33.
お客様たちが帰ると、お屋敷はすっかりいつもの静寂を取り戻した。
なんとなく物寂しいのは、ほんのちょっと前まで大勢が楽しそうに過ごしていた場所が急にがらんどうになったように感じるからだろう。
お客様のお見送りが済んで会場の片付けに戻るメイドさんたちにありがとうを言ってから、私はアルマとともに鴉を連れて自室へ戻っていた。
父さんは少し書類仕事がたまっているらしく、また夕食にな、と私の頭をひと撫でし、通り道に居たお兄ちゃんの肩をぽんぽんと叩いてから執務室へ戻っていった。
母さんはミアーニャとともにメインダイニングの片付けに残って、猫兄弟たちも引率のミアーニャが帰らないと動けないようで、ついでとばかりに片づけを手伝ってくれるようだ。
私も食器を片づけたりくらいはできるので手伝おうかと思ったけれど、アルマにお疲れ様でした、お部屋で着替えましょうと声をかけられて、働いてくれているみんなには申し訳ないけれど気持ちが楽な部屋着に傾いてしまった。
それに、鴉ともう少しちゃんと話をしたいと思っていたから部屋に戻って構わないと言ってもらえると大変好都合だ。
お部屋に戻って楽な部屋着に着替え、アルマがお茶の用意をしますね、と言って出て行ってしまうと、私はソファにゆったりと座り、大きく息をついた。
「はぁー、疲れた。人がいっぱいいると疲れるわねぇ」
ようやっと、心の固くなっていた部分がほぐれるような心地だ。
やっと落ち着いた私とは対照的に、すぐ隣にいる鴉は相変わらずそわそわと落ち着かなげに身じろぎを繰り返している。
まぁ半ば無理やり連れて来たから仕方がないわね。
「ねぇあなた、お名前はなんていうの?・・・ああ、ご存知かもしれないけれど私はミザリーよ。ミザリー・フェンネル」
ソファの背もたれに体重を完全に預け、少しだけだらしなく座って隣の鴉を首だけ傾げて見ながら聞くと、鴉はふかふかのソファの足元を気にするのをやめてこちらに向き直った。
「名前・・・俺の、ですか」
「そうよ。お名前。なんて呼んだらいいかしら?」
「俺は、その。・・・名前、ないんです」
鴉の視線が下がる。
ちょっとしょんぼりしているように見えるけれど、そういえば野性の鴉に名前なんて概念があるのかも怪しいわね。
「そう。じゃあええっと・・・がーちゃん?・・・ガーガー鳴くからがーちゃんは安直にも程よね。うーん・・・」
あれ?
そういえば私、妹がもらってきたハムスターにハムレットて呼びかけてたら、お姉ちゃんネーミングセンスが死んでる。って言われたことがあったわね。
確かあの時、あの子まだ小学生だったっけ。
その後結局マカロンだかカヌレだかショコラだか、なんかおしゃれでかわいい名前つけてたわね。
・・・私は覚えられなくて、徹頭徹尾ハムレットって呼んでたけど。
生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。
「ごめんなさい。私、ネーミングセンスが死んでるらしいから期待しないでちょうだいね」
先に謝っておくと、鴉は私を見上げてぱちぱちと目を瞬かせる。
「なまえ・・・俺に、名前、つけてくれるんですか」
「あら、だって不便でしょ?名前がなかったらずっと“ねぇ、あなた”って呼ぶことになるわよ?」
「いや、それは色々まずい気がします。あの、この際がーちゃんでいいので、“ねぇあなた”はご勘弁頂ければ・・・俺、多分あの猫に喰われます」
“あなた”呼びは即座に否定されてしまった。
まぁちょっと、うっすらからかってみたんだけれど。
「平気よ。だってあなたは私が守るもの。猫なんて追い払ってあげるから。ねぇあなた?」
「ちょ・・・!お嬢さん洒落にならないですって!!」
鴉が慌てて左右を見回し、誰にも聞かれていないか気を揉んでいるのがおかしくて、少しだけ笑ってしまう。
「っふふ、ごめんなさい。からかったわ。・・・でも名前は大事よね。がーちゃんてわけにはいかないから、もう少し考えましょうか。・・・ええと、がー、がー、がーでしょ・・・」
顎に手を当てて候補を考える。
ここはハムレットことマカロンだかカヌレだかショコラだかと妹氏に敬意を表して、フランス菓子で行くべきかしら。
『が』と言えばもうガトーくらいしか思い浮かばないけど。
・・・いや、駄目ね。口当たり滑らかで甘くてほろ苦いガトーショコラが猛烈に食べたくなってきたから、ガトーは『開けちゃいけない記憶の箱』に封印しましょう。
「どう転んでも『が』から始まるのは決定事項なんですね・・・」
名付けから飛躍したガトーショコラを思い出して生唾を呑む私の横で、鴉が遠い目をしている。
もしかして、『が』から始まる名前を付けて、ニックネームと言い張ってがーちゃんて呼ぶつもりなのバレてるのかしら。
「が、がダメなら、そうねぇ。古い物語からとりましょうか」
それなら多分、私の死んだネーミングセンスでつけるよりはマシだろう。
「古い物語、ですか」
「そうよ。たとえば・・・そうね。オデッセウスとか」
「おでっせ・・・?」
「古代の物語に出てくる英雄よ。彼のエピソードで一番好きなのは、船でセイレーンのいる海域を通る時に仲間たちに耳栓をさせて船を漕がせて、セイレーンの歌を聴きたいばっかりに自分は船のマストに縛り付けてもらったってやつね。もちろんセイレーンの歌に惑わされて、すっかり正気を失って縛られたまま暴れまわって彼女らの方へ行こうとするのを、仲間たちが全力でその海域を離脱して事なきを得るのよ」
「とんだ迷惑野郎じゃないですか・・・」
鴉がものすごく呆れた声を出すのが面白くて笑ってしまったけれど、そのバカみたいな動機でバカみたいな事するところが好きなのよ私は。
結果が見えてるのに好奇心に負けてやっちゃうのが、どうにも人間的でね。
あと、今更だけどセイレーン、って普通に通じたから、多分居るわね、ここ。
「オデッセウスはダメか。じゃあ・・・騎士の名前を貰うのはどう?」
「騎士。・・・そんな上等なものじゃないですよ、俺」
「騎士と言えば・・・円卓?―――湖の騎士ランスロットね」
「らんす、ろっと」
「湖の乙女っていう妖精に育てられた騎士よ。とても勇敢で強い騎士で、友でもある王に仕えるの。・・・でもって、その王様の嫁を寝取る、わね。それで最後は不義密通のために処刑されそうになった王妃をさらって逃げて、追いかけてきた王様と戦争になって王様は死ぬのよね・・・伴侶を取られるわ部下の騎士をたくさん殺されるわ、最後戦争で王様自身も死ぬわ、主人として仕えてもらうにはこれ以上ないくらい不穏な名前ね」
「さっきの奴を軽く超えてくる迷惑野郎だ・・・あの、もうちょっとまともな名前は・・・?」
「・・・うーん、最早ない」
「・・・もはや、ない。・・・がーちゃん、て、呼んでください」
私の呟きに何かを勘違いした鴉が、しゅんと肩を落とす。
今現在、彼の前に並んでる選択肢ががーちゃんか迷惑野郎かそれを超える迷惑野郎、ってのがもうね。なんかごめん。
ネーミングセンスが死んでる人は豊富な選択肢から適当なものを借用するのも下手みたいだわ。
「ああ!違う違う、そうじゃないの。大鴉、って詩を思い出してただけ。エドガーとか、アランとかはどうかしら・・・」
さすがにレノアはね。女の子の名前だし、ネバーモアだし。
「大鴉・・・そんな詩があるんですか?」
「ええ。内容的には、深夜に一人愛した女の子の死を悼む詩人の元に大鴉がやってきて、最早ない、二度とない、って繰り返す・・・なんかごめん」
「・・・や、いいですよ。鴉なんてそんなもんでしょう」
ああ、そんな気は全くないのにどんどん追い詰めちゃってるわ。
ええと他になんかなかったかしら。もうちょっと来歴がマシな名前。
「あ!そうだ、あれがいるじゃない。フギンとムニン。オーディン神に仕える二羽のワタリガラス。それぞれ思考と記憶を意味するらしいわ」
世界中を飛び回って情報を集めては、主たるオーディンに報告していた、っていう、スパイ的な鳥よね。・・・まぁこれは言わなくていいか。
「ええと、それがお嬢さんが言っていた神が遣わす道案内の鴉・・・?」
私を見上げる鴉の表情がわずかに明るくなる。
どうやら神に遣わされた道しるべの三本足の鴉、というのは、彼にとって悪くない話だったようだ。
「いえ、それとは別件。そっちは八咫烏って言うのよ。でも種族の名前だから、ええとつまり、あなたみたいな三本足の鴉は全部八咫烏、って呼べるわね。あんまり個人の名前向きじゃないわ」
「・・・俺みたいな異形、そうそういませんけどね」
鴉がしゅんと頭を下げる。
どうしよう、私ってばまだ9つになったとこなのに、触れるもの全部傷つける10代みたいなことしちゃってるわ。
前世の10代でさえそんな尖がってなかったのに。
なにかこう、もうちょっといい名前は・・・
「・・・ガウェイン。ガウェインはどうかしら」
唐突に思いついたその名を口にする。
しかし鴉は私のネーミングセンスのなさを存分に思い知った後なので、懐疑的な目で見上げてくる。
「がうぇいん?・・・今度はどんな奴です?」
「さっきのランスロットと同じ王に仕えた騎士よ。・・・そうね、ガウェインがいいかもしれないわ。勇猛果敢で忠義に厚く、王様を最後まで裏切らないし、嫁は美人で頭もいいし」
あと、最初の予定通り“がーちゃん”て呼べるし。
私の内心での付け足しを知ってか知らずか、鴉が小首をかしげる。
「ガウェイン・・・」
「あんまりしっくりこない?」
「・・・いえ。俺、名前がもらえるなんて、思ってもみなかったので・・・」
「ちょっと待っててね」
なんだかしんみりした鴉にその場にとどまるように言って、私はソファから降りて書机へ足早に近づくと、引き出しを開けて目当てのものを取り出した。
うん、まぁこれしかないし仕方ないわね。
一度手にしたそれを確認し、他に適当なものが思い浮かばなかったのでそのまま踵を返してソファに戻る。
そして、右手に持ったペーパーナイフを鴉に向ける。
万一にも怪我などさせないよう慎重に、びっくりして固まっている鴉の肩にペーパーナイフの切っ先を乗せると、にっこり笑ってから宣言。
「ガウェイン卿、あなたを私の騎士に任じるわ」
騎士と言うとコレよね。
ホントはちゃんとした剣がいいんでしょうけど、お嬢様の持ってる刃物・・・もしくはそれに近いものって言うと、ペーパーナイフか手芸用のハサミくらいだものね。
ハサミよりはペーパーナイフのほうが恰好がつくでしょう。
装飾が凝ってて結構きれいなナイフだし、相手のサイズ的には剣よりこっちの方がよかったかもしれないわ。
「・・・鳥肉にされるのかと、思いましたよ」
突然刃物を向けられて驚いて固まっていたらしい鴉が状況を飲み込み、ふっと体の力を抜いて苦く笑うように言う。
「あら、鴉は食べないわ。お肉が固いって聞いたことがあるもの」
「お嬢様のその情報源に、俺が感謝してたって言っといてください」
ごく真面目な口調でやり取りしていたけれど、鴉と目が合うと吹き出してしまい、鴉も私につられて笑う。
ひとしきり笑って落ち着いたあたりでノックの音が聞こえてきて、アルマかと思った私は返事をしながら立ち上がり、きっとティーワゴンを押しているであろう彼女のためにドアを開けるべく、ドアへ向けて歩き出した。
けれどもたどり着く前にドアは来訪者によって開けられて、戸口の隙間からお兄ちゃんが顔をのぞかせる。
「ミザリー、今少し構わないか」
ドアを開けるために近づいていた私に改めて確認し、礼儀正しく私からのどうぞ、という返事を待ってからやっと少年が部屋に入ってきて、半端な位置に立っている私に少しだけいぶかしげな視線を向けてくる。
「アルマがお茶の用意をしに出てくれていて、帰って来たのかと思ったの。ティーワゴンを押してたら一人でドアを開けるのは手間でしょ?」
簡単に事情を説明すると、お兄ちゃんの目から疑問の色が消える。
「そうか。厨房の方は片付けで忙しそうだから、少し時間がかかっているのかもしれない」
「・・・でしょうねぇ。あれだけたくさんお料理準備してくれたら、調理器具の片付けだけでも一仕事だもの。使った食器を回収して洗ったり、残り物の処理をしたり、まだ夕食の準備もあるんだから本当に気の毒だわ・・・。来年からは辞退できないものかしら」
放り込んでおけば勝手に洗ってくれる食洗機もないものねぇ。
まぁ前世の私は手洗い派だったけれど。
あと、マジで喪女には“ちょっとしたパーティ”とやらを催す機会なんてなかったから、パーティ後の片付けの大変さは想像の域を出ないけれど。
実体験で知ってるのは油汚れのしつこさくらいね。―――おっと、公爵令嬢はそんなの全部まとめて知らないんだっけ。また迂闊発言だったわ。
「ええとそれで、どうしたの、お兄ちゃん」
うっかり発言を帳消しにはできないけれど、とりあえずにっこり笑って話題を変えておく。
・・・下手だわね。知ってる。
けれども人間のできた兄は私の下手な誤魔化しで誤魔化されてくれることにしたようで、ああ、と頷いて追及をせずに流してくれた。
「その、なんだ。ちょっと気になった、だけだ」
私越しにソファの方に居る鴉を見やりつつ、歯切れ悪く言う兄はもしかしたら鴉ことがーちゃん・・・ガウェインと話をしたくて来たのかもしれない。
「ああ、改めて紹介するわ。私の使い魔のガウェイン卿よ」
半身だけ振り返ってソファの鴉を指しながら言うと、指された鴉は固まり、兄の方はわずかに表情を曇らせる。
「ガウェイン、卿?・・・爵位のある家の方、だったのか」
「お!お嬢さんっ!!誤解っ!誤解を招く言い方はちょっと!」
兄の独り言のような呟きに過剰反応した鴉が慌てて飛んできて、私の周りをばさばさ飛びまわる。
おお、羽根を広げたら結構大きいのね、鴉って。
フーリー君と乱闘してた時や抱えてた時はそんなに思わなかったのに、飛んだ状態ですぐ近くにいると割と存在感と言うか、圧があるわ。
「次期公爵様!“卿”って言うのはお嬢さんの戯れで、俺はホントに何の地位もないただの鴉でっ!名前もさっきお嬢さんにもらったばっかりなんです!」
飛ぶ鴉を見るだけだった私では話にならないと踏んだのか、さっと翼を翻した鴉はお兄ちゃんの前でバサバサと翼を動かしつつ自分で弁明を開始し、状況を正しく理解したお兄ちゃんがちょっとだけ呆れたように私を見てくる。
えへへと笑って誤魔化すと、やっぱり誤魔化されてくれることにしたらしい兄は短くため息をつき、それから鴉に向き直った。
ためらわずに右腕を差し出して目顔で鴉に乗るように促すと、忙しなく羽ばたいていた鴉はしばらくの逡巡の後、遠慮がちに兄の右腕に乗る。
美少年と鴉。
絵になるわね。主にお兄ちゃんが。
「名前・・・よかったのか?」
「もともと名前、なかったんです。だからその、なんて言えばいいのか・・・嬉しい、です」
「そうか。ならいいんだ。ガウェイン卿、ミザリーをよろしく頼む」
「っちょっと!次期公爵様までやめてくださいよ!!なんならその、お嬢さんが最初に挙げてくれた名前候補のがーちゃんって呼んでくださればいいんで!!」
兄と鴉が友情らしきものをはぐくみ始めたのを一歩引いた位置から温かく見守っていた私に、兄がかわいそうな子を見るような目を向けてくる。
きっとネーミングセンスが死んでる、って思ってるんでしょうね。
なんだか後ろから味方に誤射されたみたいな気分だわ。
「ならガウェインと呼ばせてもらう。俺の事はレオンハルトと呼んでくれ」
「俺みたいなのが公爵家の次期当主様を名前で呼ぶのはおこがましい、んじゃ・・・」
「お前に礼を言いに来たんだ。・・・これは、大切なものだから」
兄の左手が胸元を抑える。
服に隠れて見えないけれど、兄の手のひらの下には懐中時計があるのだろう。
鴉が身を挺してフーリー君から取り戻してくれた、お兄ちゃんのお母さんの形見が。
「いいじゃない、がーちゃん。お兄ちゃんの事を名前で呼んであげて。今日から私たち友達なんだから」
見守り距離から一歩近づいて会話の輪に入ると、鴉が戸惑ったように私と兄の顔を見比べる。
兄が頷くと、おずおずとした小さな声でレオンハルト様、とつぶやくのが聞こえた。
男の子同士だし、種族は違えどここは怪物ランド。きっとすぐ仲良くなるでしょう。
捕まえたヤタガラスにニックネームを付けますか? ▶はい
というだけのお話でした。
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