ジャンヌ、文字を習う
指揮官たちがそれぞれに動き出し、兵士が休息する中、軍議の間にぽつりと座る少女を見つけ出す。
彼女は小さな椅子につまらなそうに座り、頬杖を突いていた。
話しかけるか迷った。
話しかければ遊んでくれとせがまれるような気がしたからだ。
これから忙しくなるし、休養は十分に取りたかった。
なのでしばらく声を掛けなかったが、彼女がイヴをじいっと見つめていることに気が付く。
彼女が読んでいる本を羨ましそうに見つめていた。
あれはこの世界の辞書で、読んでも面白くないものなのだが。
そう思っていると、彼女はぼつりとつぶやく。
「……いいな、文字を読めて」
その言葉を聞いて彼女の感情をおおむね理解した。
どうやら聖女ジャンヌは本が読みたいようだ。
彼女はフランスの片田舎に生まれた貧しい農民の娘、異世界フランスでも文盲だったと聞く。
この世界の文字を読めるわけもなく、難儀しているようだ。
哀れに思った俺は、彼女に話しかける。
「ジャンヌよ、本が読みたいのか?」
「魔王だ」
と、こちらを見上げる。
「うん、読みたい」
「行政官になりたいのか?」
「まさか」
「ならば貴族とか?」
「とんでもない」
「じゃあなぜ、本を読みたいのだ?」
「本を読めれば退屈しそうにないから」
「なるほど、たしかに」
「この城の図書館には面白そうな本がたくさんあるの。それをいっぱい読みたい」
「そういえばたまに図書館に出入りしているな」
「うん、挿絵だけ読んでいる」
「涙ぐましいな」
「かもしれない。私はけなげな女」
よよよ、と泣く振りをする。
可哀想だと思った俺は、彼女に文字を教える約束をする。
「いいの? 魔王」
「かまわないよ。ジャンヌはこの城の要。文字を読めたほうが便利だし、それに君を退屈させたくない」
「魔王はベッドの上でも同じことを言いそう」
「事実無根だな」
「土方が言っていた。閨で女を退屈させる男はくずだって」
「幕末有数のプレイボーイの言うことは聞かないように」
「はーい」
と素直に従ったので、そのまま授業を始める。
イヴに紙を持ってこさせると、この世界のアルファベットを教える。
この世界の共通言語のアルファベットもフランスと同じだ。
A~Zまでの26文字がある。
もちろん、形は違うが、それでも覚えやすいだろう。
もっとも、ジャンヌは元の世界のアルファベットも知らないのだが。
なので懇切丁寧に、この世界のAから教える。
Aと書くと彼女は、
「アーと発音する」
まあ、正しい。
Aと書いてエーと発音するなど、田舎国家イギリスくらいで、普通はアーと読む。
まったく、イギリス人は料理がまずいだけでなく、言語までややこしくしやがって、と愚痴を述べると、ジャンヌも賛同した。
「私もイギリス人は大嫌い」
「俺もだ。この世界には紳士の格好をした獣と、獣の格好をした紳士がいるが、イギリス人は前者だな」
「気が合う」
「でも、まあ、紅茶は好きだけど」
「それには同意」
ふたりは、ズズーっとイヴの入れてくれたオレンジペコを飲む。
紙にこの世界のAをたくさん書き、なんとなく覚えたジャンヌ。
次にBを教えようとしたが、彼女は拒否する。
「今日はAだけでいい。その前に言葉をひとつ、まるっと覚えたい」
「それは結構だが、なにを覚えたい?」
彼女は目をつむり、ゆっくりとその言葉を口にする。
「アシト」
と――。
どうしてもその言葉を書きたい、とせがむ。
なんで俺の名を、と思うが、仕方ないので教える。
「ASHITO」
ジャンヌは一生懸命にその言葉を書き取る。
見よう見まねなので汚いが、Aだけは上手だった。
ジャンヌはASHITOと書き終えると、その紙に接吻をし、護符の中に入れた。
「それはおまじないか?」
「私の故郷に伝わるおまじない。大好きな人の名前を書いて入れておくと、そこに矢が飛んでこない」
「なるほど、だから胸に入れるのか」
「おっぱいの下には心臓がある」
「胸に限らず、どこにも矢が当たらないことを祈るよ」
「それは大丈夫、私はオレルアン包囲線でも、矢に当たらなかった。単身、敵中に飛び込んでも、矢のほうが避けてくれた。神様のおかげ」
「神のおかげならばそのお守りはいらないのでは?」
「魔王は無粋。神様も24時間営業ではない。ときにはお昼寝もする。そのときにこれは必要」
「なるほどね。まあ、それでジャンヌが無事帰ってくるならば嬉しいよ」
「大丈夫、次の戦いは激戦になる。でも、勝つのは私たち」
「根拠はあるのか?」
「根拠は魔王が最強だから」
「単純明快だ」
「分かりやすいでしょ。でも、心配がひとつだけある」
「なんだ?」
「魔王は最強でも神の加護がない。もしかしたら流れ矢に当たるかも」
「それは厭だな」
「当たらないようにしてあげる」
「そんなことできるのか……?」
と尋ねると、俺は両肩を捕まれ、拘束される。
反抗する隙も与えてもらえないまま、頬にキスされる。
「これで少なくとも頭に矢は当たらない。魔王ならば頭に当たらなければ死なないでしょ?」
「…………」
あまりのことに回答できなかった。
情けなくはあるが、年頃の娘にこんなに大胆に迫られることがなかったからである。
しばし呆然としていると、ジャンヌは嬉しそうに、
「魔王は結構純情。……そういうとこ嫌いじゃない」
と微笑みを残し去って行った。
途中、イヴが入れ違いのようにやってきた。
今の出来事を見られていないか、ヒヤヒヤしたが、どうやらセーフだったようである。
ただし、ジャンヌとふたりきりでいたことには焼き餅を焼いているようだ。
その後、ここで一緒に仕事をします、と書類の山の整理を手伝わされた。
魔王の仕事ではないが、イヴの負担を和らげるため、後ろめたさを隠すため、それに付き合った。
その作業は夜半まで続いたが、明日は出立なので切りのよいところで寝る。
自分のベッドに入ると十数秒で寝付けた。
夢の中に金髪の少女が出てきたような気がした。




