38.
翌日、私の生活は日常を取り戻した。
―――少なくとも、およそお誕生日前と同程度の平穏を取り戻している、と言うほうが正確か。
ファミリアの鴉はいるし、ペットに犬まで飼い始めたのだから、全くの元通りとはいかないけれど。
ちなみに、父さんにもらった犬・・・ええとなんだ、狼だっけ?とにかくあれにはリンクスと名前をつけた。
大変フェンネル方式よね。
今回ばかりは自分のネーミングセンスは死んでなかったのかもしれない、って思ったわ。
がーちゃんにそれはどんな文献からとったどんな奴の名前なんですか?って聞かれて、由来を説明したら、鴉とは思えないほど巧みに微妙な空気をかもしていたけど、まぁいいわ。
私は気に入ってるからね、リンクス。
・・・一応、譲歩案として月と狩りの女神にあやかって、アルテミスかディアナでもいいかなって思ってたのよ。
でもがーちゃんから具体的にダメ出しがなかったので、リンクスにしたわ。
大変満足よ。
生活がほぼ日常に戻ったということは、今日から先生の授業も再開される、と言う事だ。
いつも通りの時間に見えた先生は、相変わらず完璧な紳士の笑みで私にピンクの薔薇の花束をくださり、さらには先生お薦めの紅茶と薔薇の花の形に美しく細工された紅茶用の砂糖までくださった。
アルマにお願いしてさっそくその茶葉でお茶を淹れてもらい、先生と一緒にお茶会のテーブルマナーのお勉強方々頂いたんだけど、これがまた私の好みのど真ん中の味。
どちらかと言うと紅茶はミルクなし砂糖なしのストレート派なので、あまり味の濃いものは苦手なんだけど、華やかな香りに大変紅茶らしい味でしかもミルクが欲しくなるほど主張の強さはない、という私にとってまさに理想の紅茶。
香りと紅茶そのものの味だけで十分に楽しめる茶葉って案外少ないのよねぇ。
前世で惚れ込んだスリランカの某茶園の紅茶、なじみのお茶屋が取り扱わなくなっちゃってものすごく残念だったのを覚えてるけど、先生に頂いた茶葉はその懐かしきセイロンティーを思わせるものだった。
着香ではないお茶そのものの香りが素晴らしく、ストレートでも砂糖を入れてもミルクを入れても、どれもお茶の味がちゃんと残ってそれぞれに美味。
アルマにお願いして、いただいた缶を空けてしまったら同じものを買ってもらおう。
・・・あんまり法外な値段じゃないといいんだけど。
そしてその紅茶に添えられた薔薇の形のデザインシュガー。
頂いたピンクの薔薇をたっぷり生けた花瓶がティーテーブルの中央で大きな存在感を放ち、アルマが出してくれた美しい茶器と一口サイズの可愛い焼き菓子たちが花とは違った彩りを添える。
白磁に可憐な草花が手描きされたカップへ正しく紅茶色の薫り高い紅茶を注げば、湯気と一緒に広がる香りがお茶会に一段と華やぎを加える。
さらにはソーサーの上の銀のスプーンに乗った薔薇の形の砂糖。
うわ、これはテンションが上がるわ。
乙女と言うには私は少々薹が立ってしまってるけど、これは刺さるわ。間違いなく刺さる。
・・・こういう乙女感は嫌いじゃないのよね。
そして、どれもすべて大変素敵な贈り物だけれど間違いなく消え物、というのがいい。
手元に残るのは最終的にすごく繊細できれいなデザインの紅茶の缶と、その残り香だけだものね。
さすが先生。
距離感がちゃんと礼儀正しい贈り物、なのよ。
家庭教師と生徒って間柄で、いきなりアクセサリーとか身に着けるものをもらっても意図が分からなくて困るものね。
こんなに完璧な消え物で贈り物の打線組めるなんて、さすが私の憧れをほしいままにするロマンスグレーの素敵紳士なだけあるわ。冴え渡る采配、名監督の予感しかしない。
監督される私が名選手になれるかどうかはさておいて。
そして、そんな素敵な先生とお茶のマナーを学びつつのティータイムの後で、いたずらっぽく笑った先生は今日から新しいお勉強を始めましょう、とおっしゃった。
てっきり座学だと思ったのよね。
まさかダンスだとは・・・先生がおひとりで対応できる教科の間口が広すぎて・・・しかも何を聞いても大体教えてくださるので、知識の奥行きが深淵だわ。
初日は先生に手を取られて、ベーシックな足運びを習った。
勿論ダンスなんてこれまで踊ろうと思った事すらない。
小学校や中学校で習い始めてるって話には聞くけど、その時既に成人してたからねぇ。
そして今や故人。
直近ダンスらしきことをしたのは・・・そうね、確か妹がスマホで撮ったダンスをアップロードできる変なアプリをインストールして、踊ろう踊ろう言ってきたことがあったけど、「いやそれ盆踊り?盆踊りじゃね?あたしとリズム感覚ってか生きてる時代が違いすぎる」というお言葉とともに全てが終わったわね。
・・・話が逸れたわ。
まぁそんなわけで、私に踊れるのがせいぜい盆踊り、すごく頑張ってマイムマイムとかその手のフォークダンスくらいだったから、社交ダンスなんて“生きてる時代が違いすぎる”わけで、最初は不安しかなかった。
けれど先生が毎日丁寧に諦めず何度も教えてくださるので、ベーシックな足型は何とか覚えた。
そして、基本的な立ち方、姿勢も丁寧に教わり、シャドーって言うのかしらね、一人で踊るヤツ。相手がいると仮定して一人で踊るんだから、そりゃもう恥ずかしいことこの上ないけれど、先生の三拍の手拍子に合わせて一人で踊り、ある程度形になったら最後はリーダーを迎えての練習。
要するに男性とペアで踊るわけなんだけれど、私と先生では身長差がありすぎてきちんと組めないので、どうするのだろうと思っていたらお兄ちゃんが召喚されたわね。
私よりもたくさんの事を勉強する必要がある公爵家の跡取りに妹のダンスの練習に付き合う暇なんてないだろうと思ったんだけど、それを伝えて謝ったら、お兄ちゃんたら「俺もあまり得意じゃない。練習になって助かる」なんて言ってくれて。
ホントにできた子だわ。
これは本人の資質で、親の教育の成果じゃないと声を大にして言いたいとこだけど。
初めて一緒に踊る相手が兄、というのは、結果から言うと大変妥当だった気がする。
そもそもね、近いのよ距離が。
社交ダンスだから当然なんだけど、男性の手が背中や腰に回されて、女性側は男性の肩のあたりに手を添えるでしょ。
そして、反対の手はつないでる状態。
ぴったりくっつかず大きな円になるように上半身を離すとはいえ、そういう問題じゃないくらい近い。
名誉日本人として言わせてもらうと、これはもはや耐えがたいパーソナルスペースの侵害だ。
日頃からボディランゲージを含めた積極的愛情表現を心掛けている兄相手だったから照れくささは我慢できる程度だったけど、これを、知らないあるいは大して知らない異性相手に粛々と執り行えるかと言うと、圧 倒 的 に 否。
おかしいわよね。下着って言われるとぬるい笑いが出るようなしょうもないパンツがチラ見えするのはダメで、ほぼ抱擁に近いダンスはよいって。
でも100%こっち産の兄は顔色一つ変えないし、私だけ変に照れてると逆によろしくないので、一生懸命我慢しました。
踊り出しちゃうともうついてくのに必死になっちゃうから、ちょっとは羞恥心がどこかへ行ってくれるんだけどね。
お兄ちゃんと何度も踊り、まぁ多少気持ちに余裕をもってステップを踏めるようになった頃。
座学が終わり、次はダンスかぁ、とちょっとブルーになっている私の元に、その日やって来たのは兄ではなかった。
軽いノックの音と出迎えるアルマの声、開いた扉の隙間から現れたのは、ミアーニャ秘蔵の猫兄弟の長男、ヴァイスだった。
そうなのよ。
猫兄弟は私のファミリア選びから落選し、諦めておうちに帰るものとばかり思ってたんだけど、翌々日くらいに朝の支度に現れたアルマにくっついてミケーラも侍女のお仕着せ姿でやってきて、一体何事かと思ったわ。
そして、その日から従僕のお仕着せ姿のヴァイスとノアールもお屋敷内で見かけるようになり、ミアーニャに何が起こっているのか聞きに行ったら「このおうちはぁ、少々手が足りてませんからねぇ。猫の手をぉ、お貸ししようと思いましてぇ」と悪びれもなく言ってのけ、反省の色などまるで認められなかった。
野良じゃない。決して野良じゃないけど、なんでしょうね、この野良猫が居ついちゃった感。
虎視眈々とがーちゃんの後釜を狙ってる、ってことなんでしょうけど、それはそれとして三人ともよく働いているようだ。
ミアーニャの言の通り一通り以上私の使い魔として必要な技能は修めているらしく、例の嫌みのない王子様スマイルで私に微笑みかけつつ差し出された彼の手を取ると、ヴァイスは礼儀正しく所定の位置に手をやって、私の準備が終わるのをちゃんと待ってくれてから私が無理なくついていける程度のリードで踊ってくれた。
先生もお兄ちゃんと踊っている時は拍子をとりつつ視線を上げて、とか、笑顔で踊ると相手も嬉しくなりますよ、だとか、背筋を伸ばして、などと適宜アドバイスを下さっていたのだけれど、ヴァイスは誰かに教える前提でダンスを習ったとしか思えず、先生のアドバイスが入る隙すらなかった。
しかも足元を気にして視線が下がりがちな私に視線を上げて、と直接注意せず、「大変お上手ですね」なんて不意に耳元で声をかけてくるものだから驚いて彼の方を見て、結果顔が上がる、という褒め殺し作戦を取るのだ。
視線が下向きにならなくなると、とにかく踊るのに必死で表情が硬い私にあえてにっこり笑いかけて、日本人が大体持ってる“笑顔を向けられたらとりあえず笑い返す”習性までうまく利用するなど、段階を踏みつつも一事が万事直接的な注意でなくて自然にそうできるように仕向けてくれる。
先生に何度もご指導頂いたことを別角度からやんわり指摘する彼のそのやり方に、私も自分の問題点を常に意識して気を付けられるようになった。
お兄ちゃん以外のひとと踊ってみてわかった事と言うと、まぁ近いっていうのはもともと分かってたけどホント近いわね、がまず一つ。
それから、リードは男性によって全然違う、ということだ。
お兄ちゃんのリードは、なんと言うか、定時運行する電車、という感じだ。
一回乗ってしまえば、目的地までごく安全かつ確実に連れて行ってもらえる。
歩幅も動作も安定していて不安がない。
苦手だなんて言ってくれたのは、私への気遣いで優しい嘘だろう。
一方のヴァイスは、これはもう満場一致で教習車ね。
教官が横に乗ってて、ルール内ならある程度自由裁量でやらせてもらえるんだけれど、ミラーの確認やウィンカーを忘れたりしたらすぐに注意される。
安全に一人で走行できるようになるまでは多くを学べて大変ありがたいリードと言える。
多分初心者である私のためにあえてそういう風にやってくれてるんでしょうね。
ちゃんと踊れる相手だと、きっとまた印象が違うんでしょう。
お兄ちゃんも、働き始めてほんの1週間か2週間で早くもある程度仕事を任されたヴァイスも体が空かない時、というのが二度ほどあって、その時はノアールが来てくれたんだけど、彼も個性が際立ってたわ。
ヴァイスと同じ環境で育って、同じようにファミリアになるための教育を受けたはずなのに、なんと言うのか、彼のリードは・・・大型の自動二輪車に二人乗りしてるみたいな感じだったわ。
しかも運転手は割と乱暴な運転をして、私は運転手にしがみついてバイクから落ちないようにするのに必死、というと多少は実態を掴んでもらえるかしら。
ものすごく振り回されるし動作は大きいし、先生は苦笑いだし。
ダンスを今まさに習ってる私じゃなくて、ただの練習相手のノアールの方が注意されてたわね。
でもあれもいい練習になったと思うわ。
これから私が踊るであろう人々は、きっと誰もが紳士的なわけじゃないでしょうから。
あまり深く考えず、令嬢としての教育の一環だろうと思っていた毎日のダンス練習だったけれど、考えなくても目前に迫った王子様のお誕生日パーティのためだ、って事に気づいたのはつい先日だった。
・・・練習終了後の最初の実践がいきなり国規模のパーティとか。
もう少し計画性を持って教育してほしいところだわ。




