることが多いため、そもそも屋敷にいない時間のほうが多いので、娘のしつけに一役買ってくれというのも酷だろう。
そう、この家は主人もその妻も恒常的に不在で、普段はこどもたちと使用人だけが暮らしているのだ。
普通は公爵家の主ともなると日常的に家にいて、領地各所からの報告書など読んで各地に指示だけ出して社交にでも精を出しているイメージだが、当家においてはその限りではなく、父も母も領地の視察に忙しい。
帰ってくるのはよくて月に1度、数日滞在してまた慌ただしく出て行く。
こんな環境なので、余計にお兄ちゃんとくらいは仲良くしていたい。
ふと寂しいような気持ちになって、私は頭を抱えた時に膝から落ちたクッションを拾い上げ、それをぎゅっと抱きしめた。
死別した前世の家族の事を考えていたわけでなし、今現在特に何も寂しくないはずなのに突然胸を刺したその感情は、8歳の私の寂しさだったようだ。
―――そっか。
お母さん、そばにいないもんね。
両親ともにずっと留守で、半分しか血のつながらないお兄ちゃんしかいなくて、沢山仕事を抱えていてずっとそばにはいてくれない使用人たちの中で、ぽつんと一人でいるのは、例え暮らしに何不自由しておらずとも、ずいぶんと寂しいことなのだろう。
前回家に帰ってきたお母さんは、3日でまた出かけてしまった。
忙しいのだろう、出かける際に私をぎゅっと抱きしめて、「大丈夫よね。お兄様や皆がいるから、一人じゃないものね」と、そんな言葉を押し付けて、振り返りもせず出て行ってしまった。
”私”の答えも、気持ちも聞かずに。
普段傍若無人な振る舞いをして、言わなくてもいいことまで言ってしまう8歳児でも、愛されていたい対象にはただ一言の「そばにいて」も言えないのだろう。
母親の邪魔をすることで、嫌われるのが怖いから。
「そっか。あなたはずっと寂しかったのね。お母さんもお父さんもそばにいてくれなくて、たまに帰ってきてもあまり構ってもらえなくて、きっとどうしたらいいか分からなかったのよね。どうしたら、両親やお兄ちゃんや一緒に暮らしてるみんなに愛してもらえるか分からなくて、だからそばにいてくれるアルマやシェリーにわがままを言っちゃうのよね。もっと構ってほしいって、私をちゃんと見て、そばにいてって、そういう気持ちを素直に伝えるの、大人でも難しいのよ。ホントはアルマじゃなくてお母さんやお父さんにわがままを言いたいのに、そうしたら嫌われるかもって感情を抑さえて・・・。こどもなのに、あなたよく頑張ったねぇ」
ソファの向こうにある姿見に映った8歳の少女に語りかけると、彼女は紫水晶のような、彼女の母親とそっくりのその目からぽろりと涙をこぼした。
私は彼女に微笑みかける。
泣き笑いのような顔になった少女が、姿見からこちらを見つめ返してきた。
「でも―――もう、大丈夫よ。私はこれからずっとそばにいる。これからお父さんやお母さんやお兄ちゃん、それにアルマ、シェリー、ほかのみんなに、たくさん、今までの分も全部、大好きって伝える方法、一緒に考えよう」
そう伝えると、鏡の中の少女はぽろぽろと涙をこぼしながら、こくんとひとつ頷いた。
さて、これから忙しくなりそうだ。
まずはお兄ちゃんとの関係を少しでも改善し、次にお父さんかお母さんが帰って来るまでに要望書をまとめなければ。
そうして家族会議でも開いてもらって、この家の環境を年齢相応の兄が”愛されている”と実感できる場所にするのだ。
私はもう27歳なので別に両親なんていてもいなくても構わないんだけれど(そして正直私の精神年齢と変わらない年齢の両親を親と思うのは難しい)お兄ちゃんは別だ。
あの子はまだ10歳で、つい昨日までの私と同じか、それ以上に寂しい思いをしているはずだ。
妹のようにわがままも言えず、独りでじっと、たった一人の肉親である父親の不在に耐えているのだから。
とにかく、まずは。
私は手にしたクッションをソファに置くと、ソファから立ち上がった。
そして、少し離れたところにある姿見の前まで行くと、涙の痕跡を探して丁寧にぬぐった。
それが終わると手櫛で髪をざっと整え、スカートのしわを伸ばす。
そう、まずは、これから家庭教師の先生に勉強を教わるのだ。
お嬢様がしている勉強内容はどんなものかと端的に言うと、貴族の一般常識的な教養とこの国の詳細な歴史だ。
歴史も“一般常識的な教養”に含まれるのだろうけど。
どちらも学校へ行って習っているわけではなく、50代半ばの男性教師がほぼ毎日屋敷を訪ねてきて、私一人のために授業をしてくれる。
ロマンスグレーの優しいオジサマで、紅茶に少しばかりミルクを垂らしたようなミルクティー色の髪に知的な青い目、鼻までずり落ちた書見用の
眼鏡を上げる仕草がどことなく年老いたフクロウを起想させる、紳士然とした外見とは裏腹に親しみやすい愛嬌のある先生だ。
正直、昨日までのお嬢様はここでもワガママ放題でずいぶん困らせただろうに、先生はそんな苦労はおくびにも出さない。
人間ができているというか、余裕のある大人というか。
どれだけ集中力と興味のないこども相手でも、授業に入るまでの導入で実戦形式にマナーや行儀作法を教えてくれ、この国の興りから記された太い歴史書を教科書代わりに色々な副教材で飽きさせない授業をしてくれる歴戦の教師なのだけれど、お嬢様に勉強をする気がさらさらなかったので、具体的に習った事を思い出そうにも思い出せる内容がない。
さすがに客人の迎え方やあいさつの仕方など、行儀作法部分は毎日の繰り返しなので覚えているけれども。
そんなわけで、世間の事なんて何一つ知らない8歳児のままではこの先が思いやられるので、私はこの授業をありがたく利用させてもらう事にした。
なんの事はない、ただ単純に真面目に授業を受けるだけなのだけれど。
オジサマ先生はもう一度教科書の最初から教えてほしいという唐突なお願いに一瞬驚いた顔をしたけれど、お望みとあらば喜んで、と笑って、私のお願いを聞いてくれた。
これで多分、少しは今いる世界の事が理解できそうだ。
大人になってからこっち、環境が悪かったのかどうなのか、何かを他人に懇切丁寧に教えてもらうなんてことはなかった。
勉強のやり方にせよ仕事にせよ、初めて触れるものでも出来て当たり前、なぜできない?という所に居たせいで、丁寧にわかりやすく、そしてわかるまで教えてくれる先生の授業はすぐに義務ではなく趣味になった。
そんなわけで、今日の授業も楽しんだ私は、先生に教えてもらった事で興味のある内容についてもう少し深く知ろうと、資料を探しに書庫に向かっていた。
すでに”私”の覚醒から2週間ほどが経った。
最初はおとなしく授業を受ける私を驚愕の表情で見守っていたアルマも、すっかりバージョンアップした私に慣れてきており、最近ではちょっとしたことくらいでは驚かなくなっていた。
思ったより早く慣れてもらえてよかったわ。
相変わらずお兄ちゃんとは国交断絶状態なのだけれど。
それが目下の悩み事である。
お嬢様の一日は朝というか昼前に起きて身支度し、食事を摂ることから始まる。
午後は1時間程度お勉強。
それからお茶をして、何か大人たちを困らせるようなことをして、夕食、お風呂、就寝。
そんな感じでルーティン化されており、”私”の記憶が蘇ってからは、生活態度の刷新を図っている。
朝はちゃんと起きて食事を摂り、午前中は午後に来られる先生の授業の予習・復習。
昼食を摂って、午後から授業。1時間だった授業は、私の希望で2時間に延びている。
授業が終わると先生をお見送りしてお茶を頂き、その後夕方までは屋敷を探検したり、屋敷で働く人たちと仲良くなれるよう、関係改善に努めたり。
こちら生まれこちら育ちの8歳児ならいざ知らず、ある日突然目覚めたら異世界だった私には珍しいものばかりで、午後の探検の時間は楽しみ半分気づまり半分だ。
もちろん、気づまり部分は探検中に行き会う屋敷の人々で、みんな最初は歩く厄災からできるだけ距離をとろうとしたため、関係改善のためのコミュニケーションは難航を極めた。
前世の私の仕事は営業補助の事務職で、したがってコミュ力というやつはそう高くない。
趣味も読書とかインドア派だったので、相手にも避けられるしこちらの発信力も低いため、最近のお嬢様は薬にはならないが毒にもならない、という印象操作はなかなかはかどらなかった。
唯一の例外は一緒にいる頻度が高いアルマで、彼女はずいぶんお嬢様Ver.2に馴染んでくれている。
私がゆっくりとこの世界に歩み寄り、理解をしようとするように、いずれは私を取り巻く人々も私に歩み寄り、少なくとも最初から全否定せずに話くらいは聞いてくれるようになるように、とにかく今できることから一歩ずつ進むしかない。
まずは私がこの世界を少しでも理解すること。
これなら『相手の都合』がないので、そこから始めることにする。