001_理想郷の方法論
「え?」
耳にした言葉を、少女は受け入れられなかった。
「どういう意味ですか?」
「字義どおりよ」
立ちすくむ少女の一方で、”主”は微動だにしなかった。
「私は、あちらの世界を破壊することに決めました」
手を後ろに回した状態で、”主”は冷徹な目線を、少女に向ける。やがて、少女の狼狽ぶりを哀れんだのか、”主”は後ろを振り向き、部屋のカーテンをそっと開く。窓の向こうの、六月の町並みは、雨の中に沈んでいた。
「なぜそのようなご決断を?」
少女は尋ねる。
「この世界とあちらの世界とで、決定的に違うもの。それが何か、あなたに分かる?」
少女を顧みることなく、発言主は訊ねた。
「世界の広さですか?」
「もっと本質的なことよ」
”主”は続ける。
「この世界には闘争があり、向こうの世界にはそれが無い」
「そんな……」
少女は途方にくれた。
「それの何がいけないのです?」
「世界は完璧でなくてはならない」
”主”は言った。遠くの空で、雷が瞬いた。
「特に、私があちらの世界の主である以上は。私の世界は、世界それ自体にとっての理想郷ではなくてはならない。理想の実現のためには、全ての可能性は排除されるべきでない。そうでしょう? 可能性がしのぎを削り、生命が熱を帯びる、その瞬間。それが理想郷の萌芽よ」
「あちらの世界が、あなたの望む理想郷になればいい。そういうことですね?」
少女は尋ねた。
「ええ。でも、今のままではダメ。生きるためだけに生きるようでは、真の意味で生きたことにはならない。だから、私はあの世界をやり直したい」
”主”は答える。
「では、どうでしょう?」
少女は言った。
「その機会を、私にお与えいただけないでしょうか」
”主”は答えなかった。
「理想郷をやり直す機会を、私にお与えください。あなたの望む”完璧”を、私は知っています」
すぐに返事をせずに、梟のように無機的な仕草で、”主”は首を傾げる。”主”の口元からは笑みが消えており、しかしその目には、好奇の色を湛えられていた。今の少女の発言を、少女自身が後悔するよう仕向けさせるような、そんな雰囲気があった。少女はそれを、敏感に感じ取った。
「思った以上に多くのものを失うわよ?」
やがて、”主”が言った。
「覚悟の上です」
「では、賭けてみましょうか?」
「賭け、ですか?」
「ええ。もしあなたが勝てば、私は死ぬ。あなたはあなたなりの理想郷を作る。私が勝ったら、あなたは死んで、私は私なりの理想郷を作る。どうかしら?」
「世界のために命を賭けられるのならば……」
少女は答える。
「私の望むところです。――”お母さん”」
「愛らしいことを言うわね」
”主”は――”お母さん”は、言った。”お母さん”は、どことなく愉しげだった。
「『私という親にして、あなたという子供』、血は抗えないわね」
「しかし、あなたが相手では――」
「心配は要らない。公平を期すために、ハンデは付けてあげる。あなたが戦う相手は、私の代理人よ」
「代理人――」
「わかるでしょう?」
「そんな……」
少女は答えたが、実際に答えるまでには、しばらくの間があった。
「代理人もまた、私の世界の遺産にすぎない。あなたが闘うのは、私の遺した世界、私の全てよ。敵も味方も、あなた自身が決めなさい」
拳を握りしめ、少女は俯く。そんな少女に、”お母さん”は目を細めた。心のうねりや感情のさざなみは、少女がいくら隠そうとしていても、手に取るようにして”お母さん”には分かった。
重苦しい沈黙が部屋を埋め尽くす。稲妻が一閃、カーテンの向こうを去来する。”お母さん”と、少女の影がほのめいた。
「分かりました」
少女は顔を上げた。
”お母さん”は笑っていた。