五作目ジョップ・オプリーノとの約束 ~そして決着へ~
ここ最近更新出来なかったので、一気に話をクライマックスまで持っていきました。
最後におまけを載せて完結にしようかと思います
それから三日たったある日、お父さんが二人で話をしたいと言って来た。
「マリア、話がある。時間はあるな」
「どうしたのお父さん?」
「筆に関わる事だ」
「筆って……!」
「書斎で話そう。バーバラに聞かれない様にな」
お父さんは相変わらずの淡々とした物言いだったが、どこか焦っている事が感じ取れた。
書斎に行くと、まず感じたのは酷い荒れ様だなという感想。
本が床に散らばり、その上に多種多様な色の絵具が飛び散っている。
照明の電球と窓ガラスが全て割れていて、尖った破片が痛々しい。
まるで廃墟のようだ。
私はあの夜以来この部屋には入ってないけど、雨で本や壁紙が劣化してない所から察するに、数年間でこうなったと言うよりはここ数日で一気に荒れたのだろう。
そして書斎の中央には一枚の絵があった。
絵には蓋の開いた棺が描かれている。
背景は真っ黒で、殺風景極まりない、不気味な絵だった。
「この絵は何……?」
「作りかけの自画像だよ」
「自画像? お父さんもしかして……!」
「ああ、そろそろ私にもこの時が来たようだ」
「駄目だよ、そんなの! お父さんが居なくなったら私とお母さんなどうすればいいの?」
「大丈夫さ、僕の絵で稼いだお金がある。それで生活に困る事はないと思う」
「そんな事言ってるんじゃない! まだお父さんはそんな歳じゃないし何よりまだ絵が……」
「描けなくなったんだ、絵が」
「え……?」
「筆を持っても何も思い浮かばないんだ。絵の悪魔は僕に愛想を尽かしたらしい。昨日ジョックの姿をしたあいつが突然現れて一言だけ告げて去って行ったんだ。『お前は用済みだ、自画像でも書いてろ』ってね」
「あいつがそんな事……だからって言う通りにしなくてもいいじゃない!」
「駄目なんだ。今の僕には新しい絵を描く以外に選択肢は無いんだ。このまま生き続けても、ただ汚れた金で飯を食いながら腐って行くだけさ。その前に僕は芸術家としての己を残したいんだ」
「駄目よ、そんなの! 腐ってもいいから私達のお父さんでいて!」
「マリア……」
私は今まで生きた中でこれ以上無いほどに必死だった。
それに対してお父さんはどこまでも達観していて、これまでに無く身勝手で、どこまでも弱気な中年に成り果てている。
お父さんが『自画像』の中に消える前に止めないと!
「プノエル・オルテノは至高の画家なんでしょ! 今まで描いた絵は多くの人を動かしてきたんでしょ! カリストみたいにさ! あんな人達を残して貴方は一人逃げるの?」
「それは全部悪魔の力さ。奴は絵で魅了して存在を糧にする事で力を得ている。その過程で僕のような人間が必要なだけさ。絵の力が凄いだけであって、僕自身はただの詐欺師でしかない。それも騙そうとした相手に騙されるような間抜けだしね」
「それはあの悪魔が……」
「騙したのは君の本当の父、ジョック・オプリーノだよ。彼との出会いが全ての始まりだったんだ」
「それってどういう事……?」
「ジョックは筆と女、そして娘を代償に僕の人生の選択肢を奪ったんだ。自らの利益は守りながらね」
お父さんは後悔混じりに過去を語る。
~十五年前、オプリーノ邸にて~
「君のお陰で裁判に勝てそうだよ」
「はい、それはなによりです」
この時、ジョックは新聞社にスキャンダルの追及をされて疲れ果てていた。
そこに僕は付け込んで大金を得ようとしたんだ。
「手回しは済ませてあります。奥様側の弁護士の弱みも掴んでいますし、証拠も見つからない様に隠ぺい工作も完了しました」
「それは素晴らしい。やっぱり君に頼んで良かったよ」
僕は詐欺師という仕事上、金で動く工作員を雇っていたし、個人的に動かせる人員を何人も影で動かしていたんだ。
ただし、相手の弁護士の弱みなんて全く知らなかったけどね。
「そこで報酬の方なのですが……」
「ああ、今回の件は世話になったからね……君にとっておきの物をあげよう」
「と、申しますと?」
ジョックは懐から一本の筆を取り出したんだ。
それが『悪魔の筆』さ。
「我が家宝の筆だよ。僕の母は芸術家をしていてね、その時に売った絵の売り上げが私の会社の始まりなんだ。だからいままで家宝として大切にしてたけど君の方が使えそうだから譲るよ」
筆一本じゃ工作員に渡すはした金すら出せなくなる。
あまりにも割に合わないから役作りも忘れて怒鳴ったんだ
「ジョック・オプリーノ! それは本気で言っているのですか!」
「ああ本気さ。この筆で絵を描いて売る方が弁護士語りをするよりも儲かると思うよ」
「……気付いていたのですか」
「世の中悪徳弁護士は数多くいるけど、君のやり方は弁護士と言うよりかは詐欺集団に近いからね。まあ今まで見てきた中では君達が一番巧妙だけどね」
「ならば改めて問いましょう。何故筆なのですか?」
「君は大金が欲しいんだろう? ならばこの筆で絵を描いて得ればいい。私の母の様にね」
そして彼はセレス・リオンの『自画像』を見せてきたんだ。
「私の母の名前は旧名をセレス・リオンと言ってね、画家としての名前もそちらにしていたよ。生前人々を魅了する絵を数多く描いてきたんだ」
その時僕は目を奪われたよ、これ以上無いほどにね。
それほどに美しかったんだ、彼女に自画像はね。
マリアを見ていると『自画像』を思い出すよ。
特に目元がそっくりだ。
ジョックもそうだったから、すぐに彼がセレスの息子なんだと理解出来たよ。
「君ならこれに匹敵する絵を描けるはずさ。受け取ってくれ」
そして僕はあろうことか筆を手に取ってしまったんだ。
今思えばあの時彼の口車に乗せられてしまっていたんだと思う。
筆を握ると、いままで絵なんてろくに描いた事なんて無かったのに不思議と描ける気がしたんだ。
「受け取ってくれるね」
「はい」
「その筆で描いた絵はきっと名画として輝くはずさ。その全てが私からの報酬の半分だよ」
「もう半分とは?」
「私の愛した女性と、彼女との子どもだよ。それに君と彼女達が苦労しない様に月々の生活費も加えよう。私のせいで不幸にならない様に、君には偽装結婚してもらいたい」
「貴方は言っている意味が分かって……!」
「もちろん。私は詐欺師に自分の大切な家族を預けようとしているんだ。そして君の人生にも大きく影響してくる。だがね、芸術家として生きる上で、不自由はかけさせないつもりだし、心から家族を思っての行動なんだ。直接会えない私としてのね」
ジョック・オプリーノの背中に背負っているものはあまりにも大きかった。
それを僕も少しだけ肩代わりしてしまうとは思わなかったけど、他に選択肢なんて選べなかった。
それほどに筆の存在は僕の中で大きくなっていたんだ。
「君は独身だろ」
「はい」
「私の家族をよろしく頼む。どうか娘には私の分まで愛情を注いでやって欲しい」
それは紛れもない彼の本音だったよ。
それと同時に僕をうなずかせるための最後の決め手だった。
そしてその後筆を手に、バーバラと偽装結婚し、僕はプノエル・オプリーノとして生きていく事になったんだ。
そして試しに絵を描いてみた。
するとどうだろう、僕の頭の中に未完成の名画が鮮明に思い浮かぶんだ。
その通りに描いて出来たのが僕の最初の作品、『始まりの心臓』だよ。
その時に僕は描く事の快感に目覚めたんだ。
『始まりの心臓』は今まで騙し取った金を軽々と超えるほどの大金へと変わった。
それから僕は無貌の画家、カリスト・オプリーノになったのは。
とはいえ、僕の絵は万人に絶賛されていた訳じゃない。
多くの人は理解してくれなかったし、ギリアム氏なんかは破り捨てようとした。
それでも僕の絵は必ず誰かを虜にし、絵の中に導く事によって万人が絶賛する名画になっていったんだ。
お父さんは今までの全てを語る。
私は今まで本当の父を認めず、プノエル・オルテノを父と思い慕って来た。
本当のお父さんは私達を見捨て、金で雇った役員を派遣して父親をやらせているのだとばかり思っていた。
しかしそれは大きな間違いで、私とお母さんはジョック・オプリーノの手によって守られていたんだ。
父はどんなにつらい思いでプノエル・オルテノに私達を託したんだろう。
自らの過ちを認め、赤の他人に家族を託すなんてそう簡単に出来るものじゃない。
「お父さん……お父さんにとって私達はなんなの?」
「そうだね……第二の人生の家族だと思ってるよ。画家としての俺の人生がここまでのものになったのは家族という存在もあるしね。偽りの中にも家族愛という物は会ったんじゃないかと思うよ」
目の前の画家はやはり私のお父さんだった。
血は繋がっていなくとも、そこだけは変わらない。
「さて、僕は言いたい事はだいたい言えたし、もう心残りはなさそうだ」
「お父さん、なんでこんなことになったの……別に絵を描かなくたっていいじゃない、ジョックさんからのお金もあるんだしさ!」
「駄目だ、駄目なんだよ。悪魔は僕に乗っ取って『自画像』を勝手に作り上げたんだ。もう奴は僕を消すつもりのようだ。きっと次の筆の持ち主を決めたんだろうね」
「それってまさか……!」
私は悪魔の去り際の言葉を思い出す。
それを悟ったかのように、お父さんは頷いた。
「僕もただ奴に操られる訳にはいかないから、『自画像』に細工をしたんだ」
「そいつはどんな細工だ?」
振り向くとお母さんの皮を被った悪魔がにたにたと下卑た笑いを浮かべていた。
その顔はとてつもないぐらい不快で、一気に怒りがこみあげてくる。
「あなたお母さんに乗り移ったのね! 今すぐ離れて!」
「ああ、細工とやらを見せてもらったらとっとと消えるよ」
「やはり現れたか、絵の悪魔め。もうこんな事は終わりだ! お前にマリアは渡さない!」
お父さんは今までにない、憤怒の表情で悪魔を睨んでいる。
こんな表情をお母さんに向けさせるなんて、やっぱりこいつは悪魔だ。
「さて、それじゃあ早速見せてもらおうか、期待外れだけはさせるなよ?」
「ああ、と言いたいところだがね、お前がここで出で来るなんて想定外だ、逃げさせてもらう!」
そう言ってお父さんは、部屋の出口に居るお母さんに思い切り体当たりする。
いくら悪魔と言えども、お母さんの体は軽く、簡単に突き飛ばされてしまった。
お父さんはそのまま逃げようとしたが、悪魔は咄嗟に手を伸ばしてお父さんの右腕を強く掴んで離さない。
「期待外れだぜ。俺から逃げられるなんて思ってたのか?」
「……逆だよ」
お父さんは腕を掴まれたまま、作りかけの『自画像』を勢いよく倒した。
するとそこにはもう一枚、棺の描かれた絵があった。
「まさかそれは……! お前、セレスの『自画像』を上塗りしたな!」
絵は棺の中から手が生えていて、今にも飛び出しそうだ。
棺の周りには十字架を握りしめた手が無数に伸びていて、エクソシストの集団が悪魔を封じようとしているかのようにも見える。
悪魔はその絵を見た瞬間、今までの忌々しい笑いから急に焦ったような歪んだ表情に変わった。
それを確認したお父さんは、今度はお母さんの腕を掴む。
「そうとも。細工をしたのは僕の『自画像』じゃないけどね。筆で稼いだ金でジョックからセレス・リオンの『自画像』を買ったんだ。自画像はお前を構成する上で大きな要素のはず! だからお前自身を封印する絵としてこれ以上の物は無い、そうだろう?」
絵の中にあった無数の腕が次元の壁を超えて、お母さんの体を掴む。
私はただ、その光景を見守ることぐらいしかできない。
「ち、てめえこの時の為に! だがな、俺を封印するって言うならお前も道連れだ!」
そう言うと悪魔は息も絶え絶えに、無数の腕に抗いながらパレットの上に置いてあった『悪魔の筆』を手にとって、床に落ちた絵に何やら文字を書き始めた。
それは今までに見たことの無い象形文字のような、よく分からない形をしている。
「これでお前の『自画像』も完成したぜ! 俺本体が封印されちゃ,体の一部になんて出来ねえけど、お前に復讐するには十分だ!」
「お前、無理やり僕の『自画像』を完成させたのか? だが残念だったな、不完全な絵では僕を封じても、お前が封印を弾けるほどの力は得られないぞ」
「ひゃはははは! んなことどうだっていいんだよ! お前はマリアという最大の御馳走まであと少しって所で俺を封じやがったんだ! 置き土産の一つくらいくれてやるよ!」
そう言い残してお母さんの姿を借りた悪魔は力尽き、動かなくなった。
よく見ると無数にある腕の内の一つが、どす黒い絵の具の塊を掴んでいる。
あれが絵の悪魔の本体なのだろう。
お母さんを捕まえていた他の腕も絵の具の塊を包囲するように黒い塊を襲った。
黒い塊はもう見えないほどに手は何重にも重なって封じこめられ、その醜さも汚らわしさも見えなくなっている。
やがて腕は絵の中に戻っていき、絵は黒い光を放った。
そして絵は形が変わり、そこにあったのは『エクソシズム』というタイトルの付けられた醜悪な絵だった。
全体的に激しい炎に包まれていて、地獄を連想させる。
絵の中心には三つの山羊のような角を生やし、横一列に四つの眼を持った悪魔が憎悪の籠めて叫ぶような表情をしていて、私達には見えなかった悪魔の本性がそのまま描かれている。肌は黒く、手足は筋肉に脂肪をコーティングしたかのような、重量感を感じさせる。
例えるならば、引退して怠惰な生活に明け暮れる、堕ちたスポーツ選手のようなものだろうか。
腹もでっぷりと脂肪の塊が前のめりに膨らんでいて、豊かさと言うよりも暴食漢のような醜さが印象的だ。
多くの人間を美しく奇怪な絵で飲み込んでいった悪魔自身はこれほどに酷い姿というのは実に皮肉だと思う。
「あれ、私は一体……? 食器を片づけてからうとうとしちゃって……」
「お母さん!」
私はお母さんの元へ駆け寄る。
お母さんはカリストに悪魔が憑りついてきた時のように、さっきまでの事は覚えてないようで、ポカンとしている。
「バーバラ、無事だったか」
「あら、貴方までどうしたの?」
「いや、なんでもない。君の体調が優れなかった気がしたから気になっただけだ」
お父さんはいつもの家にいる時の口調に戻っていた。
しかしその声は若干震えていて、落ち着きがない。
普段はクールに振る舞うお父さんでも、悪魔を封じれるかどうかは一か八かのけつだんだったのだろう、まだ興奮と動揺が収まってないようだ。
「ともかく無事で良かった……!」
お父さんは次第に落ち着いて肩の力を抜いて、へたり込んでしまった。
それは悪魔と戦った事による疲労が溜まっていただけでない事に私は気付く。
「お父さん……まさか……そんな……!」
「マリア、私の愛しい娘よ、私はもうこれまでのようだ。最後にお前がいてくれて良かったよ。これは今までの報いなんだ。多くの人を貶め、全てを奪って来た事のね」
「そんな、お父さんはいいお父さんだったわ! お父さんが詐欺師だったとしても、カリストの時だって悪魔に操られていたんでしょう! プノエル・オルテノは私にとって最高のお父さんよ!」
お父さんは静かに首を振り、どこか遠い目をして私を悟ったように見つめる。
それがどこまでも達観していて、私には受け入れられない現実を突き付けているようで、たまらなく嫌だった。
「いや、私はただの詐欺師さ。君の本当のお父さんに乗せられた時点で全ては決まっていたんだ。悪魔を道連れに出来ただけでも満足さ」
お父さんは家の中だと言うのに外の朗らかな口調のお調子者になっている。
もう役を演じる気力も無いのだろう。
「マリアには見えないだろうけど、今僕の周りには『絵の従者』だけが見える腕によって絵に導かれようとしているんだ。もう少しで僕は『自画像』になってしまうんだ。だから」
「駄目よ! お父さんが居なくなったら私達どうすればいいの!」
「……マリア、お父さんが居なくなるってどういう事なの?」
いままで私とお父さんの話が、ただ事ではないと分かりつつも話に入れなかったお母さん口を開いた。
「バーバラ、君にも感謝をしているよ、僕は人生の中で体験する事の無かった自分の妻を持ち、娘を持つことが出来た。君との生活はいつの間にか当たり前の、無くてはならない物ものになった。全て君が支えてくれたからだよ」
「今際の際みたいなこと言わないでしっかりしてよ! 貴方は病気もしてないし、昨日だって私の料理、美味しいって言ってくれたじゃない! 本当にどうしたのよ貴方!」
お母さんは今までに見た事無いくらいにヒステリックになっていた。
それに対してどんどん生気が無くなって行くお父さんがどんどん弱々しく見えて、胸がつらくなる。
「僕はちょっと遠くに行く事になったんだ。大丈夫だよ、僕は君達を見守っている……そして僕は二人を愛してる……」
お父さんはそう言い残すと、お父さんがさっき倒した絵が強い光を放ち、私達の視界の全てを包む。
しばらくして光が弱まり、目を開けるとそこにはお父さんは居なかった。
その代わりにあったのは『自画像』とタイトルの付いた一枚の絵が置かれている。
さっきまで世界に存在しなかった、巨匠の最後の作品。
自らの魂を懸けて完成させた真の芸術。
筆と悪魔の夜から数日経ち、お父さんは絵の中に消え、私とお母さんだけが残された。
私はお母さんに全て話した。
悪魔の事、絵の事、筆の事……
お母さんは話を聞いて信じられないと言っていたが、どこか納得した様子でもあった。
お母さんはしばらくふさぎ込んでいたが、お父さんが居なくなってからちょうど一週間後に「お父さんが居なくても私がしっかりしなくちゃね」と言って、今まで通りっぽくふるまっていたが、どこかお父さんが居なくなった悲しみと詳しい事を何も言わずに消えて行ってしまった怒りはお母さんの中にずっと残り続けるのだろう。
お父さんの葬儀は『自画像』を遺影として使い、元部下だった人達によって行われた。
彼らによるとプノエル・オルテノという名前は偽名らしい。
といっても彼らも本当の名前は知らないそうだ。
お父さんに一番近い部下ですらそう言っているので、本当の名前はこれからもずっとそのままなのだろう。
葬儀には絵に魅せられた多くの評論家や富豪などの多くの人々が出席し、オルテノという画家の死を惜しんだ。
その数は教会の席がほぼ全て埋まるほどで、プノエル・オルテノがいかに影響力があったのかを実感する。
肝心の遺体に関しては謎多き画家という事をいい事に、お父さんに近い顔の死体をどこからか調達して来たらしく、長年一緒に暮らしてきた私達も驚くぐらいに似ていた。
どこから持ってきたのかは怖くて聞けなかったけど、偉大な画家として送られる彼が、本当の名前で埋葬されないのは不憫だなぁとも思う。
全く知らない人のために献花と讃美歌を歌い、霊柩車に棺が運ばれるのを見送る。
多くの人々は泣いたり、嘆いたりする人ばかりだったけど、私はその中でただ一人、他の誰とも違う、感謝の笑みを浮かべている男を見つけた。
その男は金色の短髪で身長百九十センチはありそうな大柄の中年で、体格からの威圧感をあまり感じさせない、どこか気品を感じる不思議な存在感を放っている。
そしてその男は私の存在に気付き、こちらの方に笑いながらやってきた。
同じ笑みでも別の意味での微笑みを浮かべながら。
「やあマリア、元気だったかい?」
「……お久しぶりですね、ジョックさん」
彼こそが私の血縁上の父親、ジョック・オプリーノだ。
私の地毛は赤茶色っぽい色なので似ていないけど、身長の方は百七十三センチと大柄だし、身長は父譲りなんだろうなと思っている。
そのせいでカリストに会うまではなかなか彼氏が出来なかった。
自分より背の高い女の子と付き合いたいと思う男子は、あまりいないのかもしれない。
ジョックさんとは毎年一回は会っているけど、お父さんを挟まないで会うのは初めてだ。
「そんな畏まらなくてもいいじゃないか、僕は君の父親なんだから」
冷たい態度を取られても、表情を変えずに話しかけてくるジョックさんに少し苛立ちを感じる。
「血縁上は、ですけどね。私の父はプノエル・オルテノです」
私は血縁を主張するこの男よりも、絵の中に消えて行った詐欺師の方が父親だと胸を張って言える。
「まあ、そうだろうね。私も彼には感謝しているよ。私の問題を解決してくれただけでなく、筆まで引き取ってくれたんだからね」
「……貴方はあの筆の事をどこまで知ってるんですか?」
「あれがこの世の物では無いという事と、遅かれ早かれ破滅の末路を辿るという事は母の最期を見ていたから知っているよ」
「じゃあお父さんにあれを渡したのって……」
「マリアの思っている通りさ。あいつは金が欲しい。私は財産と家族を守りたいし筆も手放したい。僕達は公平かつ互いに不足の無い、良き取引が出来たと思うよ」
「でも……こんなのって……」
「マリアの気持ちも分かるし、バーバラにもひどい事をしたかも知れない。だがね、僕には守るべき物があったし、君達にも不幸にはしたくは無かったんだ。それにオルテノは今までオプリーノ家の財産を狙って来た人間の中で一番狡猾でミステリアスだったんだ。僕は彼に会って確信したよ、彼ならマリアを、バーバラを不幸にはさせないとね」
私には返す言葉なんて無かった。
彼には彼なりの責任の取り方があったのだ。
その為に取った方法は許しがたいけど、そこに無情の決断しかなかった訳じゃない。
その証拠に、先程まで気軽な微笑みを浮かべていた表情は真剣なものになっている。
「それでも私は貴方の全ては許せない。お父さんにあんな最期を与えた事、私達に深い傷を刻んだことはずっと覚えています」
「ああ、全てを許して欲しい訳じゃない。僕はただ君が幸せでいてさえくれればいいんだ」
「ジョックさん……」
彼は間違いなく私の父親だった。
彼に陰ながら支えられていたからこそ私達は不自由なく生活出来たし、お父さんは絵の事を隠せたのだ。
「……オルテノの最期はどんなものだったんだい」
「壮絶な最期でした。悪魔を上塗りした『自画像』を封印して、自らも『自画像』に……」
「あの悪魔を封印したのか……そうか、それであの『自画像』を欲しがっていたわけか。『自画像』は絵の悪魔の半身たる筆によって作られた本体その物だったはず……つまり奴は悪魔の特性を利用し、作り変えたという事になる……やはりあの男は私が見込んだ通り、いや、私の見込み以上の男だ!」
彼はぶつぶつと絵の悪魔に関しての考察を呟き、合点がいったのか、満足そうに笑っていた。
「彼には感謝をしなければいけないな。これで母の望みは果たされたんだ。マリア、私は彼の『自画像』を見に行く。君も来るかい?」
「……はい」
歓喜しながら長々と喋る人に会ったのはこれで二人目だ。
案外、カリストと気が合うのかもしれない。
私達は教会にある遺影代わりに使われている『自画像』の前に立った。
「悪魔を討ちたいというのは母、マリアのお婆さんの悲願だったんだ。悪魔は母を操って多くの人間を取り込み、心の優しかった母を追い詰めて行ったんだ。そして自殺しかけた時に悪魔はそれを止めて『自画像』を完成させたんだ。母の最期の言葉は今でも覚えているよ。『ジョック、貴方が連鎖を止めて。もうこんな悲劇を繰り返させないで』ってね。でも僕にはどうにもできなかった。だって奴は常に絵と人の心の中にしかいないんだからね。しかし僕には出来なくても彼には出来た。これで全てが終わったんだ……」
ジョックさんは跪き、深く祈った。
私のお婆さんはどんな思いで筆を託したのだろうか?
それはもう塗りつぶされた絵の中にしかない。
葬儀は別人の遺体で、別人の名前を使い、墓には偽名が使われるという、茶番めいた式となり、複雑な気分で終わった。
結局、葬儀を取り仕切ったのはお父さんの部下達で、私達は遺族として出席した位だ。
棺を焼いて関係者との挨拶などのイベントがひと通り終わり、ジョックさんを見送る時に「最後に一ついいかな」と神妙な面持ちで訪ねられた。
「マリア、筆はどうした?」
「無くなりました。きっと悪魔が消えたから筆も消えたんでしょう」
「そうか、見つからなかったか……」
ジョックさんは何やら解せないと言わんばかりの顔でそう答えた。
「あの筆は悪魔とは別の物……ありがとうマリア。今日は会えて嬉しかった。それではまた機会があれば会おう」
「ええ、ジョックさん……またいずれお会いしましょう」
彼は迎えに来ていたハイヤーに乗り、街並みに消えて行った。
結局お母さんには会わなかったけど、そのほうが良かったと思う。
会わない方がいい間柄というものもある。
それに今回は彼自身私と二人で話したくて近づいてきたのだろうし、お母さんと出会わなかったのも彼の狙いなのかもしれない。
いつか彼と親子として話せるときが来るのだろうか?
私とジョック・オプリーノという人間は埋まる事の無い溝がある。
だけど、いつか私に居るらしい腹違いの兄弟と話をしてみたいなとも思えた。
「マリア、帰るわよ」
少し遠くからお母さんの声がする。
帰ろう、お父さんと過ごした我が家に。
そして、さよなら。