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竜の娘は生きている  作者: 囘囘靑
第六章:竜の娘は生きている
99/104

099_ようそろここへ、ようよ、ようよ。

 はじめに神が

「光あれ」

 と言った。投げかけられたその言葉こそ、世界に施された黎明のともし火だった。しかしどうして、神の発した初めての言葉は“光”だったのだろうか。どうして、

「闇あれ」

 とは言わなかったのだろうか。


 光を集めるということは、闇を隔てることと変わらない。それならばなぜ、神はわざわざ光を集めようとしたのだろうか。光に隔てられた世界の向こう側に広がる闇を、“勇者”は手を広げて探ってみなくてはならない。


 目を開けても、閉じても、広がるのは均質な闇だけ。辛うじて鳴り響くのは、自分の心臓の鼓動だけ。深海と呼んでも良い静けさの中で、生命も太陽も、闇の向こう側にしか存在しない。


 そんな闇の中で、人が自らの生を生きることはできない。ましてやそんな闇の中で、人が自らの死を死ぬことはできない。そんな事実に気づいた“勇者”が、かつて仲間と共にここを訪れたことがあった。

 勇者の名はイスイ。


――……


「……大丈夫?」

 座り込んで膝を抱えたヒスイに、エバが声をかける。ヒスイは泣いているわけではなかったが、それでも険しい表情のまま一点を見つめるのみで、微動だにしなかった。

「大丈夫よ、エバ」

 ヒスイの言葉に頷き返すと、エバはそのまま背を向けた。瞑想時の呼気のような、小さなため息をエバは吐く。


「……どこまで行くんだろうね?」

 手すりに身をあずけたまま、返事をつでもなくセフが呟いた。“エレベーター”には、表示もボタンもない。外からは何の音も、振動も響いてこなかった。

「外には、何があるんだろう?」

「――何もなかったら、どうする?」

「やめてよ、エバ」

 肩を震わせて小刻みに笑うエバに、セフが困った顔をした。二人を見つめながら、ヒスイはずっと考え事をしていた。イスイを辿っているうちに、いつしかヒスイたちは、イスイと同じ道のりを歩いているようだった。


 しかしやがて、そんな不安定な思索も破壊される。

「ピンポーン」

 という間の抜けた音が、“エレベーター”の中を鳴り響いた。エバとセフは身構え、ヒスイへ目を向ける。身を起こすと、ヒスイもドアの正面へ立ちはだかった。

「ゴメン、二人とも――」

 そう言って、ヒスイは両手を二人の前に広げる。

「ちょっとだけ、手を握ってほしいの。……この扉を抜けるまででいいから」


「いいわよ」

 広げられたヒスイの左手を、エバが意気込んで掴む。エバの手は相変わらず冷たかったが、ヒスイの傷口をいたわるように包み込んだ。

「わかった」

 ヒスイの右手を、セフが握った。ヒスイが握る手に力をこめると、お互いのぬくもりを確かめ合うように、セフも力を強くした。

 三人の前で、重たい扉が両側に開いた。暗闇に向かって、三人は一歩を踏み出す。

 ようそろここへ、ようよ、ようよ。


――……


 三人の目の前には、一面の暗闇が広がっている。触ることができるくらい、暗闇は濃いように思えた。それでも三人は、お互いの姿をつぶさに見ることができた。足元から湧くおぼろけな光が、三人の姿を暗闇に投げかけていたからだ。

 肩の力を抜くと、ヒスイは手を下ろした。それに応じ、エバもセフも、ヒスイから手を放す。


「見て!」

 何気なく後ろへ振り向いたセフが、驚嘆の声を発した。その声に導かれるようにして、ヒスイもエバも後ろを振り向く。

 今しがた降りた“エレベーター”の扉が、ゆっくりと閉まりかけている。その扉の正面には、黒い文字で何かが書かれている。


 我ハここニアリ。

まことの葡萄の木、もしくは黒い虹、もしくはヰスイ。


「イスイ……!」

 文字の書き手の名前を、呪わしげにエバが呼ぶ。“エレベーター”の扉が完全に閉まるやいなや、“エレベーター”そのものが忽然と姿を消してしまった。

「今の文字……」

 繋ぎとめた瞬間的な映像を、セフは頭の中で反芻する。

「今の文字って、下天にあったのと同じだよね? ほら、ビルの上で望遠鏡を使ったときの……」


「そうね、そうだったわ」

 そう呟いてから、ヒスイはかぶりを振った。

「でも、少しだけ違う。あのときの石碑には、『我等茲ここニ在リキ』と書いてあったわ。でも今のには『我ハここニアリ』だったのよ。つまり――」

 つまり下天を抜けた際には、勇者の他に仲間もいたことになるが、この暗闇の中には、イスイだけがいたことになる。


「ヒスイのお母さんとサン様が戦って、ヒスイのお母さんが“竜の魂”を得た、って話していたよね、カケイ様は?」

「そうね、“カケイ様”ってのは作り話が上手よね」

 嘯くエバに対し、セフはどこかもどかしげだった。


「もしかしたら、サン様だって幻影なのかもしれないわ? だってあたしたちが生まれたときには、サン様はもう死んでいたんだし」

「そんな……じゃあ、国師廟で見たあの墓は?」

「あれもでっち上げかもしれないじゃない? もしかしたら、イェンさんの記憶だって書き換えられたものかもしれないし」

「それは……無いと思うわ。エバ」


 言い合いを続けていた二人に対し、ヒスイが静かに口を開いた。

「どうして、ヒスイ?」

「今書かれていた文字、赤黒い色をしていたわ。あれは小豆の色よ。だから少なくとも、イスイもサン様もここにはやってきたはず」

「それで……“竜の魂”を巡って闘った、ってことかな?」

「そうよ、セフ」


「ま、別にいいわ」

 鼻を鳴らすと、エバが一歩前に進み出る。

「誰が相手でも同じことよ。もう今更後には引けないし。そういうことでしょ、ヒスイ?」

「えぇ……」

 言葉少なに、ヒスイはそれだけ口にする。

「――行きましょう」

 それだけ口にすると、三人は暗闇の奥へと歩みを進めていった。


――……


 どれくらい時間の経ったことだろう、歩み続ける三人の耳に、金属のこすれる乾いた音が聞こえてきた。予期せぬ外部からの音に、三人とも身構える。音はどんどん三人に近づいてきたが、よく耳を済ませてみれば滑車の転がる音だった。

 まもなく暗闇から、音の正体がやってきた。

「これは……」


 音の正体を、ヒスイは捕まえる。それは下天で発見した、滑車の付いた回転椅子だった。

「どうしてこんな物が……」

 エバがそれに近づくと、背もたれと座席の端を押し、強度を確かめてみる。丈夫だと判断すると、昔のようにエバはそれに座った。ヒスイは背もたれを掴むと、エバを乗せたまま前へ進む。


 しばらく進むと、また別の音が聞こえてくる。それに伴い、三人の髪の毛も風を受けて靡く。それはプロペラの音だった。

「何の音?」

 椅子に腰掛けたままのエバも、側を歩くセフも、音の正体がわからず首を傾げた。だがヒスイには何の音か分かる。いつしかヒスイは、回転椅子の背もたれを強く握っていた。


「……“ミキサー”の音よ」

 ヒスイの答えを受け、エバもセフも互いに顔を見合わせた。豪速で回転するプロペラの音は、フスに近づいてきた死の音だったのだ。

「嫌な音ね」

 苦虫を噛み潰したような表情で、ヒスイは四方をにらみつけた。音は暗闇にこだましているというのに、音源がどこにあるのかははっきりしなかった。まるで暗闇全体が共鳴して、一つのプロペラを形づくっているかのようだった。


 三人は更に先へ進む。足元をぼんやりと眺めて歩いていたセフが、床の変化に気づいて声をあげた。

「この床って……ほら、ヒスイの!」

 それは逆さに描かれている、一本の竜血樹リウジエジュだった。ヒスイの背中に刺青として彫られているものと、構図がまったく同じだった。


「どうしてこんなのが……」

 ヒスイは椅子から離れると、床に映る竜血樹の絵画を俯瞰した。ヒスイの背中に彫られた刺青は、ヒスイ自身が刺青師に指示して彫らせたものだ。エバとセフ以外にこの刺青を見せた者はいない。

 下天の回転椅子。身もすくむような“ミキサー”の音。そしてこの竜血樹の絵。

 ふとヒスイの脳裏に、フスの声が蘇ってきた。


――何だか今、誰かに見られていたような気がしたんだよね?


「“誰かに見られていた”」

「えっ?」

 フスの言葉を、ヒスイは繰り返す。そのセリフに、エバが反応した。

「デンシャに案内されたとき、確かフスがそう言っていたのよ……」

 そう口にしたヒスイを、突如として戦慄が襲ってきた。

(何だ?)

 平静を装いながらも、ヒスイは周囲の様子に全神経を集中させる。エバも、セフも気づいてはいないだろう。だが暗闇の向こう側から、突如として何者かが現れたのだ。


「それで、ヒスイ?」

「……そのあと、『誰かに見守られているようだ』とも言っていたわ」

 二人に察知されぬよう、ヒスイは右手を伸ばし、銃をいつでも握れるようにする。相手は暗闇から足音を潜め、三人の側まで近づいている。

「そういうことか……」

 セフもまた合点がいったようだ。


「つまり、誰かがずっと、わたしたち三人のことを見守っていた、っていうこと? その証拠として、私たちの身近にあったものを、ここに置いているっていうこと?」

「そういうこと」

 ヒスイの直感が、相手の所在、相手の正体を見破った。相手の狙いはヒスイ自身にある。チャンスは一度きりだ。

「それってつまりイスイが――」


 エバがすべてを言い終える前に、ヒスイは即座に銃を掴み、後ろへと抜き放った。稲妻のような早業で、二発の銃撃を暗闇に炸裂させる。一発目は相手の右腕に握られたボウガンをもぎ取り、二発目は相手の左わき腹に命中する。

「何?!」

 回転椅子から、エバが立ち上がった。椅子は滑車を転がしながら、ヒスイを狙っていた敵の側で止まる。


「――おはよう、ヒスイ」

 左わき腹を押さえながら、ジスモンダ――キスイが言った。そのわき腹から血が流れることはなく、代わりに白い亀裂が走っていた。亀裂は次第に広がってゆき、既に左半身全体を覆っていた。

「キスイ……」

 紫煙が途切れると、ヒスイは銃口を双子の妹から外す。


 エバとセフの二人は、予章の姉妹をかわるがわる見つめた。そして、

(似ていない)

 と思った。ヒスイを見たとき、キスイを見たときには、「なんとよく似た姉妹だろう」と、エバもセフも考えた。ところがこうして二人並んでみると、あまりにも雰囲気が異なり驚かされる。それは単に髪の色、髪の長さ、瞳の色が違う以上の大きな隔たりだった。そう、大きく隔たっている。


――ヒスイと、そのキスイが“似ている”んじゃないだろうな。

――正しく言えば、キスイってやつがヒスイに“近づきたがっている”って言うか……


 ロイの言っていた言葉は真実だと、エバもセフも悟った。

「やっと会えたわね、私たち」

 キスイはそうのたまうと、回転椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。キスイの体をはしる亀裂が音を立て、ひびが右半身にまで広がってゆく。

「もっとも、このままお別れのようだけど」


「答えなさい、キスイ。――イスイはどこにいるの?」

「イスイに会いたいのかしら?」

「“会いたい”って――バカにしてるの!」

 ヒスイが答える前に、エバが強い剣幕で怒鳴る。だがキスイは身じろぎすることもなく、頬杖をついて三人を見据えている。


「あなたたちは、イスイに会うことなどできないわ」

「何ですって」

「会うことはおろか、目にすることさえできない。――魂の穢れた人びとに、聖なる姿が拝めるかしら……」

 そこまで言うと、キスイは咳き込んだ。体の亀裂が、また一段と広がってゆく。

 咳をしながらも、キスイは指を鳴らした。暗闇全体がわなないて、ヒスイたちに不可思議なリズムを投げかける。


 ようそろここへ、ようよ、ようよ。

 上から読んでもイスイはイスイ、

 下から読んでもイスイはイスイ。

 青空にかかる黒い虹、

 イスイはまことの葡萄の木――


「どうしても会いたいのならば……先に進みなさい、ヒスイ」

 闇をはう言葉に意識を集中させていた三人が、もう一度キスイの方を見つめた。

「もっとも、先に進めるのならば、ね?」

 そう微笑むと、キスイはふたたび指を鳴らす。亀裂が一瞬にして体中を駆け巡り、ついにキスイは粉々に砕け散った。飛び散る破片に、ヒスイもエバも目を背ける。だが破片は霧のように消え去り、キスイの姿は影も形もなくなってしまった。


「進めるわ……そうでしょ、ヒスイ!」

 苛立ちを隠すことのないまま、エバがヒスイに問いかける。主のいなくなった回転椅子を、ヒスイはただ呆然と見つめていた。

(死んだ……?)

 キスイの引き下がり方は、妙にあっけない。それがヒスイには気がかりだった。


「ううっ……!」

 そんなヒスイの思考を、セフの呻き声が遮る。

「ちょっと、セフ?!」

 エバが悲鳴を発し、ヒスイの側まで駆け寄ってくる。ヒスイもセフの方を見た。セフの足元には、青くきらめいたカードのようなものが何枚も落ちている。衣につけるシフのようだった。


「“竜の瞳”……」

 ことの重大さを知り、ヒスイは忌々しげに吐き捨てる。キスイが洗脳のために利用していた“竜の瞳”を、どうやらセフは持っていたらしい。

「セフ! 聞こえる?」

 ヒスイの呼びかけに応じる代わり、セフは氷霜剣を抜き放ち、ヒスイたちの前に掲げた。


「セフ、早く剣を下ろしなさい」

 ヒスイを庇うようにして、エバがヒスイの前方に立ちはだかった。合わさったエバの両手から、黒いうねりが迸っている。そんなエバをにらみつけ、セフは小刻みに震えるのみだった。

「エバ、待って――」

「ダメよ、ヒスイ。まごついていたら、やられる」


 開き直ったエバの言葉に、ヒスイは返事ができなかった。このままいけば、エバはセフを殺してしまうだろう。だがそれでは、イスイの思うつぼだ。ここで誰かが欠けてしまっては、何の意味もない。

 喉から低い唸り声を上げながら、剣を振り上げてセフが直進してくる。その動きに合わせ、エバも両手を開く。エバの両手の間には、闇の塊が渦を巻いていた。


「やめて!」

 抜き放った銃を、ヒスイは二人の間に放り投げる。氷霜剣の切っ先と、まさに放たれようとしていたエバの魔術が、それぞれ銃に触れる。爆発的な稲妻が周辺を飛び散り、エバとセフをたたきつけた。空間全体がどよめき、あまりの眩しさにヒスイも一歩後ろへ下がる。


「はぁ……はぁ……」

 浅い息をつきながら、ヒスイは正面へ向き直った。稲妻に打ち抜かれ、エバもセフも倒れ伏している。

「エバ!」

 駆け寄って、ヒスイはエバを抱き起こしてみる。稲妻を喰らって、エバは気絶してしまったようだ。

「セフ!」

 今度、ヒスイはセフに駆け寄った。息はあるようだが、やはり気を失っていた。セフの懐から、何かが零れ落ちる。それは黒焦げになった“竜の瞳”だった。


 今しがたまで、セフは“洗脳されて”いた。それはすなわち、洗脳をほどこすことのできる人がいるということだ。

 イェンもロイも消えてしまった。キスイは既にいない。エバもセフも今は意識がない。みんないなくなってしまった――カケイを除いて。


「先に行くわ……」

 傍らに落ちていた銃を、ヒスイは拾い上げる。銃の鼓動は、いつになく静かだった。今になってその鼓動が、自分の心臓の鼓動と同じになっているということに、ヒスイは気づいた。

 前方から、ふと明かりが漏れる。暗闇の中から、突如として扉が出現する。


 ようこそここへ、えいえんのこども。


 扉にはそう書いてある。


――子供たち、


 カケイの口癖を思い出し、ヒスイは銃把を強く握り直した。

 向かうべき道のりは一つしかない。ヒスイは扉を開くと、光の中へ歩みを進めた。

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