自らの狂気体験と「器官なき身体」(ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』第一章第一節の読解)
私は分裂症者としての経験から、ドゥルーズ=ガタリの描写する分裂症者の世界に非常によく共感できる。
ドゥルーズ=ガタリは、作家ビューヒナーの描く発狂者レンツの散歩を引用して次のように言う。
「天上の機械、星々または虹、山岳の機械。これらが、レンツの身体もろもろの機械と連結する」(ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 上 資本主義と分裂病』宇野邦一訳、河出書房、2006年、16頁)
「レンツは、人間と自然が区別される以前に、あるいはこの区別を条件とするあらゆる指標以前に身をおいたのだ。彼は自然を自然としてではなく、生産のプロセスとして生きる。もはや、ここには人間もなければ、自然もなく、ただ一方を他方の中で生産し、もろもろの機械を連結するプロセスだけがある。いたるところに、生産する機械、あるいは欲望機械が、分裂症的機械が、つまり類的生命そのものが存在する。私と私でないもの、外なるものと内なるものとの区別は、もう何も意味しないのだ」(同上、16‐17頁)
ここに言う「機械」とは、フロイトの言う<それ>(エス)に対して、ドゥルーズ=ガタリが打ち出す、特異なモチーフである。
「<それ>と呼んでしまったことは、何という誤謬だろう。いたるところに機械があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。連結や接続をともなう様々な機械の機械がある」(同上、15頁)
「乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である」(同上、15頁)
この機械は互いに連結して「生産のプロセス」を構成する。そしてこのプロセスこそが分裂症者の生きる自然となるのである。
「分裂症者が独自に類として生きているのは、決して自然の特定の極などではなく、生産のプロセスとしての自然なのである」(同上、19頁)
ドゥルーズ=ガタリはこの生産のプロセスには三つの意味があると指摘する。そのなかでも、とりわけ、わたしが共感できるのは、二つ目の意味である。
「第二に、ここでは自然‐人間の区別も存在しない。すなわち、生産としてのあるいは産業としての自然においては、類としての人間における場合と同じで、自然の人間的本質と人間の自然的本質は一致している。このとき、産業はもはや有用性という外面的な関係から把握されるのではなく、自然と根本的に一致しているという観点から把握される。自然は、人間を生産するとともに、人間によって生産されるものである」(同上、20頁)
ふつう、人間と自然は対立するものである。それは例えば、人工と自然という対義語の組み合わせからも窺われる。しかし分裂症者は違う。彼らは自然を産業にとっての有用物と見るのではなく、自然と一体となるのである。そしてその一体となる自然というのが、生産のプロセスとしての自然なのである。
しかしどのようにして、分裂症者は自然と一体となるのだろうか。
私的な話をすれば、私の場合、陽性症状が出ていたとき、私は気の流れをコントロールすることができると思い込んでいた。実際はそのようなことはないのだけれども、私の身の回りには気が流れていて、それは私の皮膚を通り抜けて、宇宙を駆け巡っているのだった。
そして、そのような妄想に至ったのは、もう今ははっきりとは思い出せないけれども、確かあのとき、私は思索の果てに、宇宙全体を包む思想を身をもって獲得したと思い込んだからだった。
今となっては稚拙な思想だったと思うが、それでもそれはたしかに、自然全体を包んでいた。このエピソードからもわかるように、たしかに私は、ドゥルーズ=ガタリの言うように、自然と一体となっていた。
ドゥルーズ=ガタリの場合、彼はフロイトの記述した有名な精神病者シュレーバー控訴院長の例を持ちだしている。
「シュレーバー控訴院長は何かを感じ、何かを生産し、そしてこれについて理論を作ることができる」(同上、16頁)
ここで言う理論が、宇宙の様々な機械を担うことになる。
「人間は万物の王者ではなく、むしろ、あらゆる形態あらゆる種類の深い生と接触し、星々や動物さえ引き受け、<器官機械>を<エネルギー機械>に接続することをやめず、彼の身体の中には樹木があり、口の中には乳房、尻の中には太陽があり、人間は宇宙の様々な機械を永遠に担っている。これがプロセスという語の第二の意味である」(同上、20頁)
「<器官機械>」や「<エネルギー機械>」という耳慣れない語は置いておいて、ここで私が言いたいのは、分裂症者はその身体を自然と一体化し、ドゥルーズ=ガタリの言葉で言えば「機械」の連結するプロセスのなかに身を置いているということだ。私はこの描写に、非常に親近感を持って触れることができる。
ところが、ドゥルーズ=ガタリの分析はここで終わらない。生産のプロセスとしての自然と一体となったとき、分裂症者に第三の契機が起こるのである。
そもそもここで読み解いている本は、表題にもあるように、フロイトのオイディプス・コンプレックスへ対抗する形で打ち出されたものである。フロイトの理論では、「エス(イド)」とは、無意識に属する本能的な欲望のことを指すのであった。これに対してドゥルーズ=ガタリは、欲望すらも機械と呼ぶ。つまり欲望機械なるものを措定する。そしてこの欲望機械は、フロイトの理論に従って、いたるところで機能する。
そしてこの欲望機械の本質は二項対立であり、そこから線型状に「生産の生産」というかたちでプロセスがのびてゆく。
「欲望機械は二項機械であり、二項的規則、あるいは連合的体制をそなえた機械である。ひとつの機械は常に他の機械と連結している」(同上、21頁)
というのも、欲望機械には流れを生む機械と、その流れを断ってそこから採取する機械があるからである。
「つまり、ここには常に流れを生産する機械と、この機械に接続されてこの流れを切断し採取する働きをするもうひとつの機械が存在する(母乳‐口といった関係がそうである)」(同上、22頁)
「したがって、二項系列はあらゆる方向に線型状にのびてゆく」(同上、22頁)
この欲望機械に接続された分裂病者に、第三の契機が起きる。それは生産の停止である。
「欲望機械は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は、組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、まったく組織などないほうがいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる」(同上、25‐26頁)
それは器官なき身体、別の名として、死の本能と呼ばれる。
「そこには「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もない」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである」(同上、26頁)
「死の本能、これがこの身体の名前である」(同上、26頁)
この「器官なき身体」はどのように捉えるべきだろうか。
レンツは、「人間と自然が区別される以前に、あるいはこの区別を条件とするあらゆる指標以前に身をおいた」のだった(同上、16頁)。そしてこの生産のプロセスは欲望機械として、つまりは生産の生産として、さらには有機的な全体として動いている。
「だからこそ、あらゆる機械が機械の機械であるように、欲望的生産は生産の生産なのだ」(同上、23頁)
しかし現実にレンツを待つのは死である。人間と自然が区別される以前に身を置くレンツは純粋に自然と一体になって生きている。しかし死はそれら一切を無に帰す。そこではもはや生産のプロセスは成り立たなくなる。
ただし器官なき身体は無の証人ではない。それはイメージのない身体なのである。
「器官なき身体は、根源的な無の証人でもなければ、失われた全体性の残骸でもない。(中略)それはイメージのない身体なのである」(同上、27頁)
それは純粋な反生産と呼ばれる。
「器官なき充実身体は、反生産の領域に属している」(同上、27頁)
ドゥルーズ=ガタリは次節から、この器官なき身体と欲望機械のあいだの軋轢を描写してゆく。ただし、それについてここでは触れない。
思うに、ここで言われる器官なき身体は、純粋な死の現前を表しているのではないだろうか。純粋な死の現前というのは、続く生の延長線上に位置する末端としての死ではなく、いつ不意に訪れるかもわからない、可能性としての死であり、無のことである。
このイメージなき身体は、欲望機械によって目まぐるしく稼働する全体においても、特殊な契機として登場する。
「それは非生産的なものでそれが生産されるまさにその場所に、二項的‐線型的系列の第三の契機において存在する。それは、たえまなく生産のプロセスの中に再投入されることになる」(同上、27頁)
ここで、器官なき身体は生産のプロセスに再投入されるが、それはもはや身体と呼ばれ、機械ではないものとなる。それゆえにすぐれて反生産的と呼ばれる。
ここで描かれているのは、純粋な死の現前を前にした「不可解な、直立状態の停止」ではないだろうか。
私的な体験を語れば、私は気の流れの中で自ら宇宙と一体となっていたとき、何度も契機として、純粋な死の現前によって覚醒する必要があった。そう語れば、まさしく狂気的と人は捉えるだろうが、陽性期の私を包む妄想において、死の現前はそれほど欠かせない契機だったのである。
ここで読み解いた本の副題は「資本主義と分裂病」である。巨大な生産の流れである資本主義の中で、分裂症的な反生産、つまり器官なき身体はどこに落ち着いてゆくのだろうか。このような問いを残して、第一章第一節の読解を閉じる。