3.
「ご馳走様。お部屋に戻って先生が来られるのを待つわ」
椅子からぴょんと降りてシェリーとアルマに声をかけると、二人とも一瞬固まり、シェリーのほうがすぐに回復してにっこり笑う。
「はい、お嬢様。先生がいらっしゃったらお部屋へご案内いたしますね」
がっちり固まったアルマの横で自然に笑って、シェリーは先立って歩くと食堂室のドアを開けてくれた。
私はシェリーが開けてくれたのとは違う側にある半開きになった木製のドアの向こうにある厨房に、ドアの隙間からご馳走様、と一声かけ、シェリーの開けてくれたドアから廊下へ出た。
部屋へ戻ろうと歩き始めると、硬直の解けたアルマが飛び出してきて後ろをついてくる。
廊下は片側が窓になっており、裏庭だか中庭だかが見える。
窓からそそぐ日差しがとても気持ちよく、本日は晴天なり、洗濯日和になりそうだ。
いいお天気ねー、などと何気なくアルマに声をかけると、はっ?はいぃ!と緊張した返事が返ってきて、ちょっと後悔しつつも廊下を進む。
一番お世話になる相手だし早く慣れてもらいたいけれど、焦ってもいいことはなさそうだ。
これまでが酷すぎたから、ここは腰を落ち着けて長期戦で今の私に慣れてもらおう。
廊下は飾り気のない石のタイル造りで、経年劣化で摩耗しているものの掃除が行き届いてピカピカだ。
今代の、か伝統的に、かは知らないが、家主が実用主義らしく、廊下にはせいぜい絵画が数点あるくらいで、花瓶やその他の美術品など余計な装飾品もない。
勝手知ったる家の中であるはずなのに、初めて来た他人の家のようでもあり、なんともすわりの悪い心地だ。
寝起きからの流れでここまで来たものの、おなかに食べ物が入って気持ちが落ち着いたこともあり、なんだか違和感ばかりが先に立つ。
本来なら、ここでこうしているのが当然なのにもかかわらず、ここにいるのが極めて不自然でもあるような、何とも言えない心持ち。
―――そのうち慣れる日が来るのかしらね。
知らない場所なのに自分の部屋があって、その部屋に帰る道順もちゃんと知っているという妙な感覚の中、とにかく一旦部屋で落ち着こうと私は考えるのをやめて足を動かすことにする。
次の角を曲がって、階段を上って、それからまた付きあたりを曲がって――
アルマを従えてとことこと廊下を進んでいくと、前方から私よりも少し年長に見える少年が、アルマよりも1つ2つ年上の少年を連れて現れた。
この子は確か。
「おはよう、お兄ちゃん。いいお天気ね」
すれ違いざまに精一杯愛想よく微笑んで、あいさつの声をかける。
けれども兄からの返答はなく、声をかけた瞬間ほんの一瞬だけ私を見て、まるで道端の汚物を見たように顔をしかめるとすぐに私の存在そのものをなかった事にして歩き去った。
後ろを歩く従者の少年―――確かローグとかなんとか言うんだっけ―――が、目礼を残して兄を追っていく。
後ろではアルマが丁寧に頭を下げて兄を見送り、気まずそうに顔をあげると私を見てすぐに視線を逸らした。
きっと何かしたのね、このお嬢様。
私は肩をすくめると、自室に向かって再び歩き始めた。
レオンハルト・フェンネル、10歳。
私の兄で、フェンネル家の跡継ぎ、つまりは次期公爵様。
若干10歳ながら父親譲りの精悍な顔立ちに、前世ではお目にかかった事のない現実離れした銀糸の髪、深い海のようなサファイアブルーの瞳。
まさしく白皙端麗を地で行く美少年だ。
前世の私は初婚同士の両親の間に生まれた長子で、従っておよそ叶わない夢の一つに、血のつながった姉か兄を持つ、というのがある。
年が離れていたため仕方がない面はあるのだが、妹ばかり可愛がる親を見るにつけ、私が一番上ではなくてお兄ちゃんかお姉ちゃんが欲しかったと思ったものだ。
そしてここにきて唐突に、血のつながった兄ができた。
兄か姉が欲しかったのは確かだが、いざできると不思議な気分だ。
確かに年齢的には“お兄ちゃん”で10歳にしては大人びた印象なのだが、正直、肉体年齢は8歳でも精神年齢が27歳の今の私にはどう頑張っても弟のようにしか思えない。
それでも『お兄ちゃん』であることには変わりないうえ、単純に『お兄ちゃん』と呼べる存在ができたのは嬉しいし、年も近いのでできたら仲良くしたいのだけれど、やはりと言うかなんと言うか、全力で嫌われているようだ。
さっきの短い邂逅でも分かる通り、とにかく『お兄ちゃん』は私の存在を無視している。
何をしたの、8歳の私は。
自室に戻った私は窓辺のソファにぽすんと腰かけると、ふかふかのクッションを抱きしめた。
ついてきたアルマが乱れたベッドを整えてくれて、ほかに用事はないかと聞いてくれたのでありがとうとそれに応じ、彼女が下がるのを見届ける。
それから沈思黙考の態勢に入る。
前世の記憶が戻って、現世の8歳児に27年分の”前の私”の記憶が搭載された結果が今の私なのだけれど、記憶は混ざり合う事をせず、例えて言うなら別フォルダ保管状態なのだ。
要するに、PCのデスクトップに8歳フォルダと27歳フォルダが並行して存在していて、でもハードは同じPCと言ったところか。
なんか・・・分かりにくいわね。
たとえば一軒の家に住んでいて、8年分の記憶は寝室の本棚に保管してあって、27年分は書庫にある、という感じだろうか。
そして、前世の記憶を唐突に手に入れてからの私は書庫に入り浸っている状態、と言えるかもしれない。
つらつら考え事などするときは、大体27年の経験に基づいてものを考えており、ふと思い出すことも27歳だった私の方の記憶だ。
よって、8歳の今現在の私がこれまでに体験した事を思い出そうとすると、一回『27歳の書庫』を出て、寝室に戻って『8歳の本棚』を調べる必要があるということだ。
一旦前世を忘れ、集中して現世の私の記憶を探る。
特に、お兄ちゃんに関することを重点的に。
―――レオンハルトのお母様はなんでいなくなったの?
―――きっとレオンハルトが嫌いだから、置いて行ってしまったのね
―――わたくしのお母様はわたくしのことが大好きだから、そばにいてくださるのよ
―――大好きなこどもを置いて行くお母様なんて、どんな物語にも出てこないんだもの。レオンハルトのお母様が死んだのは、きっと
あーーーーー。
やらかしてる。
案の定やらかしているわ、この娘。
最後の部分なんて、思い出すのも嫌で強制終了してしまった。
思わずソファの上で頭を抱え、ぐしゃぐしゃと髪をかき回す。
髪がむちゃくちゃになってしまうが、そんなことはこの際どうでもいい。
・・・でもアルマをびっくりさせたらかわいそうだから、あとで自分で手入れはしよう。
それにしても酷い。
あまりにも酷い。
たった10歳の、しかも片親を失ったこどもへぶつける言葉としては、あまりに鋭利で無慈悲だった。
多分、周りは母を亡くした兄を腫物を扱うようにそっと扱ってきただろうに、異母妹からこんな言葉を投げかけられて、多感な年頃の少年が傷つかないわけがない。
完全なる自業自得。
それはもう、嫌われるべくして嫌われたのだ。
ちゃんと知っていたはずなのに、今改めて認識した兄の母がすでに亡くなっているという事実は、少なからず私を動揺させた。
私の年齢から考えて、父が不義を働かなかったのなら(と言うか現世の母親の性格を考えるに、不義密通の誘いをかけた時点で父親は物理的に死んでいるはずなので、確実に先妻を亡くしてから私の母親と会ったことになる)兄はたった2歳で母親を失ったことになる。
どんなにか、辛かったことだろう。
2歳児だって、自分の世界が一昼夜にして完全に変わってしまって、もはや何をどうしても元には戻らないことくらいは、頭ではなく本能で理解ができただろう。
今まで何とも思っていなかったが、道理で、兄と私は似てもいない。
父似と母似で誤魔化せても、ふと寂しそうな横顔でどこか遠くを見つめる兄には、確かに父以外の面影があった。
きっと、綺麗な人だったのだろう―――お兄ちゃんのお母さんは。




