34.
まるで私たちの話が一段落するのを待っていたかのように、こんこんこん、と少々忙しないノックが聞こえ、私が半身で振り返ってはぁいと返事をすると、すぐに扉が開かれて慌ただしくアルマが入ってくる。
「お嬢様申し訳ございませんっ!厨房が少々立て込んでいてお湯を貰うのもお菓子を貰うのも時間がかかってしまってっ!」
相当急いで来たのだろう、頬を上気させたアルマがティーワゴンを押して入ってくると、そこで初めてお兄ちゃんの存在に気づいたらしく一瞬びっくりしたように目を見開く。
けれどもそれも一瞬の事で、すぐに気を取り直した彼女は私たちを促してソファに着座させると、手際よくお茶を淹れて砂糖壺やミルクピッチャーを並べ、お菓子を盛った皿を置いてテーブルセッティングをし、片付けの手伝いがあるので、と慌ただしく出て行ってしまった。
やっぱり来年から私のお誕生会はやらない方向で調整したいわね。
「がーちゃんの分までお茶の用意してくれたけど、飲めるかしら?」
目の前のティーテーブルに正しく三人分用意されたカップとソーサーを見つつ聞いてみると、お兄ちゃんは怪訝な顔をし、当の鴉は慌てて首を左右に振る。
「や、このままで頂きます。その、お嬢さんたちが嫌でなければテーブルに移っても・・・?」
確かに鴉の体ではどうやったって・・・たとえ足が三本あったって人が使うサイズのティーカップを持ち上げて飲む、というのは無理がある。
直接くちばしを突っ込む方向になるでしょうから、テーブルに移りたいってことね。
私が頷くと兄も構わないと返事をし、鴉がぴょんとテーブルに飛び移る。
それから自分の前に用意されたティーカップをしばらく見つめ、そっとくちばしを突っ込んで器用に紅茶を飲み始めた。
きっと遠慮して手を付けないだろうからと、バター強めのマドレーヌっぽい味がする焼き菓子を一つとって、鴉のソーサーに乗せてやる。
これで彼も遠慮なくお茶菓子にありつけるだろう。
「・・・そうだミザリー、手を出せ」
私とお兄ちゃんもお茶を飲んで一息ついたところで、唐突に正面に座っているお兄ちゃんが言って、カップを置いた私ははい、と右手を差し出した。
握手するように差し出した私の手を、テーブル越しに兄の手が掴んで上を向かせ、手のひらが上を向いた状態になったところでそっと何かが乗せられる。
冷たい金属の手触りと重み。
兄の手が離れると私の手のひらには美しい細工の髪飾りが乗っていた。
銀色の金属でできたそれは、ひどく繊細な作りで白い石と青い石がいくつかはめ込まれており、一目見て絶対にお高いものだと分かる。
素材は鉄とかステンレスとかでは絶対にない、なにか銀かプラチナ的な貴金属だろうし、いくつか使われている石もガラス玉とかではなく何らかの貴石だろう。
立体的に作られた雲のような銀色の流れに、繊細な透かし細工の月。
そのところどころに星みたいな大小の白と青い石が輝く、夜空の縮図のようなデザインだ。
とても繊細で精緻なのに、なんとなくゴッホの大胆な筆致で描かれた『星月夜』を思わせる美しい髪飾り。
貴金属や宝石類は冠婚葬祭に必要な最低限の物くらいしかもっていなかったのでよく分からないけれど、間違いなくこれは本物の宝飾品だ。
「誕生日の、祝いだ。気に入るか分からないけど、良かったら使ってくれ」
「えっ・・・?」
手の中に残された銀色の髪飾りとお兄ちゃんの顔を視線で往復して、思わず二の句が継げなくなる。
え?公爵家ともなると、11歳次期当主から妹に前世の私のお給料1か月分で買えるのかどうかちょっと分からないような貴金属のアクセサリーとか普通に渡しちゃう感じなの?
私の金銭感覚と違いすぎてホントもうこの世界でやってけるのか不安で仕方なくなるわ。
9歳でしょ?デザインさえ可愛ければ布製の髪飾りでもプラスチックのやつでも全然問題ないわよ。
あ。プラスチックないんだっけ。
「大丈夫だ。税金で買ったわけじゃない」
私の沈黙を公爵領のお財布への心配だと勘違いした兄がまっすぐな目でそう言うので、とりあえず顎を引いて首肯を返す。
やっぱり庶民な私の感覚は生まれながらお貴族様なお兄ちゃんには理解してもらえそうにないようだ。
一瞬、せっかくだけれど値段を理由にお返しする方がいいかなと思って、本日身に着けていたお高そうな品々を思い出してぎりぎりで踏みとどまる。
こんな高いものいただけないわ、なんて言っても、今日のお衣装が総額いくらだったか全く不明なので何の説得力もないだろう。
今日のパーティドレスを含めて毎日の豪華なお洋服は、所有していると思うと気疲れが半端ないので、あれらは全て貸衣装的なものとして私の所有物ではないと脳内処理して無意識に心の平安を保っている。
・・・一週間、同じ服が回ってこないのよ。
相変わらずアルマが毎朝どこかにある衣裳部屋から数着持ってきて選ばせてくれたり選んでくれるんだけど、ほとんどが初めましての方なの・・・。
どこかにきっと、お洋服が無限増殖する部屋があるのね。
そうでも思わないとやってられないわ。
それら無限増殖する部屋から来る貸衣装ストックとは違い、明確な“私の所有物”として今手のひらにある髪飾りはその実際の重量よりももっと重く感じられる。
「あ・・・ありがとう。でも・・・こんな素敵なもの、いただいてしまっていいのかしら」
わざわざ贈り物を準備してくれていたというのが嬉しい反面、私の手作り懐中時計袋とは雲泥の差過ぎて、やっぱり素直に受け取っていいのか躊躇してしまう。
けれども兄はプレゼントの絶望的な格差について思うことは何もないようで、勿論だ、と事もなげに頷いて見せる。
それから、わずかに躊躇った後にゆっくりと口を開く。
「もし気に入らなかったら無理に使わなくてもいい。・・・母様の、遺品の一つなんだ。いくつか相続したうちの・・・。今はまだ、税金を使わずにできる贈り物がこれしか浮かばなかったんだ。・・・次は、あり物じゃなくてちゃんとお前のために選ぶから」
「は!?これ、お兄ちゃんのお母様の形見なの!?受け取れないわ!!」
なんてものくれようとしてるのよこの子は!
びっくりして立ち上がり、髪飾りを落とさないよう両手を添えて兄へ差し戻すと、ちょうど私たちやり取りを下で聞いていたがーちゃんが気まずそうに頭を下げて体を小さくする。
今すぐ存在ごと消滅したい、とか思っていそうな顔だ。
正面の兄は自分へと差し出された私の手のひらの髪飾りを見て、少しだけ肩を落とした。
「・・・そうだな。誰かの遺品なんて、欲しくない、な。悪かった」
「あーーー!違うそうじゃない!そうじゃない!!」
思わず頭を抱えそうになったけど、手のひらにある大切なものの存在がそれを痛めるような迂闊な行動にブレーキをかける。
ちょっと色々衝撃的すぎて言葉が足りてなかったわ、圧倒的に。
こどもや鳥にまで気を遣わせてるんじゃないわよ私!!何のために27年生きた記憶持ってるのよ!!
「遺品だから嫌とか、そんなことじゃないのよ!お兄ちゃんの宝物なんだから、大事にしてほしいの!他にも相続したものがあるとか、そういう問題じゃないわ!!お母様の大事な思い出の品なんだから、ほいほい人にあげていいものじゃないでしょ!!・・・私が使っていいのなら、これを見てもそんなに辛くないってことなのよね?じゃあ余計に手元に置いておかなくちゃ。・・・思い出は、これ以上増えないんだから」
どんなに望んでも、いなくなった人との思い出はそれ以上には増えない。
ならせめていなくなった人たちが―――私があそこに残して来たものを、私の代わりに手元に置いて欲しいと思うのは、いけないことだろうか。
あのささやかなマンションは、きっともう片付けられて引き払われてしまっただろう。
けれど、あそこに残して来たわずかばかりの些細な物たちを何か一つ二つ、私の代わりに家族の傍に置いてほしいと思うのは、いけないことなのだろうか。
それが残された人たちに痛みしか与えないというのであれば仕方がないけれど、そうでなければ、その程度の事を望むのは許されてもいいはずだ。
「増えない、とは思わない」
うつむいたまま、兄が静かに反論をする。
「え?」
私が聞き返すと、下を向いていた兄が顔を上げ、思いのほか強い目が私をまっすぐに見つめる。
「思い出が、増えないとは思わない。・・・母様との思い出はこれ以上増えなくても、お前が使ってくれれば、これから新しい思い出を作れる。・・・今はそれを見ると楽しかったことや嬉しかったことも少しあるけど、結局最後は辛いことを思い出すんだ。でも、これからたくさん新しい記憶を作れるのなら、それを見たときに思い出せる楽しかった事や嬉しかったことが増えて―――辛い記憶は、薄れるかもしれない」
兄のまっすぐな目に、私は唐突に悟る。
―――そうか。
あなたは前を向いているのね。
前世の記憶に縛られた、“過去”しかない死者である私と違って。
・・・こうやって、進んでいくしかないのだろう。
とり残された生者たちは、それでも生きなければいけないのだから。
「・・・分かった。でも―――でも、これは借りておく、という事にさせてちょうだい。いつでもお兄ちゃんに返すわ。・・・その日が来るまで大切に、お借りします」
大事に両手で包み込んだ髪飾りを胸元に抱えるようにして言うと、兄が薄く笑って了承の頷きを返してくる。
どうにか妥協点が見つかってよかったわ。
私とお兄ちゃんは、向いている方向が全然違う、って思い知らされてしまったけれど。
「あー、どうしよう困った。私って何か鍵付の金庫みたいなもの持ってたかしら?鍵がかかるのって机の引き出しくらいだわ・・・ああ、机の引き出しに入るサイズの小さい鍵付の箱・・・いや、駄目だわ。それじゃ箱ごと持ち出されるから、やっぱり本棚の奥に耐火で防水で重い金庫を仕込むのが一番ね・・・」
「・・・お前はいったい、何に備えてる?」
保管場所の事を考えて金庫金庫と騒ぎ始めた私を、お兄ちゃんがちょっと呆れた顔で見てくる。
さっきまであった暗さはどこにも見当たらなくて、困りながらもちょっとホッとする。
ああでもホントに困ったわ。
大事なものを保管するんだから、相応の設備がないといけないけれど、それに相応しいものを持っていない。
「何って、あらゆるものに備える所存よ。フーリー君とかね」
「いや、お嬢さん、さすがにあいつも勝手にお屋敷の中にまで入ってきたりしませんって」
鴉にまで呆れた声で言われて、そんなものなのかしら、と思ったけれど、やっぱり大切なものは盗難をはじめ火災や地震や想定される災害にできる限り対策をして保管をしたい。
保険だってもしあるなら入りたい勢いだもの。
いやもういっそ貸金庫ね。銀行の貸金庫に預けて・・・そんなサービス存在しない、か。
「そんなに気負わず普通に使ってくれればいい。俺が持ってても時々見るくらいだから、その髪飾りも使ってもらえる方が嬉しいだろう」
「・・・分かった。前向きに検討して善処するわ」
私の一見すると肯定的な返答に、兄が口元をわずかに柔らかくほころばせ、一つ頷く。
でもごめんねお兄ちゃん。
今のは異世界語で“無理”って意味なのよ。
保管場所については後で誰かに相談するとしましょうか。
「・・・ああ、そういえばもう一つ言っておくことがある」
私がソファに再び腰を落ち着けると、ふ、と何かを思い出したような顔でそう言って、兄は言葉を続ける。
「父様からの贈り物は受け取らない方がいい」
「え?父さんのプレゼント・・・?」
急に脈絡のない話題になって、私は急いで記憶をさらう。
そういえば去年までは確か、両親からの贈り物はパーティが終わって一緒に夕食をとる時にもらっていたようね。
忙しい年だと、ご飯を食べて私たちが眠るとその夜のうちに両親が出かけてしまうということもあったけれど、一応はパーティの後で内輪のお祝いという形で夕食は共にしていた記憶がある。
えーっと、去年はなんだっけ?
母さんはお高そうな冬用の新しいドレス、父さんはこれまたお高そうな首飾りをくれたんだっけ。・・・あの首飾りどこにある?
ええと、そういえばなんか書机の鍵のかからない引き出しに宝石箱的なものがあった、わね。
もしかして、結構大きな金剛石みたいなものがついた貴金属を、鍵のかからない引き出しの鍵のかからない宝石箱に入れ、て・・・?
やめよう。これ以上思い出すのは精神衛生上よくないわ。
8歳のこどもに金剛石の首飾りを贈るのも何考えてるんだか分からないし・・・このくらいの年齢のこどもって一年で去年の服が小さくなったりするのに、高い服くれるっていうのも経済観念が破綻しているし。
通年着られる服ならまだしも、シーズン限定だと下手すると数回でお役御免じゃないの。
貴族って・・・すごくコストパフォーマンスの悪い生き物ね。
で、そんな経済観念が破綻したコスパの悪い両親がきっと今年も何かを準備している、と。
「怖っ・・・何くれる気なの、あの人たち。・・・怖っ」
思わず小声でつぶやいて、私の行く手に待ち受けるナニモノカに身震いをすると、何かを誤解した兄が慌ててフォローに入る。
「いや、怖がるような変なものではない、と思う。ただちょっと、アレは父様の配下だから、そばに置くなら全部が筒抜けになると思っておいた方がいい」
「なに?何をくれようとしているの一体!?」
え、やだお兄ちゃんのフォローで余計怖くなったんだけど。
何かは知らないけどきっととんでもなく高いモノだと思ってたら、なんだか物は物でも“生きた”物をくれるような口ぶりだ。
父さんの配下で情報筒抜けって、それはスパイなの?娘の身辺調査にスパイを送り込むの!?
・・・ご、護衛、とかかしらね?
うん、きっと・・・そのあたり、よね。
「お前が気に入ったら仕方がないが、あまりその、薦めない」
歯切れ悪く言うお兄ちゃんは、もしかしたら贈り物について詳細を先に私に話さないよう口止めをされているのかもしれない。
けれども警告だけでもしようとしてくれているのだろう。・・・詳細が分からないから逆に怖いけど。
「分かった。ありがとう、お兄ちゃん。父さんがくれようとする何かはお断りすることにするわ―――大丈夫、お兄ちゃんも気を遣ってくれたみたいだけど、ご存じのとおり私ついさっき税金の件で盛大に醜態をさらしたから、そのお話をもう一度すれば父さんも母さんもきっと分かってくれるはずだもの」
お兄ちゃんは確かに言っていた。
髪飾りは税金で買ったものじゃない、と。
もしかしたら・・・事前に何かお小遣いの範囲で用意をしてくれていて、私が盛大に税金を無駄使うなと啖呵を切ったので、慌てて税金の絡まない手持ちの相続品から一つ、贈り物を選んでくれたのかもしれない。
うわー、こどもに気を遣わせた。
ああ。今夜は自己嫌悪で眠れそうにないわね。
それからアルマが夕食に呼びに来てくれるまでの間、がーちゃんを交えて三人で他愛もない話をして過ごした。
ほんの二時間ほどだったけれど、くつろいで過ごせる時間だった。
どちらかと言うと口数の少ない私たちのためにがーちゃんが何くれとなく気を遣ってくれて、私と兄を笑わせようといろんな話をしてくれ、惰性で選んだ、と言われると否定できない面もある今回の使い魔選びは、それでも『彼』を選択するのが最善だったのだと思えた。




