22.
ふと、ソファの対面にある姿見が目に入る。
銀の髪の大人びた少年と、華奢な黒髪の少女が仲良く並んで腰かけている。
少年の目は少女に注がれて、答えない妹にわずかに不安そうに表情を曇らせる。
長じればやがて、人間の国から来た人間の女の子を好きになるかもしれないその少年の隣には、今はまだ2つ違いの妹しかいない。
少年の隣に腰かけて、幽霊でも見たような顔をしている少女。
鏡の向こうから私を、見つめ返してくる少女は。
どきん、と一度大きく心臓が跳ねる。
思い出したくない、と強い拒否が心を支配するが、裏腹に視覚情報からずるずると前世の記憶が引きずり出されていく。
この面差しが残る、もう少し大人になった少女を、私は確かに知っている。
この娘は―――。
光の国から来るアンジェラを嫌い、あらゆる手段を用いて彼女を傷つけ、遠ざけようとする。
ゲームの中で越えるべき障害、排除されるべき壁として立ちはだかってきた、『悪役』令嬢。
脳裏を、たいして覚えていないと思っていたゲームのいくつかのシーンが走馬灯のように駆け抜けていく。
『走馬灯』なんて縁起が悪い例えだが、フラッシュバックしたシーンもなかなかロクでもないものたちだった。
空気を吸い込もうとしてうまくいかず、ひゅ、とのどが鳴る。
思い出してしまったことの大きさに眩暈のような感覚を覚える。
「大丈夫か?」
不意にお兄ちゃんの手が肩に添えられる。
薄い生地の寝間着越しに感じられるこどもらしい温かい手に支えられて、突然それまでしっかりしていた足元の地面が崩れ去ったような、ちゃんと握りしめてもらっていた手から不意に放たれた風船のような、急に拠り所がなくなってしまった衝撃からいくらか現実に戻ってこられた気がする。
けれど多分、正面の鏡に映る少女の顔色は変わらず幽霊でも見たように青白いだろう。
正直まだ動揺しているし、さっき思い出したもののせいで不安しか感じない。
「ええ、大丈夫、よ。ありがとう、お兄ちゃん」
精いっぱい笑って見せるけれど、お兄ちゃんの表情は険しくなっただけ。
”私”について兄に余計な懸念は持たせたくないし、何より要らない心配をさせたくない。
どうすればこの場を切り抜けられるか、不安を押し込めて回らない頭で必死に考える。
その努力に報いるように、凍りついた空気を断ち切るようなノックの音がして、アルマが顔を出す。
「お花のご用意ができましたよ、お嬢様」
にっこり笑って花をかわいらしく生けた花瓶を3つ持ったアルマが入ってくると、はずむような足取りで書き物机に一輪挿しを置き、そのまま私たちに近づいてきてティーテーブルにもフラワーベースに低く生けたお花を置いてくれる。
その時になってやっと私たちの間に微妙な空気が流れているのに気付いた彼女は、小首をかしげて私に視線で問いかけてくる。
「・・・ちょっと疲れちゃったみたいなの。今日は一日ベッドでお兄ちゃんのお花を見ながら、ゆっくり本でも読もうかしら」
「でしたら、書庫から何冊か本を見繕って参りましょうか。最近のお気に入りは紀行ものでしたよね」
とにかくこの場を一旦お開きにしたかった私の意向を正確に酌んで、アルマがにっこり笑ってそう提案してくれる。
それにしても、私が普段何を読んでるかなんて知ってたのね、この子。
でもありがたいわ。
とにかく一度一人になりたい。
一旦冷静になって状況を整理したいし、思い出すべきことが増えたのだから。
「長居して悪かった。・・・昼は父様も言っていた通りここで摂ればいいし、夕食ももし一人で食べたければこっちに用意するようにさせるから」
お兄ちゃんがソファから降りつつ、そんな提案をしてくれる。
その目には変わらず心配の色。
「ええ、いえ、大丈夫。夕方までゆっくりしたら落ち着くわ。父さん母さんも心配させたくないし、晩ご飯はちゃんとみんなで頂きましょ。・・・ありがとう、お兄ちゃん」
さっきよりは幾分かマシな笑顔を作ると、兄は浅く頷いてアルマに私を頼むと念押ししてからそっと部屋を出て行った。
兄の背中を一礼で見送った後、アルマは手早くティーテーブルの上を片づけてくれて、温かいものを淹れなおして本を持ってまいりますね、と言って、それ以上は何も聞かずに部屋を出て行く。
二度目にドアがぱたんと閉まる音を聞き、私は無意識に詰めていた息をほっと吐き出した。
そしてすぐにソファから降りると、また書机に向かって引き出しに鍵を差し込み、さっきしまったばかりの日記帳を引っ張り出す。
そっちの鍵も手早く開けて、大急ぎでページを繰る。
さっき書いた部分を見つけたところで、続く余白にインクをつけた羽ペンでさっき思い出したことも付け加える。
アンジェラを取り巻く男の子その四、お兄ちゃん。
それから、私ことミザリー・フェンネルはアンジェラと彼らの恋路を邪魔して馬に蹴られる、と。
まず私のすべきことは、とにかく何でもいいから思い出す事、ね。
アンジェラがどうなるかはどうでもいいけど、その過程でミザリーがどうなるかも語られていたはず。
さっきフラッシュバックしてきた記憶は主にミザリーがアンジェラに意地悪しているシーンだった。
・・・意地悪、なんてかわいい言い方で済むかどうか微妙な行為も多少含まれていたことは認めよう。
うっすら思い出せる限りではミザリーの行く先はまぁまぁバリエーションがあったような気がするんだけど、いずれ劣らぬ“ミザリー”の名に恥じぬ終幕だったように思う。
幽閉・他殺・事故死に自殺。
あ、自殺はしないわ。誰に何されてどんなに絶望したって、自殺はしない。
でないとまたどっかに生まれ変わっちゃうものね。
今度こそ、くだらない要因では絶対に死んでやらない。
自殺については大丈夫だけど他が自分じゃコントロールできないから、そうなる前に脇道にそれておかなきゃね。
それから、何かの選択を間違えたら国が大変なことになったはずなので、その辺もできれば詳細を思い出しておきたい。
平和裏に一生を終えるには国の平和もなくてはならないもの。
思い出さなきゃならないことがたくさん・・・だわね。
でも別にやりたくてやってたわけじゃないからどれだけ具体的に思い出せるか未知数。
そのあたりも不安要素よね。
とにかく、まずは目標を設定しましょう。
大目標は、なんと言っても『普通に穏やかに生きて老衰もしくは加齢によって罹患率が高まる病気等、不可抗力の要因で死ぬ』こと。
いわゆる天寿の全うだけど、平穏に、というのがポイントね。
事故や他殺はもってのほか。
アンジェラが、アンジェラを取り巻く会の男たちが、そしてこの国と隣国が私に悲惨な死亡プランしか用意してくれないのであれば、自分で用意するまでよ。
穏やかに天寿を全う、老衰で死ぬ。そして貯めた徳で輪廻の輪から解脱―――これが私のにこにこ楽しい死亡プラン。
目標が決まったところで次にすべきことは、そうね、大目標を叶えるために平穏な一生を阻害しそうな要因を取り除く努力をすること、ね。
具体的に私にできそうな事と言うと・・・たとえばアンジェラを取り巻く会の会員との接触は避ける、とかかしら。
この私が嫉妬に狂ってアンジェラをどうこうする可能性はゼロを割り込んでマイナス領域だけれど、そもそも君子危うきに近寄らず、って言うしね。
お兄ちゃんはもう仕方ないけど、他は最初から距離をとっておいて悪いことはないでしょう。
けれどあのゲームがこの世界で生きてた誰かの生まれ変わりが作ったものだとしたら、ある程度“ゲームを面白くするための要素”は含まれているにせよ、私の運命の振れ幅は少ないのかもしれない。
だとすれば法律の知識も必要だわ。
最後はもう法の力で自分を守る。完全なる自己弁護は無理だとしても、国選弁護人と戦略を練れるくらいの知識は欲しいわ。ええ、国選よ。家族・・・兄を敵に回す可能性、それを考慮しないわけにはいかない。
てかそもそもここ法治国家よね?そうでしょ?そうだと言って・・・?
とにかく法律知識はあっても邪魔にならないから、先生に教われないか打診してみましょう。
あとはもしかすると国が大変なことになるかもしれないので、それに備えてできる事をする。
これは現時点では何かよくないことがあったわね、程度しか思い出せていないので、耳目を開いてなにかの予兆を見逃さないよう生活する他に現状できる事はない。
もう少し何か思い出してから対策をしましょう。
・・・と、そういえば早速ディートリヒ公子との婚約話が持ち上がるかもしれない、ってお兄ちゃん言ってたわね。
これは絶対阻止ね。
私には鉄壁の盾があるから、問題なく凌げるでしょう。
今できる事として、明日から再開する先生の授業にもっと積極的になる事も加えておこう。
この国の歴史くらいしか教わってないけれど、歴史に絡めてさまざまなことを教えてくださるあの先生なら大抵の事は知っている気がする。
そこまで考えた時控えめなノックの音がして、アルマが部屋に戻ってきたので、私は日記帳を閉じて笑顔で彼女を迎えた。
そのあとは予定通り部屋で昼食をとり、夕方までゴロゴロしながらあれこれ思い出そうとし、要らない心配や注目を浴びたくなかったので夕食は家族とともに摂り、お風呂に入って寝支度を整えた。
いつも通り寝支度を手伝ってくれていたアルマが出て行くとお休みのキス魔が襲来し、ベッドで本を抱えた私にいつもの儀式をしてから出て行くと、長い長い私の一日はやっとのことで終わりを迎えた。
と、思ったら甘かった。
母が去り、さてそろそろ寝ようかしら、と思って本をベッド脇のテーブルに戻した時、小さなノックの音が長い一日が延長戦に入ることを告げる。
ちょっとうんざりして寝たふりしようかと思ったけれど、まだ読書用のランプが点いているので外に明かりが漏れているかもしれない。
けれどベッドから降りてドアのところまで行くのはさすがに面倒だったので、枕代わりのふわふわの大きなクッションに背中を預けて座り、ベッドの上から返事だけする。
すると扉がうっすらと開かれて、隙間からいつもの物語の本を手にしたお兄ちゃんがそっと部屋に滑り込んできた。
あらあら、お兄ちゃんだったの。
じゃあ邪険にしなくて正解だったわね。
「どうしたの?」
クッションに背中を預けたまま来訪者に声をかけると、お兄ちゃんは私の問いかけに答えないままそっと枕元にやってきて、母さんがいない時いつもそうしてくれているようにベッド脇の椅子に腰を下ろした。
それから、抱えてきた物語の本のページを繰る。
・・・お兄ちゃんが私を寝かしつけてくれるのって、母さんがいない時の限定イベントだと理解してたんだけどね。
彼の意図が読めずにひたすら頭上に???を浮かべながら見守っていると、目当てのページにたどり着いた兄がページを繰る手を止めて私を見た。
「寝るまでいてやる。・・・ほら、早く横になれ」
端的過ぎてやっぱり意図が読めない。
とりあえず頭上の?はそのままに、兄に言われた通りクッションに預けていた背を一旦正し、上掛けの下に潜り込んで今度は頭をクッションに預ける。
「さっき母さんが来てくれたし・・・大丈夫よ、お兄ちゃん。私別に寂しくはないわ。構ってくれるのは嬉しいけど、お兄ちゃんは私よりずっと色んなこと勉強しなくちゃならないんだし、早く寝たほうがよくないかしら?」
寝る体勢はとったものの、やっぱり気になったので別の質問にすり替えて兄の意図を探る。
私の問いかけに少年はしばらくの間逡巡し、何度か何かを言いかけては言葉を探すように口を閉ざし、私はそんな兄を急かすでもなく待った。
やがて言いたいことがまとまったのか、兄がゆっくりと口を開く。
「夜は・・・ダメだ。もう大丈夫だと思っても、夜一人になると思い出す。考えても仕方がないってわかってるのに、それでも考えてしまって、余計に眠れなくなるんだ。・・・やっと、眠れたと思ったら夢に見る。何か全然違うことを考えながら眠るか、いっそ何も考えずに眠れればいいけど、それがすごく難しい。・・・だから、眠れるまで一緒にいてやる」
それは・・・つまり・・・あれかしら。
私ってばお兄ちゃんに心的外傷後ストレス障害疑惑を持たれてしまっている感じなのかしら。
P T S D 。
重い・・・重すぎるわ、この世界の淑女のパンツ・・・
突然のPTSD疑惑にぽかんとしているうちに、お兄ちゃんがいつもの淀まないゆったりした調子で、淡々と物語の朗読を開始する。
「あ・・・」
その様子を見ていてふと気づいたことに、思わず声が漏れる。
兄の視線が本から上がり、私に注がれる。
「い、え。何でもないわ。・・・この前のお話の続きだったわよね。面白いお話だったから私、すごく楽しみにしていたの。今度はいつお兄ちゃんが来てくれるのかな、って」
慌ててごまかしたけれど兄は特に不審には思わなかったようで、少しだけ満足そうに笑うとまた視線を落として朗読を再開した。
けれど私はそれどころではない。
気づいてしまったのだ。
私の心的外傷後ストレス障害を心配してくれるお兄ちゃんこそ、その体験者である事に。
言葉少なに語られた先ほどの症例。
フラッシュバック、不眠、悪夢。
淡々とした口調だったけれど、きっとお兄ちゃんはそれらを身を以て体験したから、私を心配してくれているのだ。
思い当たる原因はひとつしかない。―――母親の喪失。
目の前の、まだほんの頼りないこどもでしかない少年はいったいどれくらい長い間、たった一人で眠れない夜を越えてきたのだろう。
フラッシュバックに悩まされ、何度も何度も母の死に顔を思い出し、それを止められなかったことを悔いて。
きっと、この家の誰も気づいていなかっただろう。
彼のその深い深い傷に。
表面上だけ平静であればそれで大丈夫と納得してしまう周りと、痛みも苦しみも全部抱え込んで、たった一人で悪夢のような夜を過ごす小さな兄と。
ここと似たような広いばかりの部屋で、一人寝には大きすぎるベッドに横たわり、眠れもせず辛い記憶と毎夜向き合うことを余儀なくされる兄の姿が鮮明に脳裏に浮かび、それが余りにも痛々しくて気づけば私の涙腺はあっさりと決壊していた。
・・・ダメなのよね。
20も半ばを過ぎたころから涙腺がゆるゆるになっちゃって、それまでだったら絶対に涙なんか出なかったようなちょっとしたことですぐ泣いちゃうようになって、よく妹にからかわれたっけ。
お姉ちゃんは血も涙もないと思ってたのに、なんて言って。
たった一人暗闇の中で、大きなベッドの上で小さく丸まって、痛みの記憶に苛まれる兄。
それを想像しただけで、着心地のいいコットンの寝間着の袖で涙をぬぐうも、あとからあとから湧いてくる。
くッ!この体はまだ10歳にもなってないのになんで・・・!
目元をぬぐう動作が兄の注意を引いてしまい、こちらを見た兄が突然泣き始めた妹にぎょっとしている。
ちなみに、読んでくれいていたお話は前回聞いた内容から類推するに勇気と知恵で困難を潜り抜ける系の冒険譚で、決して泣けるようなお話ではない。
完全に変なスイッチが入った人みたいになっちゃったわ。
これじゃPTSD疑惑を払拭するどころかますます深まりそう。
でもやってしまったものは仕方がないので、潔くいくべきね。
そう決心した私は涙をぬぐうのを諦めて体を起こし、ベッドの淵まで這って行ってそのまますぐ隣にいる兄に抱き着いた。
季節は夏の終わり、秋の始まりとは言え、前の私の国とは違ってこちらは夜になるとずいぶんと気温が低くなる。
寝間着のまま本を読んでくれていたお兄ちゃんの体は冷え始めていて、直前まで布団にくるまれていた私はひやりとしたその体にドキリとさせられる。
突然泣きながら抱き着いてきた妹に最初は少なからず戸惑ったようだったけれど、それでもお兄ちゃんは私を振り払うこともせずにそっと背中に手をまわして柔らかく抱き返してくれた。
これでもう言い訳のしようもなく完全にパンツで心の傷を負った人になったけど、まぁいいわ。
少なくともお兄ちゃんの傷の一端を垣間見ることができたのだから。
これからどうやって治療してあげればいいのか分からないし、そもそも先立つ不孝をお許しくださいと詫びることはあっても置いて逝かれたことがないので、兄の気持ちを完全に理解してあげることもできない。
けどまだ何とかなるはずだ。
今からだって、きっと遅くはない。
・・・いつか、話せたらいいわね。
喪う事はもちろんとてもとても辛いことだけど、置いて逝くほうも負けないくらい辛いってことを。
もっと一緒に居たかったはずなのよ。
お兄ちゃんが大きくなって、誰かと恋に落ちて、そして幸せな結婚をしてこどもができて。
そういうのを、ずっと見守っていたかったはずなのよ。
私にはこどもはいなかったけれど、歳の離れた妹がいた。
だからきっと少しは、兄を置いて逝かざるを得なかったお母さんの気持ちがわかるだろう。
あの子にはもう、私の声は届かないけれど。
だからこそ、お兄ちゃんのお母さんの代わりに、いつか話せたらいい。
置いて逝きたくなどなかった、と。
――――もう、声は届かなくなってしまったけれど、それでもずっと、ずっと愛している、と。




