10.
裏庭へは先ほどまでと同じように兄の先導で注意深く周辺を探しながら進んでいったが、ここでも成果は上げられなかった。
訓練場を抜けた先、庭木で訓練場と隔てられた裏庭は、家の周囲を囲む塀がなければ塀の向こうにある森と一体化しそうな有様だった。
道には石畳など敷かれておらず、踏み固められた下草やところどころ覗く土の地面でかろうじて通り道とわかる。
けれども歩きにくいようなことはなくて、ある程度人の意志が感じられる。
がしかし、先ほどまでと違って草木の勢いが強いので、落し物が行方不明になるのには理想的な環境だ。
もしもここで落としていたとしたら、とんでもない難事件よね。
お兄ちゃんが本を読んでいた場所で見つけられなければ、明日は他のみんなと山狩りしなきゃね。
そんなことを考えつつも可能な限り道の周囲に気を配って兄の背中を追っていくと、林が切れて野原のようになった一角に出た。
野原の真ん中にポツンと、ひときわ立派な木が生えている。
兄はザカザカとくるぶし丈の草をかき分けて、慣れた足取りでまっすぐにその木へ向かっていく。
そして大木の木陰に入ると私を振り返り、目顔で木の根元を指す。
「・・・ここで本を読んで、少しだけ昼寝をして、それから屋敷に戻った」
「わかった。じゃあ周辺を探してみましょう。そのあとは家の中をもう一度。今日は日も暮れてしまうしここの草は芝生より背丈が高いから、私たちだけで探すのが難しかったら明日みんなに頼んで草を刈ってもらいましょう。今日通ったルートは全部見たし、絶対に訓練所からここまでのどこかにあるわ」
時間の経過とともに、見つけられないのでは、という絶望の色が濃くなる兄の表情に、私はあえてここにあると言い切った。
それからまた何一つ見落とさないよう、這いつくばって木の根元の隙間まで丁寧に覗き込む。
林から野原に出てきたときにも思ったけれど、いざその根元へ来てみると、本当に大きな木だった。
上を見れば枝が四方へ張り出して、地面に大きな影が落ちている。
足元は根が複雑に絡まり合い、しっかりと地面を掴んでいるのが見て取れる。
懐中時計がポケットから零れ落ちて、何かの拍子に鎖がズボンから外れ、木の根の隙間に転がり込んでしまえば落としたことにも気づかなかっただろう。
地面から血管のように浮き出した根っこを四つん這いでまたぎ、隙間という隙間を確認しながら大きな木を一周する。
兄は言葉もなく立ちつくし、そんな私を見ていたが、やがて木の周辺の草をかき分け始めた。
この木が枝を広げているあたりだけ日当たりの関係か下草の丈が低く、丁寧に歩けば見落とすことはなさそうだ。
木を一周してしまうと私もそちらの捜索に加わり、やがて太陽がさらにその勢いを弱くし、夜の気配が濃くなり始めた時には、私たち二人ともが木の根元に座り込んでいた。
結局、見つからなかった。
空に向かって枝を広げた木が、風に揺すられてざわざわとざわめく。
もうすぐ西の空に姿を消す太陽が、今日最後のオレンジ色の陽光を薄々と投げかけてくる。
力を落とす太陽にだんだん木の影が薄まって、空気の温度が下がっていく中、私も兄も無言だった。
明日は山狩りね・・・誰に頼めば効率的にみんなの協力を取り付けられるかしら。
捜索しやすいよう、晴天だといいわね。
雨なんて降ったら探すのも大変だし、見つけた懐中時計が傷んでいる可能性が上がる。
それに時間経過に比例して動物やなにかが持ち去るといった不確定要素が増えていくので、できるだけ早く見つけたいものね。
不意に、ぐず、と鼻をすする音が聞こえ、私は隣の兄を見やった。
兄は膝を抱えて座り込んでおり、膝に顔を埋めるようにして声を殺して泣いていた。
―――もしかしたら。
もしかしたら兄は、これまでもずっとここで泣いていたのかもしれない。
こんな風に、たった一人で。
お嬢様のように、手当たり次第に誰かに当り散らして寂しさを紛らわせることもできずに、家族が誰もいない家の中で思い切り泣くことすらできずに。
たった10歳のこどもに、これを強いるの?
―――父と母と、早急に話し合いをしなければならない。
私は泣いている兄に寄って、この体でできる精いっぱいに彼を抱きしめた。
膝立ちになって背中に腕を回し、兄の体を私の体に引き寄せて、もう片方の手で頭を撫でる。
突然の出来事に兄の体がこわばったが、そんなものは無視して撫でる。
綺麗な銀の髪は砂を噛んでざらついた手触りがした。
この数時間、必死で野外を這い回ったのだから、私の髪だって似たようなものだろう。
兄の体から力が抜けて、小さく嗚咽を漏らしながら私に抱きしめられて撫でられるままになるまで、私はただ彼に寄り添っていた。
「明日、また探しましょう。お屋敷のみんなに手伝ってもらえば見つかるわ。絶対に」
腕の中で夕日に染まった兄の頭が、一度小さく上下した。
ざあ、と風が吹いて、木の枝を大きく揺らす。
太陽が弱まるに従って落ちた気温に私が一つ身震いをすると、それが合図になったように兄は私の体から自分の体を離して、うつむくようにして何度か目元をこすった。
「冷えてきたわね。―――さぁ、一回戻って今度は屋内を」
言いかけた私は、最後まで言葉を紡げなかった。
揺れる木の枝。
茜の空に、影絵のように見える。
その太い枝の中ほど。
なにかが、夕日をはじいた。
一瞬だったけれど、確かに反射光を感じた。
目を凝らす。
オレンジの光に、ちり、と再び鋭利なきらめきが走る。
私は慌てて立ち上がると、反射光が見えたあたりへ歩いて行って、たっぷりした枝の隙間を凝視する。
やっぱり、何かある。
あれは―――。
「お兄ちゃん!あれ!!鎖じゃないかしら?」
突然の私の行動に戸惑っていた兄は、その一言に弾かれるように立ち上がって私のそばまで来ると、同じように目を凝らして私の指す指の先を見つめる。
確かに、枝から垂れ下がるようにしてわずかだが華奢な銀色の鎖が見える。
鎖の先を追っていくと、どうやら鳥の巣のようだった。
幸いにも主は不在らしい。
「カラスか何か、光物に目がない鳥かしら。落ちてるのを見つけて、持って行ったんだわ」
同じく鳥の巣を確認した兄は、すぐに踵を返して木の根元に戻ると、躊躇もせずに木登りを始めた。
幸いにして下のほうの枝だが、巣があるのは枝の半ばよりも先で、こどもとは言え兄の体重がかかれば折れない保証はない。
危ないわよね。
ガーランドさんかルークにお願いして、脚立か何か持って来てもらうほうがいい。
そう判断して兄を止めようと木のほうへ戻りかけると、早くも巣のある枝にたどり着き、こちらへ来ようとしていた兄から声がかかる。
「ミザリー、そこにいろ!どこにあるか下から教えてくれ!」
思わず足を止めると、兄は器用にするすると枝を伝い、どんどんこちらへ近づいてくる。
あれだけ探していたものだから仕方がないが、これは止めても聞きそうにない。
「危ないわ!気を付けて!!」
「わかってる!」
兄の重みで枝がたわみ、下で見ているだけの私の手にも汗がにじむ。
嫌だわ、落ちて怪我でもしたら・・・見ていられない。
「巣がある」
ついに兄の手が鳥の巣をとらえたようで、伸ばした指先で枝をかき分ける。
私のいる場所に巣を構成していた小枝がぱらぱらと落ちてきて、銀の鎖がきらりと揺れる。
「もう少し奥にあるみたいよ。私が立ってる位置に鎖があるわ」
立ち位置を調整し、兄のために羅針盤代わりを務める。
私の位置を確認し兄がさらに枝の先に進むと、落ちてくる巣材が増える。
「あった!!」
兄の弾んだ声が聞こえ、私は緊張でいつの間にか止めていた息を吐く。
しかし枝は加重によりたわんでおり、探し物は見つかったとはいえ楽観視できる状況ではない。
「気を付けてね!落ちないでよ!!」
声をかけると、枝の上の兄は私を見、手のひらに握りしめた大切な探し物に視線を落として、しばらく考えてからその手をこちらに差し出してきた。
「ミザリー、これを頼む」
兄の手から銀色の輝きがこぼれる。
私はそれが地面に落ちて傷などつかないように、慌てて両手を差し出して受け止めた。
落とさずに済んでホッとし、両手で懐中時計を包み込んで息をつく。
大事なものなのに躊躇がなさすぎるわよ。
受け止めそこなって傷でもできたら大変
「うわ!?」
ドッという音とともに突然兄の体が目の前に落ちてきて、私は思わず短い悲鳴を上げた。
あんまり令嬢らしい悲鳴じゃなかったけれど、びっくりしたのだから仕方がない。
身長の倍くらいある枝から飛び降りたのに危なげなく着地した兄は、何事もなかったかのようにすっと立ち上がると私が大事に持った懐中時計へ視線をよこす。
両手に包み込んだそれを差し出すと、兄が伸ばしてきた手のひらにそっと載せて返す。
懐中時計を再確認した兄は、それをポケットにはしまわず、円環の鎖についた金具を外して首から下げた。
そうね。そうしておいた方が落とした時すぐに気が付きそうでいいわ。
「ん」
懐中時計が無事に持ち主に戻ったのを見て、今日は我ながらいい仕事をしたわ、とうんうん頷いていた私に、兄がまた手を差し出してくる。
「ん?」
まだ返すものがあったかしら?
もう預かっているものはないはずだけれど。
小首をかしげると、兄は焦れたように私の手を掴むと、そのまま屋敷目指して来た道を戻り始めた。
ぐいと引かれて、私の足も歩き出す。
兄の手は私のそれよりも大きくて温かくて、力強かった。
これはちょっとだけ歩み寄ってくれたという事かしら。
だとしたら、嬉しい。
私の手を引いて振り返らずにどんどん歩いて行く兄に、嬉しくて思わず笑ってしまった顔を見られずに済んでよかったわ、なんて思っていると、夜が始まって星が瞬き始めた空に屋敷の温かい光が見えてきた。
そして、二人して仲良く家に戻った私たちは、侍女たちに泥んこになった姿を見咎められ、心配されたり叱られたりお風呂に追い立てられたりしたのだった。