16.
更新直前で不備が見つかり、改稿しておりました。
いつもよりも長めですのでお時間ある時にどうぞ。
領内の通信部門が本格稼働したのはそれから3か月後、秋の始まる頃だった。
夏の終わりにお兄ちゃんのお誕生会があわただしく執り行われ、お兄ちゃんは11歳になった。
お兄ちゃんの雰囲気から勝手に冬生まれのイメージを持ってたけど、夏の名残が薄くなり秋の気配が日に日に濃くなるこの時期っていうのはなかなか意外だ。
貴族の跡継ぎの誕生会ともなると盛大なパーティなんかやるのかしら、と思っていたのだけれど、実際はお付き合いのある近隣の領地からどうしても招待しなければいけない人たちだけを招待したごく小規模なものだった。
通信部門の新設で忙しいからあんなささやかな規模のパーティになっちゃったのかしらとちょっとまた自己嫌悪に陥りそうになったので、真剣に記憶を探ると規模的には去年と変わらないようだった。
・・・とは言え、去年も今年も私は正式に出席できなかったので詳細は知らないけれど。
数年前にお兄ちゃんの誕生会に初めて出て、自分が主役じゃないことに盛大にご機嫌を損ねて以来、私は監視付自室待機―――軟禁とも言う―――が暗黙の了解のようだ。
まぁ今年に関して言うと監視は外れてたし、ちょっとだけ興味本位で覗き見はしたけどね。
てっきり私はお昼間にガーデンパーティとかそういう感じのものが執り行われると思っていたのよね。
だから、1週間くらい前からアルマが恐る恐る私のご機嫌を伺いつつ当日の行動を制限する旨伝えてきた時に、夕食を立食で出すパーティだと知ってびっくりしたのよ。
だってこどものお誕生日を祝うのよ?
お友達だって招くだろうし、当然お昼のパーティだと思っていたから、面食らうのも仕方がないわ。
その日はいいお天気で、暑くもなく寒くもなく、爽やかな気温に湿度となんともお昼寝や散歩日和だったのを覚えている。
けれどもお屋敷は朝から戦場みたいで、正直居場所に困ったわね。
父さんと母さんも夜には体を空けないといけないからかこの日ばっかりはバタバタ動き回っていて、朝食も昼食も一人で食べたのよね。
・・・あ、晩御飯も一人だったっけ。
確かに、あれはキツいと思うわ。
そこそこの人数の人間が行ったり来たりしてるのに、誰も自分にかまってくれないとなるとこどもとしてはさびしいわよね。
ご飯はちゃんと三食作ってもらえるし、お部屋の掃除も申し訳ないくらい普段通りだし、飢えさえしなければ私は別に放置されててもなんとも思わないけど。
少数精鋭の我が家だけあって、お嬢様付きのアルマといえども次期当主の誕生会に手を取られちゃって、まともに私の傍にも寄り付けなかったくらいだった。
朝・昼・夜と顔を出してちゃんと私が食べてるか、パーティに乱入する気配はないかと気を配ってはくれたけど、でもまぁ正直警備がザルだったから、あらかじめアルマが運んでくれた夕食のお膳を返しがてら自室を出て、パーティ会場になってたメインダイニングをこっそりのぞきに行ったのよね。
大きな扉を薄く開けて覗いたのは、まさしく貴族の世界。
メインダイニングは普段誰も使わないのでなんと言うか、生気に乏しいお部屋なんだけど、あの日ばかりは丁寧に磨き上げられてあちこちにガーランドさんが手塩にかけた花々が飾られ、巨大なダイニングテーブルはどこかに一時お引越ししてダンスができるようにスペースが取られていた。
食事は立食で壁際に並べられたテーブルには上品なクロスがかけられ、燭台の上でキャンドルが輝き、おいしそうな料理がたっぷりと湯気を上げて並んでいる光景は、これぞまさにパーティ、と言った風情。
内輪だけのパーティっていう事だったけれど、結構たくさんのお客様が見えていて、どなたもふさわしく着飾ったその様子は、これまたヨーロッパの絵画でこんなの見たことあるわ。な光景がリアルに私の目の前に広がっていた。
あれには正直ちょっと感動したわね。活人画って感じだったわ。
楽団が隅のほうで生演奏し、大人たちがグラスを持って手近な人たちとあいさつを交わし、そして主役のお兄ちゃんは令嬢たちに囲まれ・・・
そう、なんだかすごいことになってたわよね。
この世界では10歳11歳で婚約者がいるなんて珍しくもないそうで、11歳の次期公爵がまだフリーと言うことでお兄ちゃんてば蝶々を集めまくる珍しい花みたいになってたわ。
・・・ええと、一般的にはお花を女性に例えて群がる虫は男性、だったかしらね。
でもきらびやかなドレスを見てると、彼女らが蝶々っていうのもあながち間違いじゃないと思うんだけどね。
・・・いや、どっちかって言うと蜂かしら。
妹風に言うと“リアルガチ”貴族の世界が物珍しくてしばらく観察してたんだけど、お兄ちゃんの周りに群がった5人くらいの女の子たち、蝶々っていうよりもカチカチ音出して縄張りへの侵入者を威嚇してるスズメバチっていうほうがしっくりくる感じだったわ。
遠くからこっそり観察してただけだからどんな話をしてたのかは分からないけど、雰囲気だけ見たらテレビドラマとかでありがちなメンドクサイ女子の雰囲気で、お兄ちゃんの表情が無だったんだけどまるで構う様子もなくお互いに牽制しあってるみたいだったわね。
正直なところ、アレの中に入るなんて絶対無理だし、自室待機を命じられていてよかった、なんて思ったものよ。
でもこの最悪のタイミングで覗きをアルマに見つかっちゃって、逃げ出したダチョウを捕まえようとする飼育員の動きでじり、っと迫ってくるアルマの気をそらして、一生懸命やるべきことをやったのよね・・・
いや、お兄ちゃんを令嬢の包囲網から抜けさせてあげられないかなぁって思ってたのよ。
お誕生日なのに、余りにも見ていて気の毒だったからね。
けれど、自慢じゃないけれど私の目は節穴だから、万一あの5人の中にお兄ちゃんの好きな子が混じってたらかえってお邪魔よね、と思って、アルマに聞いてみたのよね。
あの中にお兄ちゃんの好きな子っている?って。
あの時のアルマのびっくりした顔、いまだに思い出すとちょっと面白いわ。
本人には絶対に言えないけれど。
そして、第三者の冷静な視点で見てもらって5人はお兄ちゃんの蝶々ではなくただの蜂と判断し、あの修羅場に踏み入ったのよね・・・できたらもう二度としたくないわ。
蜂ってあんまり刺されるとアナフィラキシーショックで死ぬものね。
そのころには状況がエスカレートしてて、レオンハルト様はわたくしと踊るのよ!いいえ、わたくしとよ、とお兄ちゃんを引っ張り合う令嬢たちをかき分けて、痛がってるじゃないそれでも母親・・・もとい好意を抱いてるの?とばかりに大岡様の威を借りて、その勢いのままお兄ちゃんは誰にもあげないんだから!とやったのよ。
・・・この私がよ?
面倒事は嫌いだし目立つのも嫌、メンドクサイ女子の仲裁は前世でさんざんやってもう十分なこの私が、バーゲンセール中のダメ押しタイムセールみたいなカオスな状況に自ら飛び込んで目玉商品をかっさらうんだから、それだけで本日の積徳は終了しました、よね?
5人のお嬢様たちには首尾よく嫌な小姑の存在を印象付け、お兄ちゃんは奪還し、なおかつ怒られるとしたら私一人、っていう状況に持ち込んだんだから、誰か具体的に褒めてくれてもいいと思うわ。
実際のところ、我が身を挺した英雄的行いにもかかわらず、第三者目線で見れば自室待機を命じられていたのにこっそり抜け出してパーティに乱入したわけで、怒られずに済んだだけで御の字って感じだったかしら。
まぁお兄ちゃんは喜んでくれたみたいだから、それで満足だけど。
ちなみに、それまでお兄ちゃんの誕生日の事なんて考えてもみなかったので、アルマから具体的な日程を聞かされた時は少なからず焦ったわね。
私の機嫌を損なわないためか単純に忙しかったからか、教えてもらえたのが割と直前で、最初はそうなのねー、おめでたいわー。くらいに考えていたのだけれど、こどもの誕生日というと欠かせないアレ―――プレゼントの存在に思い至ってからは焦ったわ。
前世ではもうお誕生日のプレゼントなんてやりとりするような年齢じゃなかったし、妹にはランチでもおごって、本人が欲しいって言う服だかコスメだか買ってやれば済んでたので、土壇場で気が付いて比喩抜きに血の気が引いた。
何か買おうにも私はお小遣いなんてもらってないし、そもそも外にも出たことがない箱入り娘。
できる事といったら料理・・・?くらいだけど、あくまで家庭料理を自炊していただけでプロ並みとはとても言えないし、こっちの素材とこっちの機材でどこまでできるかというと疑問符。
そもそもが『ナントカの素』愛用者としては、料理ができるなんて言うのすらおこがましいのかもしれない。レトルトをもたらしたもうた文明って偉大よね。
でもまだ11歳くらいのこどもなら、プレゼントの一つもないっていうのは寂しいものね。
アルマとシェリーに相談して、急遽作ることになったのが懐中時計用の布袋。
これなら私のボタン付け程度の手芸力でもなんとかなった。
ベルベットみたいなやわらかい厚手の生地でできた小袋で、腕時計とかを買ったらつけてくれる保存用の袋を想像してもらえれば大体合っている。
勉強以外することのない身なので袋自体はちゃちゃっと1日で完成したのだけれど、それに気をよくしたのか監督してくれていたシェリーが刺繍も入れましょうか!なんて難易度の高いことを言い出して、結局袋にお兄ちゃんのイニシャルを刺繍することになった。
文字通り血の滲む努力の末用意したプレゼントだったんだけど、まぁ刺繍の出来はお察しください、ね。
磨き布とセットでプレゼントしたんだけれど、今思えばそんなに嬉しいものでもないわよね。
よくよく考えたら、きっともっとちゃんとしたものを既に持ってるだろうし。
・・・来年、来年はもう少しこども受けを狙った何かでリベンジするわ。
第一回家族会議以降は父も母も忙しかったでしょうに二人とも家にいない期間はひと月の間で1週間か長くて2週間程度だった。
これまでの記憶では、お兄ちゃんの誕生日はほとんど使用人のみんながバタバタと準備して、当日の数日前に慌ただしく両親が帰って来て、終わるとまた音速で消えていくような感じだった。
今年は父母が手ずからお兄ちゃんの誕生会の準備をしていたので、空中分解したあの第一回家族会議も多少なりとも意義はあったようだ。
両親が家の事にかまけていた分、父の副官のジークや、母の同じく副官的な、助手的な立場にあるミアーニャが走り回ってくれたようで、機会があったらお礼をしておこう。
父母もしくはそのどちらかが家にいるようになって変わったことと言うと、まず何をおいても食事を家族で摂るようになったこと。
私覚醒からお兄ちゃんとの仲直りを経て、なんとなくお兄ちゃんとは一緒にご飯を食べていたんだけれど、ここがきっちりとルール付けされた感がある。
私の要望を通そうとしてくれたのだろう。
そこは感謝しているけれど、結果としてどちらかというと両親のためのルールになった気がする。
緊急案件が発生しない限りは決まった時間に食事が準備されることになり、まぁ最初は会話のはずまない事と言ったら、ゴムボールのつもりで里芋でも投げたような有様だった。
会話のキャッチボール、なんて言うけれど、両親から私たちに向けて飛んでくる里芋をひらりひらり躱すような状態、と言えば実態をご理解いただけるだろうか。
質問内容が微妙に外していて、答えてもイマイチ会話が広がらないのよね。
キャッチボールと言うかバッティングセンターみたいなのよ。
飛んでくるのが軟球でなくて里芋で、おまけにバッターボックスに立つ私と兄にはグラブどころかバットすら手渡されてない、みたいな感じかしら。
150km越えでこっちに向かって真っすぐかっ飛んでくる里芋なんて、もう避けるしかないわよね?
家族団らん楽しい食事とは到底言えず、距離を詰めたい両親と、社交辞令程度の私と、そして冷徹に一定距離を保つ兄の攻防の様相を呈しており、これならお兄ちゃんと二人でご飯にするほうが楽しくおいしくいただけるわ、と何度嘆息したことか。
せっかく作りたてのあったかいご飯を頂いているのに、あの寒々しい空気と言ったら・・・
まずお前が歩み寄ってやれよと言われそうだけれど、27にもなってお母さぁん、これおいしそう、食べさせてぇなんてマネできるわけもないし。
―――普通の8歳児でもそんなことしないか。
前から薄々わかってはいたんだけど、私って甘えるのが下手なのよね。
というか、長男長女の諸氏に伺いたいんだけど、下の子みたいに上手に両親に甘えられる?
無理よね?
あれ、私だけかしら?
お姉ちゃんでしょ!お兄ちゃんでしょ!って言われ続けてると、一人で立ってなきゃならないみたいな気がしてきて、親に甘えるなんてとてもとても、よ。
今は一応妹ポジションだから私の妹みたいに上手に両親に甘えればいいんでしょうけど、あれ無理なのよ。
“甘える”ってどうやら弟妹補正で最初から持ってるスキル、というわけじゃなくて、後天的に習得するスキルのようね。
そして私はすでに姉として27年やってきたので、そのスキルは習得不可能。
そもそも他人に甘えてお願いしてる間にさっさと自分で片付けたほうが早いでしょ。
―――ああ、可愛げがないわ、自分でもよく分かる。
でもまぁ8歳だったミザリーちゃんならいざ知らず、27歳オールドミスなミザリー嬢には親に甘えるとか荷が重すぎる。
親孝行の徳は別の方法で積ませてもらうわ。
今日も今日とて―――あの家族会議からおよそ3か月も経ったのに―――相変わらず会話の弾まない朝食を終えて、私はお兄ちゃんと連れ立って自分たちの部屋へ戻るところだった。
今頃両親は毎朝恒例の朝一反省会兼、今後の方針会議を行っているだろう。
昼にまた妙なこと言い出さないといいけど。
しかしここにきて改めて思ったけれど、お兄ちゃんがこんなにも頑固だとは。
両親のどちらかがほとんど毎日家に居て、ほぼ毎食一緒にご飯を食べるようになったのに、両親の日々の努力もむなしく全く距離が変わっていない。
もう少し心を開いて、たとえば父さんにだけでも甘えられるようになってもいい頃合いだろうに、頑なに軟化を拒んでいるように見える。
私のことですら許してくれた心の広い寛大な男にも、許せないことはあるらしい。
―――あ。
もしかして。
父さんてばお兄ちゃんの理解をきちんと得ないまま母さんを後妻にしたわね。
実母が亡くなって世界が壊れるくらいの衝撃の中にいるこどもを置き去りに、父親がすぐに新しい女をオカアサンダヨーなんて連れてきたりしたらそりゃもうショックよね。
そしてダメ押しに生まれいずる私、ってことね。
うわ。
それは無理ね。
許してもらえなくて当然じゃないかしら。
「お兄ちゃん、あのね?」
隣を歩く兄の手を握って注意を引いてから話しかけると、兄は手を握られていることなどまるで意に介さずにきちんと私に注意を向けて、目顔で続きを促してくれる。
ふふ、私は兄の信頼をここまで勝ち得たのよ。
両親に見せびらかしてやりたいわ。
「ええと、馬の乗り方を教えてほしいの」
内心のにやにやを外に出さないように注意しつつお願いを切り出すと、兄は唐突なお願いに一瞬だけきょとんとした表情を見せて、すぐに得心がいったと一つ頷く。
「あれは多分本気じゃないから、気にしなくてもいい」
ちょっとだけ苦い表情になってそう言う兄は、実年齢よりも大分大人びて見える。
先ほどのあっけにとられた表情は年相応だったのに、未来の統治者は早々に大人になることを求められるのかしら。
それってある意味残酷よね。妹の前でくらい、年相応のこどもでいてほしいものだわ。
そんなことを考えながら、私の返事を待っていてくれるお兄ちゃんに言葉を返す。
「でもね、父さんが本気じゃなくても、もしも何か事が起こった時に父さんと相乗りになるよりは自分一人で乗りたいのよ」
兄がまた一つ頷く。
その表情は、“うん。それはよく分かる”と言っているとしか思えない。
父さん、先は長そうね。
「もし本当に遠乗りに行くとしてもミザリーは馬車だろうから心配するな」
あ、やっぱりそうなのかしら。
いやでもそれはそれで気詰まりなのよ。
馬車ってことは、母さんと密室で何時間だか知らないけれど二人きりってことでしょ?
あのキス魔と密室で二人きりなんて・・・あり得ないわ。どう考えてもあり得ない。
ちなみに、あれから私と母さんの間では見えない攻防が繰り広げられ、現在では“おやすみのキス”だけは譲歩した。
うつ伏せ狸寝入り等、不自然にならない範囲で対抗処置を講じたのだけれど母の前には圧倒的無力で、私が布団を頭までかぶって寝ていようが限りなくうつ伏せで寝ていようが、母は的確に頬か額を狙ってくるので、最終的に私のほうが折れた。
毎晩毎晩これは積ん徳だから。積ん徳だから逃げちゃだめよ。親孝行、親孝行よミザリー、悟りの境地は近いのよ!今回天寿を全うしたらきっと『次』はないんだから!と自分で自分に言い聞かせている。ちょっとした自己洗脳だ。
ちょっと話して分かったのだけれど、おやすみのキス魔はお兄ちゃんの部屋にも出るらしい。
そしておやすみのキス魔のせいでお兄ちゃんは本を持って夜部屋に来てくれなくなってしまって、ちょっとばかり残念ね、なんて思っていたけれど、母さんのいない日はその分を埋めるように欠かさず来てくれて、一つ二つ短いお話を読みながら私が狸寝入りするまで傍にいてくれるのだ。
ホントにいい子よね。
このまままっすぐに育ってほしいわ。
盛大に脱線したけれど、話を戻しましょう。
事の発端は数日前の夕食時にさかのぼる。
あまりの会話の弾まなさに、シンとなる食堂に父さんが盛大に爆弾を投下したのだ。
いわく、家族みんなで一日どこかに遠乗りに行こう、と。
即座に母さんがいいわね!お弁当何にしようかしら!と乗っかり、そうだな、どこまで走ろうか、何たら湖なんてどうかな? あら素敵!素敵よあなた、そうだろうアハハウフフ(この間私とお兄ちゃんは黙々と食事)という地獄風景が繰り広げられ、なんだか遠乗りに行くような行かないような感じになっているのだ。
そして、ここで一つの問題が持ち上がる。
先ほど兄に頼んだ通り、私は馬になんて乗れないのだ。
乗れないどころか馬に近寄ったこともない。
馬車なら乗ったことがあるようなのだけれど、“私”降臨以降はお出かけは一度もしていないので、実質“私”が知っているのはこのお屋敷の中だけ。
貴族の令嬢って、乗馬とか習わないものなのかしら?
馬車に乗るから馬に乗れなくても問題ないって事かしら?
「・・・でも、乗馬に興味なくはないのよねぇ・・・」
本音がぽろりと零れ落ちた独り言を拾ったお兄ちゃんが、厩のメンツを思い出すような表情を浮かべつつ、一つ頷く。
「乗りたいなら教えてやる。・・・確か一頭、ちょうどいいのがいたはずだし」
初心者用の馬がいるって事かしら。
それはいいわね。
実は前世から乗馬をやってみたいと思っていたのだけれど、なかなかにお金のかかる趣味だったので手を出せなかったのだ。
生き物を飼って死ぬまで面倒を見るわけだから、馬たちが不自由なく生涯を過ごせる十分な額を利用者で負担するのは当然なのよ。
それは理解している。
そう、悪いのは私の稼ぎなの・・・甲斐性のない私なのよ・・・
「世知辛い・・・じゃなかった、ありがとう、お兄ちゃん。ぜひお願いしたいわ」
「あ?ああ、わかった。次の休みからさっそく、と言いたいところだが・・・」
言いかけて何かを思い出したらしいお兄ちゃんは、前世の薄給重労働を思い出した私のような苦い表情になる。
「どうしたの?次のお休みは何か不都合な予定があるの?」
「・・・いや、ちょっとな。お前は何か用事があるか?」
しばらく何事か考えて逡巡していたお兄ちゃんが、やがて意を決したように言う。
お兄ちゃんに聞かれて、私は一瞬考えてから首を横に振った。
「いいえ。ないわよ。何かご用?」
小首を傾げて問い返す。
休みと言っても先生が来ないだけで平日とする事・できる事はなんら変わらないし、そもそも友達が一人もいないお嬢様に休日の予定が入るはずもない。
・・・友達って、どうやって作るのかしらね?
できれば布や綿でできていない血の通った友達が何人か欲しいところだわ。
「次の休みに ネルガル公の第二公子が来ることになっている。ミザリーも、できれば面通しくらいはしておいたほうがいい。すぐ済むから、出迎えだけでも付き合ってくれ」
「あら残念。お兄ちゃんが遊んでくれるのかと思ったわ。でもわかりました。ネルガルの第二公子のお出迎えをスケジュールに入れておくわね」
遊んでくれるのかと思った、でちょっと困った表情になっていたお兄ちゃんも、私が唇にたっぷりと笑みを乗せると冗談だったと気が付いたようで、肩の力を抜いて緩い笑みを返してくる。
「その次の休みなら馬に乗せてやる」
「ほんと?・・・ふふ、楽しみにしてるわ。じゃあ良い子で公子をお迎えしなきゃね。・・・その第二公子ってお兄ちゃんのお友達?」
前半は笑って聞いていたお兄ちゃんが、後半のお友達のくだりで酢を飲まされたような顔になる。
なんだか妙な雲行きね。
「友達・・・って。まさかネルガル公を知らないのか・・・?いや、知ってるだろ?さすがに知ってるよな?」
だんだんと懐疑的になっていく兄の瞳に、私は大急ぎで記憶を検索する。
ねるがるこうって誰だっけ?
カタカナの名前ばっかりで誰が誰だかサッパリ覚えられないのよ、正直。
メイドさんたちの名前だって、全員知ってるはずなのによく会う娘たち以外は顔と名前が一致してないし。
せめて田中さんとか鈴木さんなら覚えられ・・・ないわね。
前世からあんまり他人に興味がなくて、人の顔と名前を一致させるのが苦手だったから・・・
「・・・あー、そうだわ。確か四大公爵家のうちの一つがそんな名前だった気がする」
必死に先生の授業の記憶を検索し、それらしいものを引っ張り出してくると、兄がどこかほっとしたようにうなずく。
「それだ」
「それか!ええと、地図上だとうちの左隣に領地があるわよね、確か。先生に教えて頂いた気がするわ」
「ああ。ネルガル公爵領とうちとがステインレスと直接国境を接していて、通常時の防衛のほとんどを担っている。その関係で行き来があって、第二公子は俺と同い年だから名目上は親睦を深めるための来訪だ」
名目上、っていうのが意味深だし、10歳児の口から普通に出てくることに驚くし。
貴族のこどもって大変ねぇ・・・
「お兄ちゃんは会ったことあるの?・・・ごめんなさいね、前に来てたかどうか全然覚えてないわ」
記憶を探るけれど、このお嬢様が自分の興味関心のないことを覚えているはずもなく、たまたま父さんか母さんが家にいるときに誰か知らないけど偉い人が来て、自分が構ってもらえなくなった記憶が2つ3つ見つかったほかは全く思い出せない。
「ああ。何度か会ってる」
兄がうなずく。どことなく、苦い表情で。
あら、あんまり馬が合わない感じかしら。
「どんな人?あんまり好きじゃない感じ?」
「いや・・・悪いヤツではない、と思う。ただ、若干・・・」
本音を言っちゃってもここには私しかいないし、誰にも言わないのだけれど彼の受けてきた教育がそれを阻むのだろう。
言いよどみ、しかめ面で適当な表現を探して考え込む兄に助け船を出す。
「・・・若干、お話が合わない感じかしら」
「ああ、それに近い。そんな感じだ」
「そう。じゃあ、彼が親睦を深めに来る日に私がちょっとばかりワガママを言って、お兄ちゃんを独占しようとするかもしれないけれど、まぁ小一時間も滞在していただければ当家と先方との間柄的には問題ないわよね」
「・・・穏便にな」
言葉とは裏腹に、つないだ手がギュッと握られる。
傍らの兄を見上げると私と視線を合わせないよう進行方向を見やっている彼の頬は、うっすら照れで染まっていた。
ふふ、期待しておいて頂戴。
かわいいお兄ちゃんのために、先方様にはうちの評判を傷つけない程度の微笑ましい兄妹愛というやつをたっぷりと見せつけてやるわ。
明日も全国的に寒くて雪が降るようですので、お仕事の方もお休みの方も皆様どうぞご安全に!