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1.Hello, World!

皆様のよい暇つぶしになりますように。

それは、唐突にやって来た。

麗らかな春の日、いつも通りふかふかのお布団で目覚めた私は、もはや昨日までの私ではなかった。

8年。

長い、長い眠りから、唐突に覚めて。

思い出したのだ。

かつての"私"に何があったのか。



何を言っているか分からないかも知れない。

私自身もまだ混乱していて何が何だかよく分からないのだ。

でも確かに、私はもう昨日までのミザリー・フェンネル公爵令嬢(8歳)ではなくなっていた。

ズッと鼻をすする音が聞こえて、私は不意に、自分が泣いていることに気が付いた。

こども特有の弾力のあるもちもちとした頬を、とめどなく涙が伝っている。

上質なコットン素材のひらひらしたネグリジェの袖で思わず涙をぬぐっても、まさしく滂沱としか言いようのない有様で、涙は収まらずに後から後から湧いてくる。

夢の中で前の”自分”の記憶がフラッシュバックし、おまけに死に際の追体験までしたのだから、これは仕方がない。

涙だけでなく、小さな体は小刻みに震えていた。

ぎぎぎぎぎ、と軋むようなブレーキ音と吼えるような警笛。

強烈な光源とその後ろの黒い影が慣性を殺し切れずに迫ってくるあの瞬間がまたフラッシュバックし、私は思わずギュッと目を瞑ると自分自身を抱きしめた。

あれで、前回の”私”の27年の生涯は幕を閉じたのだ。



本当に何を言っているか分からないかも知れないが、この私、ミザリー・フェンネル公爵令嬢(8歳)は、昨夜いつも通りにベッドに入り、そして本日只今、前世の記憶を取り戻して目覚めたのだ。

夢ではない、確かにこの身で体験した出来事の生々しい記憶。

8年分の今の私に、前の27年分の”私”が上書きされたその衝撃は、軽く人格が変わるくらいのものだった。

それも仕方がない。

なんといってもすでに自我が芽生えて形成され、成熟した27年の記憶に、この体での8年の記憶――まるで記憶にございませんの乳児期と記憶があやふやな幼児期含む――が太刀打ちできるわけもない。

そうして、この私ミザリー・フェンネル公爵令嬢(8歳)は、一夜にして見た目は8歳中身はアラサーのハイブリッド公爵令嬢ver.2へと大変貌を遂げたのだ。

これはもう、生まれたての芋虫がいきなり蝶になるくらいの変態ぶりだ。

変態か・・・と思っていると、前世の死に際の記憶がふっと遠のいて、今いる現世が目に入った。

ふかふかのお布団。

広いベッドは四隅に木製の柱があり、私の身じろぎで白い薄絹の天蓋が自重を感じさせない優雅さでふわりと舞う。

一人で使うには広すぎる部屋の、南に向いて大きく取られた開口部からは光がいっぱいに差し込んできて、豪華な調度を照らし出す。

床はふかふかの絨毯、置かれた揃いのオーダーメイド家具もマホガニーか何かの一級品ばかり。



なんて、場違いな。



昨日まで当たり前だったその部屋への、それが率直な今の感想だった。

なんせ前の”私”は普通のサラリーマン家庭に生まれた2人姉妹の姉で、父母と妹の平凡な4人家族。

小中高と公立へ行き、大学は国立を滑って中流私立へ。

そのあと中規模の商社に就職してOL人生。

それが。

事故で27年の生涯を閉じたと思えば何がどうなったのか転生し、今や公爵令嬢である。



もしかして、前世で積んだ善行・・・貯徳が満期になったのだろうか。

あ、でも満期だったら輪廻の輪から解脱できるのかな・・・?

じゃあこれが、この生まれた時から公爵令嬢=勝ち組確定が、最後の一周、ボーナスステージというやつなのかもしれない。



そんなことを考えているといつの間にか自分ではどうしようもなかった感情の洪水は収まり、あれだけ涙が出て震えていたのが嘘のように、涙の消えた目でもう一度部屋を見渡すと、私は大きな寝台の端まで這いずって行ってぴょんと飛び降りた。

まるで悪い夢から覚めた後のように夢と現実の堺があいまいだったのが、降り注ぐ朝の陽ざしに、不安定だった自分の立ち位置が固定されていくような安心感を覚える。

ここで得た8年の記憶で、この部屋なら何がどこにあるかは分かっている。

陽のあたる窓際のテーブルに侍女が用意してくれた洗面器と水差しがあるので、迷わずそこに行って椅子に上り、足りない身長を補う。

それから、この体には少し大きい水差しを両手で持ち上げてゆっくり洗面器に水を注ぎ、ひやりと冷たい水で顔を洗う。

嘘のように消えた涙、と言ったが、顔を洗ってみると頬は涙の跡でガビガビになっていた。

よく洗ってから洗面器の隣に準備されたふかふかタオルで顔を拭くと、前世の記憶が戻った衝撃もいくらか一緒に洗い流せたようで、気分が少しすっきりとした。

とは言えまだ、みかんの箱の中に1つだけ投げ込まれたリンゴみたいな、場違いで居心地の悪い気分なのだけれど。


しかしながら、例え私がみかん箱の中に1つ混入したリンゴだったとしても、とりあえずまわりのみかんたちにそれを悟られるわけにはいかない。

どれほど据わりが悪くても、とにかくお嬢様として今ここにいる以上、世界に混乱をきたさないように与えられた役割を演じ続けなければ。

となれば次は着替えだ。

コットンのふわふわネグリジェは着ていて楽でとても愛らしいのだが、このまま私室の外へ出るのはあまりよろしくないと8歳の自分が警告してくる。

着替えは私を起こす時に侍女が持ってきてくれるのだが、昨日までの私の事をふと思い出す。

そして、先ほどと違う意味で泣きたくなった。



―――なんでこんな時間に起こすの!まだ早すぎるじゃない!!

―――冷たい!こんな冷たい水でわたくしに顔を洗えと言うの!早くお湯を持ってきなさい!!

―――これは嫌!こんな地味な色、わたくしには似合わないわ!!



ほかにも、ほかにも。

そう、前世の”私”(享年27歳)がダウンロードされる前の現世の私(現役8歳)は、お世辞にも扱いやすいお嬢様とは言えない娘だったのだ。

ちなみに、私は先ほど冷水でばしゃばしゃ顔を洗ったが、このお嬢様(私、8歳。27歳ダウンロード前)は、いつもこの冷水にお湯を足したちょうどいい加減のぬるま湯で顔を洗っておいて、冷たいからお湯を!である。

そのわがまま度合、推して知るべし。

昼前に起こされてキレ、ぬるま湯で顔を洗うのを拒否し、お針子さんが丹精した仕立てのいい上品なお衣裳としか言いようのないものを無造作に床に打ち捨てる。

・・・ダメだ!!

前世まででコツコツ積んだ徳を・・・満期になりつつある貯徳を、定期解約して盛大に食いつぶしている。

やめて私!今すぐやめて!!

前世の27年だけでも、年の離れた妹ができてからのお姉ちゃんだから徳約に始まり、学生時代の一貫した女子の軋轢バランサー定期徳約、プチ氷河期の連続お祈り就職戦線をどうにか潜り抜け、社会に出てからはわがまま顧客対応徳典に共感能力欠如の無理難題上司オプションと、最近加わった親から結婚・孫催促の苦行まで余すところなく網羅した、なかなかの修行量だったのだ。

そうして貯めた貴重な徳を、こんな8歳児に全消費されたら、前回どころか前々回以前の私にも申し訳が立たない。

またミジンコからやり直すのなんてごめんだわ。

親が全部持ってるからそれをかさに着てわがまま放題なんて、お姉ちゃん許しませんよ!!


波紋が落ち着いて凪いだ洗面器の水面に映る8歳児に、思わず内心でお説教をする。

別に前世の私は僧職系女子ではなかったのだが、こうして転生してきている今、輪廻に信憑性を感じるしかない。

水面に映った女の子は夜のとばりのような長いサラサラの黒髪に、少し釣り目がちではあるものの、はっとするほど綺麗なアーモンド形の目をしており、瞳は光の加減で濃淡が変わる紫水晶のような紫色。

肌の色は白磁、まるで人形作家が丹精込めて作り上げたような、どこか人間離れした美少女だった。

しかし見た目こそ可憐なお嬢様なのだが、怒っているような、怒られて拗ねているような表情は、いかにも甘やかされて育ちました、という背景史が透けて見える。

水面に映る幼女を見ながら、もうちょっと愛想よくして今世でも徳を積もう、と思っていると、控えめなノックの音。


侍女のアルマが起こしに来てくれたのだ。


いつもならお嬢様はまだ爆睡中なので、返事がないことに慣れているアルマはノックの後しばらくしてから遠慮がちにドアを開き、すでに洗顔を終えた私が椅子に座っているのを見て、隠しきれないほど驚いた顔をする。

いつもご迷惑おかけして、まことに申し訳ない。

若干15歳の侍女に内心で謝って、私は腰かけていた椅子からぴょんと飛び降りた。



「おはようございます。」


こちらから挨拶をすると、アルマは最初のお嬢様起きてた!の驚きから続けざまに衝撃を受けたようで、すでに驚きで広がっているハシバミ色の目をさらに大きく見開く。

そして、次の瞬間主家筋に無礼を働いていることに気づき、慌てて軽く膝を折って挨拶を返してくる。


「お、おはようございます、お嬢様」


動揺が出るのは仕方がない。

彼女はまだ年若いのだから。

8歳のお嬢様の遊び相手になれるよう、できるだけ年の近い侍女を探してあてがってもらったのが彼女なのだが、昨日までの私は8歳児にしては生意気すぎ、一緒に遊ぶどころかずっと彼女を見下すような態度を取り続けていた。


そのお嬢様が、一晩で別人(27歳 社会人)になるのだから、動揺するなというほうが無理だ。



「遅くに起きてごめんね。いつまでも仕事が片付かなくて困るよね。あ、すぐに着替えるから、着替えをもらえる?」


メインはお嬢様の世話だとしても、彼女の仕事はもちろん私の相手だけではなくて、そのほかにも家の用事を色々こなしている。

我がフェンネル公爵家は四大公爵家の一つなどと言われているのに少数精鋭がモットーらしく、屋敷の規模を考えると働いている人の数は少ない。

アルマの労働量を考えてできるだけ手間をかけさせないように着替えを受け取ろうと近寄ると、彼女は一層慌て始めた。


彼女はまずテーブルにお湯の入った水差しを置くと、いつも通り左腕一杯に持って来た沢山の着替えを、いつも以上に慌てて手近のソファにおいて、一着一着お嬢様によく見えるように広げようとしてくれるので、それを押しとどめて一番上にあったものを選ぶ。

正直、なんでもいいのだ。

もちろん時期に合わないものだとか、礼儀に適わない変なものは初めから持ってこないし、とりあえずなんでも着てさえいれば誰にも失礼に当たらない。

手に取った菫色のワンピースはお嬢様の黒髪と瞳の色によく似合うと思うのだが、8歳児だった私はこの色は地味だと吐き捨てて、ピンクだのオレンジだの絶望的に似合わない色を求めていた。

そんな私が普段なら目もくれない菫色のワンピースにサクサク着替え始めたものだから、アルマの驚きぶりはいかほどだろうか。

目を一杯に見開いて言葉をなくした彼女をしり目に、ちょっとでも手を取らせないように私はさっさとネグリジェを脱いでソファの肘掛けに掛け、手早く下着を整えてワンピースに袖を通す。

仕立てもよく素材も上等、襟の高い上品で大人びたデザインのワンピースなのだが、一つだけこれを選んで後悔した点があるとすれば。


「ごめんね、背中のボタン、留めてもらえる?」


そう、ボタンが背面にあって、厳密には一人では着られない仕様だったのだ。

これの事はきちんと覚えておいて、明日から気を付けなければ。

硬直していたアルマは、私の声掛けで慌てて私のそばに跪き、丁寧に髪を避けてから後ろのボタンを留めてくれた。

ついでに、寝癖などないサラサラストレートの黒髪をエプロンのポケットから出した櫛で優しく梳いてくれる。


「ありがとう。顔はもう洗ったから、朝食を食べに行って構わない?」


振り返って身支度のお礼を言うと、近距離で目を合わせたアルマの口角がぎぎっと上がり、笑顔らしきものを形作る。

ハシバミ色の目とライトブラウンの髪に、少しだけそばかすのある頬をした彼女は、お仕着せの侍女服姿でも大変愛らしい。

美少女だけど近寄りがたい雰囲気のお嬢様とは違って、ほっとするような、見ていて和むような愛らしさだ。

が、今の彼女の表情はせっかくの愛らしさが半減するような、この世ならざるものを見てしまった者のそれ。

8歳児の私の素行の悪さは、その記憶をそのまま引き継いだ私にもよくわかるので、やはり彼女の反応は責められない。

ごめんね、これからちょっとずつ罪を償うから。

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