ターゲットファイルNo.31(前編)
そういや今夜は満月だった。
くらりと覚えた眩暈に、とっさにフードを目の下までずり下げながら頭に浮かべることができたのはそれだけだった。薄暗い路地をこそこそと歩いていたはずの私の足は、次の瞬間固くて冷たい石造りの床を踏む。
直前まで抱えていたはずの「数量限定! とっておき小麦粉で作ったふわふわパン」とやらは今頃あの汚い路地の地面に着地している頃だろうか。残念だけどあきらめるしかなさそうだ。
くうぅ、通い詰めること10回目にしてようやく買えたのに!
……という庶民的な思考はとりあえずおいといて。「喚ばれ」ちまったからにゃぁしょーがない。お仕事お仕事。
ふぅ、よかった、普段からこの灰色のマントを愛用してて。(お蔭で表通り歩きにくいという弊害があるにはあるけど)
喚ばれた場所がいつも通り、何の変哲もない「四方を石壁に囲まれた部屋」であることを確認してから、私は目の前の人物に上から下までさっと目を走らせた。
頭の上から足首まで、すっぽりとオリーブ色のローブにくるまっている中年~壮年の男性。なかなかだんでぃなおじさまである。たぶん。(希望込みで!)
残念ながら毛髪の具合は確認しようがないのだけれど、きれいに整えられている口髭の色からして恐らく濃い茶色の御髪をなさっているにちがいない。
立ち姿に品がある。ついでになんだか威厳っぽいものも感じる。うん、たぶんこれ王様。ここ最近立て続けに3人の王様と面会している私の勘がそう告げている。
王様(仮)はグレイがかった濃い青の瞳に愁いをたたえ、思いつめた顔でじっとこちらを見下ろしている。
まーね、わかりますよ。魔女なんて喚んじゃうくらい追いつめられてるんですものね。相当深刻なお悩みを抱えていらっしゃるんですね。聞いてあげようじゃないの。
「お呼び出しありがとうございます。【+①】営業担当の『13番目』と申します」
鏡を前に何度も練習した一番怪しげな笑顔(ローブで上半分隠したまま口の端だけわざとらしくにぃっと上げると我ながらすっごく怖いの)を浮かべ、半歩ほど前に出れば、王様(仮)ははじかれたように一歩後ずさった。
うふふ、効いてる効いてる。
いやー、この商売ナメられると色々アレなので最初のハッタリがすごく重要なんですよ。こう、ビビらせたもん勝ちってゆーかね。(チンピラみたいという突っ込みはナシの方向で!)
「さて尊きお方。あなたはいかなる物語をお望みで?」
相手が王様とは限らないので(でも、王族か大貴族、ごくごく稀にケタ外れの大金持ち、の3択なんだよねぇ)、いきなり「陛下」とは呼びかけない。依頼者も、普通は自身の身分や立場を誤魔化す、というか明言したがらないので、こういう曖昧な呼称が大活躍するのである。
王様(仮)はごくりと喉を鳴らすと、挑むような眼でこちらを睨みつけた。あらやだこわぁい。私、あなたの敵じゃないのに。
彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、びしぃっとこちらへ突き付けた。細かくびっしりと文字が書かれたそれは、恐らく説明書。【+①】が設立当初顧客候補に配った、いわば会員証も兼ねている。
「この、『対価について』の項目は本当なのだな? 本当に、この他は請求しないのだな?」
すご~い、ちゃんと読んだんだ、そんな細かいの。
……まぁ、魔女相手にするんだから慎重になるのも当然か。
「書いてある通りです。それ以上もなく、それ以下もなく」
「そうか。それを聞いて安心した。では我が望みを言おう。魔女殿!」
王様(仮)はぐっと眉を寄せ、ついでにぐぐっと説明書を握りしめて身を乗り出す。
そして、やたらきりっとした声でおっしゃった。