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あの春のこと

作者: L.
掲載日:2026/11/07

 リゼットは、花の名前を覚えるのが苦手だった。


 庭の石垣に沿って咲く青い花を、僕が何度「わすれな草」と教えても、次の日には別の名前で呼んでいる。本人は忘れていないと言い張るけれど、僕が先に答えると、いつも少し悔しそうな顔をした。


「ねえ、ルカ。この青いのは、何ていう花だったかしら」

「わすれな草。昨日も言ったよ」

「知っていたわ。あなたがちゃんと覚えているか、確かめただけ」

「だったら、先に答えてよ」


 リゼットは僕の言葉を聞かなかったことにして、花の前にしゃがみ込んだ。青い花を指先でそっと持ち上げ、何か考えるように首をかしげた。


「この花、空のかけらって名前のほうが似合うと思わない?」

「本当の名前があるのに?」

「本当の名前はあなたが覚えていればいいわ。私はこっちで呼ぶの」


 いつもこんな調子なので、僕も最近は言い返すのを諦めかけていた。名前を忘れるのは困ることだと父さんは言うけれど、リゼットにとっては、名前を考え直すのも花を楽しむ方法らしい。


 僕が十一歳、彼女が十歳だった春のことだ。


 父さんはヴェルニエ伯爵家の庭師で、僕も学校の休みには草を取ったり、水を運んだりしていた。庭の道を掃くこともあれば、古くなった花の名前札を作り直すこともある。父さんが大切にしていたのは、どんな小さな仕事でも途中で放り出さないことだった。


 リゼット・ヴェルニエは、この屋敷の一人娘だった。朝はきれいに結ってもらっている髪も、昼にはたいてい乱れている。花が好きで、思いついたことはすぐ試したがり、上手にいかなくても簡単には諦めない。僕が最初に話したのも、彼女が庭の木に登って下りられなくなった日だった。


 その日は庭の奥から、女の子の小さな声が聞こえてきた。助けを求めているようだったので、僕は声のするほうへ歩いていった。リゼットは枝にしがみつき、下をのぞいていた。どうやら木登りに夢中になって、自分で下りるのが怖くなるほど高くまで登ってしまったらしい。


「屋敷の人を呼んでくる?」

「呼ばなくていいわ。また木登りをしたって、お母様に知られてしまうもの」

「でも、下りられないんだろ?」

「下り方を考えているところよ。少し時間がかかっているだけ」


 そう言われても、地面から見る彼女の靴は、今にも滑りそうだった。僕は父さんの道具置き場へ走り、軽い脚立を運んで木のそばに立てた。「下で支えているから、一段ずつ下りて」と伝えると、リゼットはようやくうなずいた。最後の一段だけは思いきり飛び下り、僕の足を踏んだ。


「痛いよ!」

「ごめんなさい。でも、あの木が思ったより高かったのよ」


 リゼットは木を見上げて、まるで木のほうが悪いような顔をした。僕が笑うと、彼女もつられて笑った。それから僕の名前を尋ね、僕が「ルカ」と答えると、口の中で一度繰り返した。


「ルカね。覚えたわ。今日は助けてくれてありがとう」


 翌日もその次の日も、彼女は庭へやってきた。三日もたたないうちに、僕の姿を見つけると当たり前のように名前を呼び、一緒に遊ぼうと誘ってくるようになった。僕も、屋敷の娘と庭師の息子という立場を忘れ、リゼットが花を踏みそうになると、つい友達に注意するような言い方をしてしまう。


「リゼット、そこに立たないで。昨日、父さんが種をまいたばかりなんだ」

「先に教えてくれれば踏まなかったわ。じゃあ、こっちを通るから」


 そんなやり取りをしていた日のことだ。近くで枝を切っていた父さんが、はさみを置いて僕を呼んだ。


「ルカ。お嬢様に、そんな口の利き方をするなよ」

「でも、リゼットが花を踏みそうだったから」

「それでもだ。お前は仕事を手伝いに来ているんだろう」


 父さんの言うことは分かったので、僕はリゼットに向き直った。けれど、何と呼べばいいか迷っていると、彼女のほうが先に口を開いた。


「私はルカと庭で遊びたいの。お嬢様なんて呼ばれたら、よその人みたいでしょう?」


 父さんはしばらくリゼットを見つめ、最後には困ったように息をついた。二人とも花壇を踏まないように、と念を押すと、また仕事へ戻っていった。僕はその背中を見送りながら、いつか父さんに怒られない話し方を覚えようと思った。結局、その春のうちには覚えられなかった。



 ある日の午後、リゼットは僕が作り直していた花の名前札を見て、どうして全部に名前を付けるのかと尋ねた。僕が「どこに何が植えてあるか分かるから」と答えると、彼女は少し考え込んだ。


「だったら、私も自分で花を育ててみたいわ。毎日見ていたら、名前も忘れなくなるかもしれないもの」

「見るだけじゃ駄目だよ。土を耕して、雑草を取って、水もやらないと」

「分かってるわ。ルカがやり方を教えてくれるでしょう?」

「僕だって、何でも知ってるわけじゃないよ」

「だったら、育て方はルカのお父さんに聞きましょう。場所は私がお父様にお願いしてみるわ」


 僕が返事をする前に、リゼットはもう頼みに行くと決めていた。その日の夕方には、伯爵様から庭の奥の小さな場所を使わせてもらう約束を取りつけてきた。伯爵様は娘の頼みに弱い人だったが、「遊びでも、世話は最後までしなさい」と言ったそうだ。父さんも事情を聞き、僕にもきちんと面倒を見るよう念を押した。


「お前も引き受けたんだから、きちんと面倒を見るんだぞ」

「リゼットも手伝うって言ってるよ」

「だったら二人でだ。どちらか一人に任せきりにするな」


 僕はうなずいた。実は、リゼットと一緒に世話をする時間が増えるなら、少しくらい大変でもいいと思っていた。


 借りた場所は、大人なら三歩で通り過ぎてしまうほど狭かった。リゼットはそこを「私たちの庭」と呼んだ。伯爵様の庭の一角だから正しくは違うと思ったけれど、何度訂正しても同じように呼ぶので、僕もそのうち気にしなくなった。


 植えるのは、わすれな草とスミレにした。どちらも春に花が咲き、よく世話をすれば小さな花壇でも育てられる。父さんに教わりながら僕が土を運んでほぐし、二人で間隔を測って苗を置いた。リゼットは、土を手で押さえるときだけ妙に慎重だった。


「ここに植えればいいのね。本当にこのくらいで大丈夫?」

「大丈夫。あんまり強く押したら、根っこが苦しいよ」

「根っこが苦しいかどうかなんて、分かるの?」

「父さんがそう言ってた」

「じゃあ、信じるわ」


 リゼットは真面目な顔で土をならした。それから僕にじょうろを渡そうとして、中に水が入っていることに気づかず、少しこぼした。彼女があわてて自分の靴を拭く姿がおかしくて、笑うのを我慢するのに苦労した。


 昼にはリゼットが焼き菓子を持ってきて、花壇の脇で半分ずつ食べた。彼女は二つに割るのを失敗し、小さいほうを自分の分にした。僕が大きいほうでいいのか聞くと、土をたくさん運んだのはルカだから、と当然のように答えた。そういうところが、リゼットにはあった。いつも少し偉そうなのに、僕が重いじょうろを持つと、何も言わずに反対側の取っ手を握ってくれる。


 僕はリゼットといる時間が好きだった。そう口にするのは恥ずかしかったし、彼女に聞かれたら否定したと思う。ただ、彼女が家庭教師の授業で庭に来られない日は、花壇の世話が妙につまらなくなる。先に草を取っても、水を運んでも、誰も何も言わないからだ。


 ある日、父さんに「お嬢様がいないと静かでいいな」と言われた。


「別に、いつも静かだよ」

「そうか。じゃあ、お前は何を待って三回も門のほうを見たんだ」


 父さんは笑いもせずに、植木ばさみを動かし続けた。僕は答えられなくなって、空のじょうろを持ったまま家の裏へ逃げた。



 春の半ばになると、屋敷には知らない大人がよく来るようになった。立派な馬車でやってくる人もいれば、裏門から小麦の袋を積んだ荷車を出し入れする人もいた。父さんによると、伯爵様は王国から預かった小麦を北の村へ届ける役目を任されているらしい。荷車が通ると庭仕事の道がふさがるため、父さんはそのたびに作業を止め、日付や時間、荷車の数を仕事の日誌に書いていた。


 父さんは来客が増えたぶん、玄関前の草木をいつも以上にきれいに整えたが、屋敷の人たちはあまり嬉しそうではなかった。ある朝、小麦を分けてもらおうと屋敷に来た村の男の人が、門のところで追い返されていた。


「伯爵様は、貧しい人に小麦を分けてくださると聞いたんですが」

「今はその話をするな。王都から役人が来ているんだ」


 門番は小声で男の人を帰した。男の人は何度も頭を下げてから、空の袋を持って坂を下りていった。僕はその背中を見送り、父さんに尋ねた。


「小麦が足りないの?」

「今年は冬が長かったからな。町ではパンの値段も上がっている」

「うちのパンも小さくなる?」

「小さくなったら、ゆっくり食べることだ」


 父さんは僕の頭を軽くたたいた。冗談のような言い方だったけれど、その日の夕食で父さんが自分のパンを母さんに分けたことを、僕はちゃんと覚えている。屋敷の奥では、もっと難しい話がされていた。ある午後、父さんに頼まれて廊下の窓を閉めに行くと、書斎の扉が少し開いていた。中から伯爵様と、知らない男の人の声が聞こえる。


「北の村に送るはずだった小麦が、商人の倉庫で見つかったのだぞ」

「書類では、すでに村へ届けたことになっています。伯爵閣下の署名もあります」

「私は数を確かめてから出せと言った。勝手に数字を変えたのは誰だ」

「その点をお調べするのが、私どもの仕事です」


 知らない男の人は、落ち着いた声で答えていた。あまりに落ち着いていたので、伯爵様だけが怒っているように聞こえた。僕には書類の話がよく分からなかった。父さんが苗を十本買ったのに九本しか届かなければ、お店へ文句を言いに行く。そのくらいの話なら分かる。けれど、小麦を誰がどこへ運んだかで、大人が何日も言い争うものなのだろうか。


 窓を閉めて戻ると、リゼットが庭の入り口で待っていた。


「遅いわ、ルカ。今日は私のほうが先に来たのよ」

「父さんに仕事を頼まれてたんだ」

「じゃあ、仕方ないわね。ほら、見て。スミレが増えたの」


 彼女はそう言って、花壇にしゃがみ込んだ。確かに、昨日まで葉だけだったところに小さな花が二つ咲いていた。


「きれいでしょ。私が見つけたんだから、一つは私の花ね」

「両方とも、僕たちの花壇の花だよ」

「だったら、もう一つはあなたの花にしてあげる」


 そう言われると、何となく嬉しかった。僕たちはそれぞれの花の前に座り、どちらが長く咲いているか競争することにした。そんなことは花が決めるのだから、僕たちが競争しても意味はない。それでもリゼットが楽しそうだったので、僕も本気で勝つつもりになった。



 それからしばらくして、僕は花壇のために新しい名前札を作った。木を薄く切って角を丸く削り、墨で花の名前を書く。父さんには、字が曲がっていたら書き直せと言われていたので、作業台に肘をつき、いつもより丁寧に筆を動かした。


 わすれな草とスミレ。二つの札を並べて墨が乾くまで待っていると、リゼットが僕の肩越しにのぞき込んできた。


「私も書いていい?」

「もう名前は書いたよ。それに、花の名前札なんだから、好きなことを書いちゃ駄目だ」

「分かってるわ。表はそのままにするから、裏を貸して」


 リゼットは僕が返事をする前に、作業台に置いてあった筆を手に取った。伯爵家の娘として字を習っているだけあって、彼女の線は細くてきれいだった。わすれな草の札の裏側に小さな文字を一つ書き、最後にちょんと点を付けた。


 L.


「どうして、これなの?」

「この国の文字で書くと、ルカもリゼットも最初はLでしょう? 二人で作った庭だって、分かるようにしたの」

「どっちが書いたかは、分からなくなるよ」

「二人で作ったんだから、どっちでもいいじゃない」


 彼女は自分の考えに満足したらしく、僕に筆を返した。僕は札を裏返してみた。表にはちゃんと花の名前があって、裏には僕たちだけの印がある。誰にも見えないのに書く意味があるのかな、と少し思ったけれど、消したいとは思わなかった。


「そういえば、リゼットって花の名前はすぐ忘れるよね」

「またその話をするの?」

「でも、僕の名前は間違えたことがない」


 そう言うと、リゼットは不思議そうに僕を見た。


「ルカはルカでしょう。どうして間違えるの?」

「いや、そうだけど」


 うまく答えられなくなった僕を見て、彼女は笑った。そして、木札を花壇まで運んでいった。僕も慌てて後を追い、二人でわすれな草の前に札を立てた。花の名前が書かれた表を通り道へ向けると、裏の印は花壇の奥を向き、見えなくなった。


 その日は風が強く、何度か札が傾いた。僕が根元の土を押さえていると、リゼットは隣にしゃがみ込み、真面目な顔で尋ねた。


「ねえ、ルカ。大人になっても、二人で花を育てられると思う?」

「どうだろう。僕は父さんみたいに庭師になるかもしれないけど」

「だったら、私の庭師になればいいわ。毎日一緒に花を育てられるでしょう?」

「お給料は?」

「焼き菓子を一つ」

「仕事なのに、一つだけ?」

「それなら二つ。でも、私が大きく割れた日は、あなたのほうをあげるわ」


 僕は笑った。リゼットは冗談を言ったつもりがなかったらしく、何がおかしいのか尋ねてきた。僕が「毎日二つも食べたらお腹いっぱいになる」と答えると、彼女は少し考えてから、余ったら一緒に食べればいいと言った。


「そうしたら、ずっと一緒にいられるでしょう?」


 その言葉だけは、なぜかすぐに返事ができなかった。僕は土のついた指を膝でこすりながら、リゼットのほうを見る。彼女はいつもの調子でこちらを見ていたけれど、僕の答えを待っていることだけは分かった。


「……うん。大人になっても、一緒に花を育てよう」

「約束よ。忘れないでね」

「忘れないよ。僕、花の名前だって覚えてるんだから」

「それとこれは違うわ」


 リゼットはそう言いながら笑い、伸ばした小指で僕の小指に触れた。指をつなぐ約束のやり方は知っていたが、実際にやるのは初めてだった。僕は彼女が手を離してからも、しばらく同じ姿勢で座っていた。



 伯爵様が連れていかれたのは、それから五日後のことだった。朝、馬の足音で目が覚めた。僕が家から出ると、屋敷の前に見たことのない馬車が止まり、門の両側には兵士が立っていた。父さんは僕を見つけると、家へ戻るように手で合図した。


「何があったの?」

「いいから、中にいろ」


 父さんの声は、普段より低かった。それでも僕は、庭の小道に回り込んで様子を見た。玄関から伯爵様が出てくるところだった。いつもなら背筋を伸ばして歩く人なのに、その日は少し疲れた顔をしていた。隣には、見知らぬ男の人が立っていた。


「調べれば分かることだ。私は逃げない」

「でしたら、王都までご同行ください」


 その声は、先日書斎の前で聞いた落ち着いた声と同じだった。伯爵様はそう言われて馬車に乗り込んだ。屋敷の窓の向こうで奥様が口元を押さえているのが見えたが、リゼットの姿はどこにもなかった。馬車が出ていったあと、父さんは僕の肩をつかんで家へ連れ戻した。


「今日からしばらく、屋敷のほうへ行くんじゃない」

「でも、花に水をやらないと」

「それは俺がやる。お前は来なくていい」

「リゼットとも会っちゃ駄目なの?」


 父さんはすぐには答えなかった。母さんが台所からこちらを見ていたが、何も言わなかった。


「……今は、あのお嬢様とも遊ぶな」

「どうして?」

「伯爵様が、王国の小麦を盗んだ疑いをかけられている」

「でも、伯爵様は、小麦がどこかへなくなったって怒ってたよ。自分で盗んだなら、怒らないんじゃない?」


 父さんは僕を見て、少し驚いた顔をした。


「そんな話を、どこで聞いた」

「書斎の前。窓を閉めに行ったときだよ」

「ほかの人には言うな。どこで何を聞いたかも、しばらく黙っていろ」

「なんでだよ。僕、嘘はついてない」

「嘘じゃないから、怖いんだ」


 父さんはそこまで言うと、急に口を閉じた。そして僕に背を向け、使い込んだ仕事着をたたみ始めた。僕は腹が立った。父さんはいつも、間違えたことをしたら正直に言えと教えてくれた。それなのに、自分は知っていることを話すなと言う。けれど、父さんの指が少し震えているのを見てしまったので、それ以上怒鳴ることもできなかった。



 町の人たちは、伯爵様がいなくなった理由を、僕より詳しく知っているようだった。市場へ買い物に行けば、ヴェルニエ家が王国の食べ物を盗んだと話す人がいた。最初から怪しい家だったと言う人もいれば、あそこの庭に使う水さえもったいないと言う人もいた。


 ついこの間まで伯爵様から仕事をもらっていた大工も、屋敷のことを悪く言っていた。僕には、どうして急にみんなの考えが変わったのか分からなかった。学校では、隣の席のフィンが尋ねてきた。


「お前、あの家の娘とよく遊んでたよな。もうやめたんだろ?」

「どうしてやめるんだよ」

「だって、悪い家なんだってさ。うちの父ちゃんが言ってた」

「リゼットは何も盗んでないよ」

「でも、あいつの父親が盗んだんだろ?」

「まだ分からないって、うちの父さんは言ってた」


 フィンは困ったように頭をかいた。それから、小さな声で言った。


「俺だって、本当かどうかは知らないよ。ただ、みんなそう言ってるから」


 僕はその言葉が嫌だった。みんなが言っている。それだけで本当になるなら、花の名前もみんなで好きに決めればいい。僕がそんなことを言うと、フィンはますます困った顔になった。けれど、次の日から僕も一人で昼食を食べることになった。フィンは別の友達と座るようになり、ほかの子たちも僕を避けているようだった。


 母さんが持たせてくれたパンはいつもどおりの味だったが、全部食べるまでずいぶん時間がかかった。屋敷では、使用人が次々に辞めていった。庭の手入れをする人も減り、いつもなら春の間に刈りそろえられる生け垣が、少しずつ伸び始めた。母さんは町の洗濯場で、屋敷と財産は調べが終わるまで王国が預かると聞いてきた。奥様とリゼットも今は屋敷に残れるが、いつまでそこにいられるのか分からないらしい。僕は毎朝、坂の上の窓を見た。


 あそこにリゼットがいると思うと、今すぐ走っていきたくなった。でも、父さんの震える指を思い出すと、なかなか足が動かなかった。



 十日ほどたったころ、父さんが庭の道具を持って帰ってきた。屋敷の仕事を辞めることになったのだという。


「今月のお給料も、出ないかもしれない」


 父さんは母さんにそう話していた。母さんは小さくうなずき、戸棚から布袋を取り出して、中のお金を数え始めた。僕はその様子を見ながら、焼き菓子二つのお給料では父さんと母さんを助けられそうもないと思った。次の日、父さんは道具箱を整理していた。


 曲がった釘や、欠けた鉢、使いかけの縄が次々に出てくる。僕も手伝っていると、箱の隅から小さな木札が見つかった。わすれな草、と書いた札だった。


「これ、どうして持って帰ってきたの?」

「屋敷に残しても捨てられるだけだからな。使えそうなものは持って帰っていいと言われた」


 僕は札を裏返した。土が乾いてこびりついていたけれど、あの日リゼットが書いた小さなLと点が、まだ残っていた。


「父さん、ほかの札は?」

「もう処分された。庭の隅の花壇も、片づけるそうだ」

「どうして、花まで捨てるんだよ」

「王都から来た役人が、手入れの手間を減らすために片づけるそうだ」

「僕たちで植えたのに」


 父さんは僕の手にある札を見た。何か言いかけて、結局何も言わずに作業を続けた。僕は木札を上着の内側にしまった。そこへ入れれば、誰にも見つからないような気がした。夕方、屋敷へ続く坂道まで行ってみた。


 門のところには新しい兵士が立っていて、僕を見るなり「用がないなら帰れ」と言った。庭師の息子です、と説明しても、もう庭師はいないだろうと笑われた。僕は言い返せずに引き返した。その途中、坂の下にあるパン屋の前で、小さな女の子が母親に叱られているのを見た。女の子はパンを一つ余分に欲しがっていたが、母親にはお金が足りなかったらしい。


 僕は上着の内側の木札を握った。小麦がなくなったせいで、みんな困っている。伯爵様が本当に盗んだのなら、そのことは悪いと思う。でも、僕には、リゼットを悪い子と呼んでいい理由がどうしても見つからなかった。



 リゼットから手紙が届いたのは、父さんが仕事を辞めて三日後だった。封筒の紙はくたびれていて、宛名の字は少し曲がっていた。届けてくれたのは、屋敷で長く働いていたマルタさんという女の人だった。


「お嬢様から預かってきたよ。お父さんにも、私から事情を話しておくからね」


 マルタさんはそう言って僕に手紙を渡し、早足で帰っていった。中には短い文章が書いてあった。


『ルカへ。

 庭の花は、もうなくなりました。

 私は明後日、母といっしょに遠くの町へ行きます。

 あなたに会って、ちゃんとさよならを言いたいです。

 リゼット』


 僕は三度読み返した。花がなくなったというところで、胸の奥が妙に重くなった。明後日という文字を見てからは、家にいても落ち着かず、何度も窓の外を見てしまった。父さんに手紙を見せると、最初は黙っていた。母さんも一緒に読み、台所の椅子を引いて座った。


「会いに行きたい」


 僕が言うと、父さんは顔を上げた。


「今は駄目だと言っただろう」

「でも、明後日にはいなくなるんだよ」

「相手が誰か分かっているのか。屋敷へ近づくだけで、お前まで何か言われるかもしれないんだぞ」

「もう言われてるよ。学校でも、町でも」


 父さんは口を閉じた。


「僕、何もしてないのにさ。リゼットだって、何もしてないのに。どうして会っちゃ駄目なの?」

「お前を守りたいんだ」

「それは分かってる。でも、僕が会いたいって思うのも、分かってよ」


 自分でも驚くくらい大きな声が出た。僕はその場に立ち尽くしたが、父さんは怒鳴り返さなかった。しばらくして、母さんが静かに言った。


「あなた。あの子にお別れを言わせないままにしたら、ルカはきっと、ずっと覚えていると思うわ」

「……分かってる」


 父さんは両手で顔をこすった。


「俺も、あの家には世話になった。伯爵様が本当に悪いことをしたのかも、まだ分からない。だが、俺にはお前たちを食わせなきゃならないんだ」


 父さんはそう言って、道具箱のほうを見た。僕は初めて、父さんが怒っているのではなく、困っているのだと分かった。


「僕、危ないことはしないよ。ちゃんと帰ってくる」

「子供の約束ほど、当てにならないものはないんだがな」


 父さんは苦い顔で笑い、それから僕の目を見た。


「明日の夕方、屋敷の裏手の古い石橋までなら連れていく。そこへお嬢様が来られるか、マルタさんに聞いてみよう。門を無理に通ろうとするなよ」

「うん。ありがとう、父さん」


 父さんはうなずかなかった。ただ、明日までに靴を洗っておけ、と言った。


 父さんはその日のうちにマルタさんと連絡を取り、夕方には石橋で会えるという返事が届いた。僕は安心したが、なかなか眠れなかった。



 次の日は、昼前から雨が降っていた。父さんと僕は、夕方になる少し前に家を出た。石橋は屋敷の裏手にある小さな川に架かっていて、昔はその川から庭へ水を引いていたらしい。今はほとんど人が通らず、橋のそばには背の高い草が生えていた。雨よけの外套を着た父さんは、僕に傘を持たせ、少し離れた木の下で待つと言った。


「お嬢様が来ても、長居はするなよ。それから、雨が強くなったらすぐに帰ること」

「分かった」


 僕は石橋の真ん中に立って、何度も屋敷のほうを見た。リゼットは、約束より少し遅れてやってきた。マルタさんが傘を差していて、リゼットはその下を歩いていた。いつもの髪飾りはなく、履いている靴も少し泥で汚れていた。


「ルカ」


 彼女が僕の名前を呼んだので、僕は何となく安心した。声はいつもと同じだった。


「来てくれてよかった。会えないかと思ったわ」

「父さんが連れてきてくれたんだ。マルタさんにも、ありがとうって言って」


 リゼットはマルタさんを振り返った。マルタさんは「二人で話しておいで」と言ってリゼットに傘を渡し、雨よけの頭巾をかぶって少し先の道へ下がった。僕たちはそれぞれ傘を差し、石橋のそばに並んだ。何から話せばいいのか分からなかった。いつもならリゼットがすぐに話し始めるのに、その日は川の流れを見つめたままだった。


「花壇、本当になくなったの?」


 僕が尋ねると、リゼットはうなずいた。


「王都から来た役人が、もう世話をする人がいないからって、全部片づけさせたの」

「花は何も悪くないのにな」

「ええ。本当に、変な話よね」


 リゼットは笑おうとして、やめた。うつむいたまま、小さな声で尋ねた。


「ルカも、私の家が悪いと思う?」


 僕はすぐに答えられなかった。伯爵様が小麦を盗んだのかどうか、僕にはまだ分からない。書斎で聞いた話だって、全部を理解したわけではない。リゼットの前で簡単に「悪くない」と言ったら、嘘になるような気がした。


「分からないことは、あるよ」


 僕がそう言うと、リゼットは顔を伏せた。


「でも、リゼットが小麦を盗んだなんて思ってない。君はいつも、お菓子を僕に半分くれたじゃないか。自分の分が小さくなっても、文句を言わなかったし」

「そんなの、関係ないわ」

「関係あるよ。僕が知ってるリゼットの話だから」


 彼女はしばらく黙っていた。やがて、ひどく真面目な顔で僕を見た。


「私はね、怖かったの。お父様が帰ってこなくなって、みんなが私たちのことを悪く言って、昨日まで挨拶してくれた人も知らないふりをするの。私が何かしたのかと思ったわ」

「リゼットは何もしてないよ」

「そう言ってほしかったの。お母様も言ってくださったけれど、ほかの人の声が大きすぎて、よく聞こえなくなっていたから」


 リゼットはここまで言うと、袖で目元をぬぐった。僕は持ってきた焼き菓子の包みを取り出した。母さんが朝から焼いてくれたもので、少し形がゆがんでいた。リゼットに渡すと、彼女は泣きそうな顔のまま笑った。


「あなたの作ったお菓子じゃないでしょうね」

「母さんのだよ。僕が作ると固くなるから」

「よかった。今は固いものを食べたくないの」


 そのころには雨がいったんやんだので、僕たちは傘をたたみ、小さな木の下で川を眺めながらお菓子を食べた。リゼットは最初の一口をゆっくりかみ、二口目からはいつものように大きく食べた。僕は上着の内側から木札を取り出した。


「これ、父さんの道具箱に残ってたんだ」


 リゼットは札を受け取って裏返した。土の汚れを指で払い、小さなLと点を見つける。


「まだあったのね」

「持っていく?」


 彼女はしばらく木札を見つめていたが、やがて首を振った。


「ルカが持っていて。私、荷物が多いから、なくしてしまいそう」

「僕だって、なくすかもしれないよ」

「あなたはこういうもの、大事にするでしょう。花の名前札だって、一つずつきれいに作っていたもの」


 リゼットは僕の手に木札を戻した。


「ねえ、また花を植えられると思う?」

「植えられるよ。花はどこでも育つって、父さんが言ってた」

「でも、私たちの庭はなくなっちゃったわ」

「だったら、別の庭を作ろう。僕が大きくなって、自分の家を持ったらさ」

「私も、そこに行っていいの?」

「もちろん。リゼットが来なかったら、僕が花の名前を教える相手がいなくなるから」


 彼女は少しだけ笑った。


「じゃあ、大人になったら、また一緒に花を植えましょう。今度は、誰にも勝手に片づけられない庭にするの」

「うん。約束する」


 リゼットは小指を差し出した。僕も同じように手を出し、二人で指を絡めた。彼女の手は冷たかったが、握った指にはしっかり力が入っていた。雨がまた降り出したので、僕たちは傘を開いた。そこへマルタさんが戻ってきた。


「お嬢様、そろそろ行きましょう」

「分かったわ」


 リゼットは返事をしてから、僕を見た。


「ルカ。最後に、もう一つだけお願いしてもいい?」

「何?」

「明日も、あの花の名前を覚えていてね」

「わすれな草?」

「違うわ。私がつけたほうの名前」

「空のかけら」

「そう。それを忘れないで」


 僕はうなずいた。リゼットは傘の下から片手を出し、僕に向かって大きく振った。僕も振り返したが、彼女の姿が曲がり角で見えなくなるまで、手を下ろせなかった。



 リゼットが去ったあと、僕の毎日は少しずつ変わった。父さんは町の外れの農園で働き始め、僕も学校のない日に手伝いに行くようになった。農園には伯爵家の庭ほどきれいな花壇はなかったが、野菜の苗が並んでいて、育つのを見るのは思ったより面白かった。フィンは、ある日の帰り道で僕に謝った。


「この前、悪い家だなんて言ってごめん。うちの父ちゃんも、よく知らないで話したって」

「うん」

「……あの子、もう行っちゃったんだろ」

「うん。遠くの町に」


 フィンは何か言いたそうにしていたが、結局それ以上は聞かなかった。僕も、どこへ行ったのか詳しくは知らない。リゼットの手紙には町の名前が書いていなかったし、マルタさんも「知らないほうが安全だよ」と言って教えてくれなかった。学校の帰り道に一人になると、前より少し遠回りをするようになった。屋敷のある坂道を通らなくても家には帰れるのに、ついそこへ足が向いた。


 門の前には王国が管理していることを知らせる看板が立ち、僕たちが植えた花壇のあった場所は、土が平らにならされていた。門の隙間からのぞいても、あの青い花はもう見えなかった。ある日、父さんに尋ねた。


「伯爵様は、本当に悪いことをしたのかな」


 父さんは土のついた手を洗いながら、しばらく考えていた。


「まだ、何も決まっていない」

「みんなは、もう決まったみたいに話すよ」

「そうだな。人の噂は、早いからな」

「父さんも、最初は何も話すなって言った」


 僕がそう言うと、父さんは手を止めた。


「ああ。怖かったんだ。お前の言うとおりだったとしても、それを口にしたら、俺たちの暮らしまで壊れるかもしれないと思った」

「今も怖い?」

「怖いよ。でも、怖いから何もしなくていいってわけでもないな」


 父さんはそれ以上は話さなかった。数日後、父さんが町へ出かけるところを見た。手には、屋敷で働いていたころの仕事の日誌を持っていた。僕がどこへ行くのか尋ねると、昔の仕事仲間に会いに行くのだと言った。何を話したのかは聞かなかったし、父さんも教えてくれなかった。けれど、その日の夜、父さんは少しだけ疲れた顔をして、いつもより遅く夕食を食べた。


 母さんが温め直したスープを出すと、父さんはありがとうと言った。母さんは何も聞かずに、パンを一つ余分に父さんの皿へ置いた。あのころの僕には、二人がどうして黙っているのか分からないことが多かった。



 初夏が近づくころ、僕は家の裏に小さな花壇を作った。父さんに場所を借り、農園でもらった余りの苗を植えた。わすれな草の季節はもう終わりかけていたので、スミレと、名前の分からない小さな花を一株だけ植えることにした。前の庭よりずっと狭く、僕の歩幅で二歩もないほどの場所だった。


 水をやっていると、母さんが洗濯物を抱えてやってきた。


「その白い花は、何という名前なの?」

「知らない。父さんにも聞いたけど、分からないって」

「だったら、名前を考えてあげたら?」

「勝手につけたら、本当の名前と違うよ」


 母さんは少し笑った。


「リゼットお嬢様なら、きっと自分でつけるでしょうね」


 僕もつられて笑った。リゼットだったら、花をあちこちから眺めて、僕には思いつかない名前を考えるはずだ。変な名前だと僕が文句を言えば、彼女は不満そうな顔をして、最後には自分のほうが正しいと言い張るだろう。


 家に入ると、僕は棚にしまっていた古い木札を取り出した。表には「わすれな草」とあり、裏にはリゼットが書いた小さな印が残っている。その札はリゼットと作った庭のものだから、新しい花壇に立てる気にはなれず、そのまま箱に戻した。いつかまた、同じ花を植えられる日が来たら使おうと決めた。


 次の春に何が起こるかなんて、僕には分からなかった。伯爵様が帰ってくるのか、リゼットがどこで暮らすのか、彼女ともう一度会えるのかさえ、誰も教えてくれない。


 それでも、庭に花があるかぎり、水をやることはできる。リゼットと二人で決めた「空のかけら」という名前も、僕はまだ覚えている。


 だから次の春も、そのまた次の春も、花を育てようと思った。もし彼女が帰ってきたら、どんな花が咲いたのか、最初から話してあげられるように。




 私は最後の一文を書き終え、ペンを置いた。


 窓の外では、夕方の光が庭の小道を照らしていた。石垣のそばに植えたわすれな草が、今年も青い花を咲かせている。書き終わった原稿を一枚ずつそろえてみると、思っていたよりずっと厚くなっていた。子供のころの春を一つ書くだけなのに、半年もかかってしまった。


 私は古い木札を机の引き出しから取り出した。表に書いた「わすれな草」の文字は薄くなり、裏にはもう少し細い字で、あの印が残っている。木札を見ていると、私が書いた出来事の中には、彼女の記憶とは違うものもあるだろうと思った。石橋で交わした言葉も、全部を正しく覚えているとは限らない。それでも、彼女が私の名前を呼んでくれた声だけは、今も間違えようがなかった。


 その後、ヴェルニエ家の疑いが晴れるまでには何年もかかった。王国の小麦を商人へ流し、村へ届けたことにしていた役人がいたことが分かったのだ。伯爵には書類の確認を怠った責任が残ったが、盗みを命じたという罪は取り消された。父がかつての仕事仲間に見せた庭仕事の日誌には、小麦の荷車が出入りした日時と数が残っていた。役人が作った運搬記録と食い違っていたことが、不正を調べる手がかりになったという。


 失われた仕事や、あのころの暮らしが戻ったわけではない。父は新しい農園で働き続け、伯爵家の人々も前と同じ屋敷には帰らなかった。正しいことが分かっても、何もかも元どおりになるわけではないのだと、私は大人になってから知った。


 リゼットと再会したのは、彼女が十七歳になった春だった。王都の市場で、一人の娘が鉢植えの名前を間違えて店主に直されていた。聞き覚えのある言い返し方に足を止めると、その娘がこちらを振り向いた。私は気づかないうちに笑っていたらしく、彼女は昔と同じように少し口をとがらせた。


 そのあと私たちは手紙を交わし、会える日を探し、一緒に暮らす家を探した。その間にもいろいろなことがあったが、この原稿には書かなかった。今日書きたかったのは、二人が何者になるか決まる前の、あの春のことだからだ。


「終わったの?」


 声に顔を上げると、妻が扉のところに立っていた。お茶の入ったカップを二つ持ち、私の返事を待っている。


「今、書き終えたところだよ。ずいぶん長くなってしまった」

「でしょうね。ルカは昔から、花の名前一つでも細かく説明するもの」


 リゼットは机のそばに来て、一つのカップを私の前に置いた。彼女の目が、引き出しから出したままの木札に留まる。


「それ、まだ持っていたのね」

「君が持っていてくれって言ったから」

「本当に言ったかしら。……でも、よかった。私ならどこかになくしていたかもしれないわ」


 私は原稿の表紙を彼女に見せた。そこには、ずいぶん前から決めていた題名が書いてある。


『あの春のこと』


 リゼットはしばらく表紙を眺めていた。


「私のことを書いていたの?」

「君と、僕のことだよ。庭の花の話も、書いた」

「花の名前を間違えた話ばかりじゃないでしょうね」

「そこは少し多いかもしれない」

「もう。あなたは本当に昔から変わらないわね」


 彼女は呆れたように言ったが、原稿を手に取ると丁寧に最初のページを開いた。私はその横顔を見ながら、子供のころには彼女が笑っているだけで嬉しかったことを思い出した。大人になった今も、その気持ちはあまり変わっていない。


「ルカ、これ、私が覚えていることと違っていたら、直してもいい?」

「もちろん。でも、二人で違うことを覚えていたら、そのまま残そう。どちらかが嘘をついているわけじゃないんだから」

「それなら安心ね。私、あのころのことを、ずいぶん忘れてしまったもの」


 リゼットは少し申し訳なさそうに笑った。私は机にある木札を手に取り、裏の文字を彼女へ向ける。

「そうかな。僕の名前は、最初から一度も間違えなかったでしょう」

「それはそうよ。ルカはルカだもの」


 子供のころと同じ答えだった。私は笑いながら、原稿の最後にまだ署名をしていなかったことを思い出した。


「そうだ。名前を書いておかないと」

「ちゃんと分かるように書いてね。あなた、字が小さくなると読みにくいんだから」


 リゼットはそう言ってから、私が手にしている木札をもう一度見た。そして、何か思いついたように目を細める。


「でも、あの印でもいいかもしれないわね。二人で作った庭の印でしょう?」


 私はうなずき、ペンを持った。あの春に失われたものは多い。けれど、彼女が笑っていたことを、誰かの悪い噂だけで終わらせたくなかった。それが、今になってこの物語を書いた理由だった。


 私は原稿の最後に、小さく文字を書き添えた。


―― L.

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