15.
「ミザリー・・・レオンハルトさん、寂しい思いをさせてごめんなさい」
不意にかけられた声にそちらを見やると、母が寂しそうな笑みを浮かべて私と兄を見ていた。
・・・そうか。
この人も、こどもたちを置いて家を離れるのは不本意だったのかもしれない。
けれども、この家に嫁いだ以上それを拒否するすべもなくて、ここまで来てしまったのだろう。
8年間すべてを覚えているわけではないけれど、そばにいてくれる時の母親はしっかりと慈しんでくれていた。
私の気持ちだけで思わず家族会議なんて開いたけれど、もう少し冷静に考えるべきだったわね。
お兄ちゃんの事ばかりが先行して、父さんと母さんの事なんてろくに考えてもみなかった。
きっともっと上手に母さんに甘えられれば、彼女がこどもたちに対して抱いている罪悪感も少しは減らしてあげられるのだろう。
けれども、母親に無条件に甘えられるこどもは、彼女の知らないうちにいなくなってしまった。
「母さん、ごめんね。私、この家の事しか考えてなかった。領主の仕事について理解が足りなかったわ。ダメね、これじゃ全然大人になれていないわ」
お兄ちゃんにとっての家庭環境を少しでも良くしたい、がこの第一回家族会議(空中分解済)の開催動機だったけれど、隣国との緊張状態や国境を接していることなどを考え合わせれば父も母もぎりぎりの妥協点として月に1度何とか帰ってきて数日滞在しているのかもしれない。
その辺の事は全く考えていなかった。
お兄ちゃんのお母さんが亡くなったのだって、国境でのいざこざが原因だったと言っていた。
ああもう、もうちょっとちゃんと考えるべきだったわね。
いやでも領地全土の情報収集システムを新たに構築できれば父さんと母さんがウロウロ動き回る必要性も最小限にできるでしょう。
盤面を変える、とまでは言えずともとりあえず一石を投じられたのだから、まずまずの戦果とすべきかしら。
自分の足りなさにぐぬぬとなっていると、椅子から立ち上がって私たちのそばへやってきた母さんがしゃがんで私たちと視線を合わせ、そして不意に私を引き寄せる。
うわ、と思う間もなく軽い少女の体はあっさり椅子を離れて母親の元へ引き寄せられ、彼女のいい香りのする首元へ顔をうずめるような形になる。
隣には同じくいきなり抱き寄せられて抵抗もできなかった兄が、同じように母に抱きしめられて酷く戸惑ったような表情をしている。
多分私も似たような顔をしているだろうけど、母はそんなことに構いもせずに私たちをぎゅっと抱きしめ、これまでの不在で積み重なった距離を失くそうとでもするかのように私たちに頬ずりをする。
食堂に居残っていたアルマが気をきかせてそっと出ていくのが母さんの肩越しに見えて、パタンというドアの閉まる軽い音でもって母子だけがこの場に残された。
しばらく母に抱きしめられ、兄も私もされるがままになっていると、母は満足するまで私たちを抱きしめてから兄と私の頬にそれぞれちゅ、と軽く口づけして、私たちを解放してくれた。
ちょ、ねぇ待って、やっぱりそうなの!?
やっぱりそういう文化なの!?
薄々は感じていたけれどやっぱりなのね!!??
でもちょっと無理だわ私にはなにフランクにちゅーとかしてくれてるの待って待って理解が追い付かないし私はそういう直接的スキンシップはもう今後一切お断り的な・・・
「父さんや他のみんなと話し合って、ちゃんと側にいられるようにするわ。もう、あなたたちに寂しい思いをさせたくない。それに、私もあなたたちの側にいたいもの」
突然の欧米的スキンシップに混乱している私をよそに、母は泣き笑いのような表情でほろ苦く笑うと、今度は私とお兄ちゃんの額にまた口づけてから立ち上がった。
ぎゃーーー!ちょっと何してくれてるのよ私はもうそういうのいいからって言ったじゃない!
なんで母さんにちゅーされて真っ赤にならなきゃならないのよ変でしょどう考えてもッ!ってかお兄ちゃんケロッとしてる!強い!さすが要らないモノ内蔵してない根っからのこっち産は強いわね!ダメ私無理!!こんなのやってられないし、実家に帰らせていただくわ!!!
私の大型で強い勢力の台風に直撃されたような内心の動揺を微塵も察知した様子もなく、母さんは先ほどよりは笑みの成分が濃い笑顔を作ると、今日はお昼ご飯も晩ご飯も一緒に食べましょうね、と言ってさらに笑みを深める。
それから少しだけ申し訳なさそうな表情になって、あなたたちとずっと一緒にいたいけれど、ちょっとだけお父様を手伝ってくるわね、と言って私たちがうなずくのを確認してから食堂を出て行った。
とどめのキスをされそうになったら逃げようと身構えていたけれど、どうにかその危機は回避された。
ああ、どうしよう。
この先もしも父さんにちゅーしておくれ、なんて言われたら、セクハラで訴えるにはどこに訴えればいいのかしら?こればっかりは最高裁まで争うわ。
ああああ、今更だけれど、私とんでもないものを家に呼び込んだんじゃないかしら?
慣れるのこれ?いつか慣れるの?無理じゃない?
だめ、だめよね?万一これに慣れちゃったら、私の中に一本だけ咲き残ってる大和撫子が盛大にブチ折れるわ。
まぁ、現実的に考えると慣れる前に恥ずか死するか、迫るスキンシップから逃れようと車道に飛び出して事故死かよね。
と、言ってもこの世界には自動車なんてないし。
―――馬車か。
馬に轢かれるってどんなかしら。
遺族と掃除させられる人がかわいそうだし、軽めに当たって即死しつつも原型留めてればいいけど。
・・・ダメじゃん!!!なに諦めてるの!?天寿!天寿を全うするのよミザリー!!欧米文化になんか負けちゃダメ!と言うか前回も事故死したんだから事故死は絶対回避でしょ!?そこは譲れないわよね!!?
・・・よ、よし。次のタスクは過剰スキンシップの安全確実な回避方法考案ね!
にこにこ楽しい死亡プランを練ってる暇があったらスキンシップ回避策開発に注力するのが上策だわ。
「・・・良かったな」
ぽつり、と兄がつぶやくように言う。
その声に混乱から引き戻された私が傍らの兄を見上げると、兄の視線は母が出て行ったドアの方に注がれていた。
どこか遠い、遠い場所を見るようなその瞳は、さっき出て行った母さんの背中ではないものを見ているような気がした。
「父様と・・・・かあ、さまが、・・・いてくださるんだ。これでもう、寂しくないな」
言葉とは裏腹に、兄の表情は寂しいと言っていた。
諦念交じりの寂しさしかないその表情に、私はふと気づく。
兄のために良かれと思って両親に家にいてほしいと頼んだけれど、兄の立場から見れば私の実母と実父が揃って家にいるだけで、自分の母はもういないという現実を改めて突き付けられるようなものなのかもしれない。
え、やだどうしよう。
またやらかしたかしら、私。
正直今の私にとっては両親なんていてもいなくてもべつにどっちでもいいし、まだ”親”という気がしないのでお兄ちゃんに感じるような家族の情も薄い。
そしてもちろんお兄ちゃんはそんなことは知らないわけで。
「ご・・・ごめんなさい!ごめんねお兄ちゃん!」
どう説明していいか分からないけれど、私がやったのは見当違いの事で、兄が望むものはもう永遠に戻らないのだという事だけははっきり理解できて、どうしようもなくて思わず謝罪の言葉が飛び出す。
他にどうすればいいか分からない。
「どうして謝る?ずっと父様たちに帰ってきてほしがってただろ。願いが叶ったのに、謝る必要なんてない」
兄の瞳が、遠いところへ行ってしまった彼の大切な人を透かし見るのを止めて、私に注がれる。
そこには妬みも羨望もなく、ただ純粋な疑問があるだけ。
彼は心から、妹の願いが叶ってよかったと思ってくれているのだ。
「ちがう、違うのよ!私は別に父さんたちに家にいてほしいとか・・・そういうんじゃなくて・・・」
言葉にするのが難しい。
お兄ちゃんは、”私”の事情など微塵も知らないのだから。
そして私の身に起きたことを、説明するわけにはいかないのだ。
どうしようもなくなって、言葉ではどう言えばいいのか皆目見当もつかなくて、けれども私のせいで新たに寂しさを抱えさせてしまった兄を放っておけなくて、私は思わず目の前に立つ華奢な少年に手を伸ばしていた。
本当は母さんがしたようにしたかったけれど、いかんせんこの体は兄よりも小さい。
だからかなり不恰好になってしまったけれど、私は兄の細い体に腕を回して、ぎゅっと彼に抱きついた。
兄の体は一瞬だけこわばったけれど、すぐに全身から不要な力が抜けるのが分かる。
残ったのはこどもらしい温かい体温と、どきどきと脈打つ心臓の音だけ。
守りたかったと言うとおこがましいけれど、彼にとって少しでもいい環境になれば、と、それだけ考えてしたことが彼を傷つけてしまって。
誤解だけは解いておきたかった。
到底許されないような酷いことを言って、きっとずいぶんな事もしでかしたに違いない妹を、それでも許して仲直りしてくれた兄に再び距離をとられることだけは避けたかった。
「・・・お兄ちゃんが夜に本を読んでくれて、私が眠るまでそばにいてくれて、それで私、寂しくはなかったのよ。
でも、私にはお兄ちゃんがいたけれど、お兄ちゃんには・・・誰か、いてくれた?誰か、眠るまでそばにいてくれる人、が。
―――父さんが帰ってきたら、きっとお兄ちゃんも独りじゃなくなると思ったの。だから、私・・・」
兄にしがみついたままで、できるだけ自分の気持ちを言葉にする。
やっぱり、誰かにありのまま気持ちを伝えるのは、とても難しい。
兄は黙って私の言葉を聞いていて、おもむろに頭を撫でてくれる。
きっと泣きそうな顔をしている私を泣かさずに済むように、という配慮だろうけど、そんなところも”お兄ちゃん”で私はますます自分が情けなくなる。
「俺にだって、お前がいる」
お兄ちゃんが小さくつぶやいたその言葉に、知らず目頭が熱くなる。
優しい子だ。
それも、とんでもなく。
みっともないので顔を伏せて泣いているのを気取られないようにしようとしたけれど多分無駄で、私の頭を撫でるお兄ちゃんの手つきが一層優しくなる。
泣く妹をどうにかしようとそばで慰めた経験のある私にはよくわかるが、彼だって強いふりをしているだけできっと内心は途方に暮れている。
私は取り繕うのをやめて袖口で涙を拭い去ると、笑顔に見えるように努力して作った顔で兄を見上げる。
真摯なサファイヤ色の海の瞳が私を見おろしていた。
「お兄ちゃん、私は・・・・・・私、お兄ちゃんが大好きよ」
小細工をせず、言葉を選ばず、ただ気持ちを伝える。
多分これは、こどもにだけ許された特権だ。
大人だってそうすべきなんだろうけれど、いろんなもので自分を縛ってそれをしない言い訳にする。
だから、まだ何にも縛られていない今のうちに、彼にたくさん伝えておこう。
私は彼の味方で、誰よりも彼の幸せを願っていることを。