ふたつの可能性について
※オッカムの剃刀とは、「ある事象を説明するために、必要以上に多くの仮定を設けるべきではない(最もシンプルな説明を選ぶべきだ)」という哲学・科学の思考原理である。
パリスから北方に百キロ、深い山地の裂け目の渓谷に、名も与えられないほどの小さな村がある。若者たちは成人すると故郷を捨てて、都会へと出ていく。年ごとに荒れゆく寂しい山村である。私はこの村の片隅にひとりで住んでいる。
部屋の中には、タイプライターを置くための、小さな丸テーブルがひとつ、不揃いの二脚の椅子が傍にある。テーブルの端には、いくつかの実験器具や、薬品の入ったガラス瓶が、几帳面に並べられている。
天井には古風なランプが吊られている。本棚にはアラン・フルニエの『モーヌの大将』、旧約聖書が一冊、それに加えてメイヌース教理問答が並べられている。壁にはタペストリーが掛かっていて、そこには巨大な黒い羽を纏い、右手に騎士剣を握りしめた、運命神フライプリミアー(蠅王)が描かれている。私のお気に入りの一品である。元々は自分の所持品ではなかったが、まるで魔性の力に魅入られるかのように、半ば強引にこれを手に入れてしまった。
時計の針は、すでに午前一時を指している。今夜はなかなか寝る気にならなかった。漠とした予感ではあるが、重要な要件を持った何者かが、ここを訪ねてくる気がしていた。私は苦いコーヒーをひたすら飲みながら、その時を待っていた。やがて、ドアを軽くノックする音が聴こえてきた。私は動揺を隠すために少しの間を置いて、ドアへと近寄り、それをゆっくりと開いて、客人を迎え入れた。それは、会ったことのない中年の男性であった。少なくとも、この村の近隣に住む人間ではない。頭髪は白髪混じりだが、実にがっしりとした体格をしていた。
「夜分、恐れ入ります。少し伺いたいことがありまして……」
彼は申し訳なさそうな態度で、そのように語り始めた。私は彼を部屋の中央のテーブルにまで招き入れた。その男はスコットと名乗り、パリスからやって来た調査官であると告げてきた。私は彼の話を慎重な態度で受けることにした。
「二日前の夕刻、ひとりの旅人がこの近くにある渓谷において行方不明になりました。彼の荷物と衣服については、谷底において見つかっていますが、本人の身体が見つかっていません。捜索隊が付近を調べていますが、今のところ、手がかりがほとんどない状況です。貴方はこの付近の地形に詳しいと他の住民から聞きました。この小屋は事件現場からもきわめて近いです。些細なことでも構いません。何かご存じではありませんか?」
「それが被害者のことかは確定できませんが、二日ほど前に私の身に起きた興味深い事件について、こちらからお話しできますよ」
私は慎重に言葉を選びながら、そのように返答した。スコットというその男は、私の申し出に興味を持ったようだった。彼はぜひその話を聞かせて欲しいと願ってきた。私は心よく了解した。
「実は二日前の深夜、貧相な身なりをした、男性の幽霊の訪問を受けまして……」
「なぜ、その男が幽霊だと思われたんですか?」
「恐るべきことに、彼の身体が透けていました。最初は信じられませんでした。本当にホラー映画のようでした。そして、上半身は鮮血にまみれていたのです。彼自身はこのように述べたのです。『自分は、つい先ほど、渓谷に誤って転落して命を落とした旅人である』とね……」
「それで……?」
スコットはこの話にいたく興味を持ったらしかった。
「今夜と同様にその客人にもお茶を勧めましたが、彼は一口も飲みませんでした。その訪ね人が言うには、あらゆる物体を完全に消し去ることのできる稀有な薬品を、パリスの研究所まで運んでいく途中で、この付近の渓谷に踏み迷ったらしいのです」
「ははあ、なるほど、最近になって、隣国において、そのような画期的な薬品の開発に成功していたことは、新聞を読んで存じております」
「その亡霊が語るところでは、渓谷の細い坂道を通過中に、誤って足を滑らせ、深い崖下にまで転落してしまったそうです。これは如何にもありそうな話でした。この付近の山道は旅慣れない者にとっては、余りにも険しいからです。つまり、彼は不幸にも事故死してしまったわけです……」
「しかし、谷底の川原には彼の遺体はありませんでした。河原に散らばっていたのは装飾品と荷物だけです。その辺はどのように……」
「崖から下に転落する際に、リュックサックに入っていた『物体を消滅させる薬品』が、自分の身体にかかってしまったと言うのです。そのために、彼の肉体は永遠に失われることになってしまったわけです」
「なるほど……、それならば、谷底での状況と一致しますね」
「そう……、彼は続けざまにこのように語っていましたよ。『己れの存在を誤って消してしまいました。すべては自分のミスです。しかしながら、このままでは死んでも死にきれない……』とね」
「うーむ、それが事実とすると、実に不幸な事故ですな……」
スコットは何度か首を傾げながらも、私の語る話にある程度は納得した様子だった。
「亡霊は最後にこのように語って消えました。『この私が実在していて、パリスまで荷物を運ぶ途中に事故死してしまったことを、他の誰かに伝えてやってくれませんか……?』とね」
「なるほど、自分の仕事と存在について、多くの人に認めて欲しいと述べたわけですな? それは実に現実的で哀しい話ですな……」
スコットはそのように相槌を打って、私の話にいたく感銘した様子であった。彼は少しの間を置いて、壁に掛かっているタペストリーを指さした。
「その壁掛けは素晴らしい逸品ですね。まるで運命神が現世に生きているかのようだ……。実に美しい……」
「お褒めの言葉をありがとう。先祖代々の一品なのです」
「なるほど、貴方の真実味のある話は実にごもっともです」
しかしながら、スコットは腕組みをして、しばし瞑想していた。何か深い考え事をしているようだった。私はその様子を見て不思議に思った。私の証言のどこかに納得しかねることがあるのかもしれない。彼はなかなか帰りそうになかったのだ。始めは小さかった不安が、少しずつ膨らんでいた。
「私の話はここまでです。貴方がパリスの役所の方でしたら、向こうに帰った際に、上役連中にそう伝えてもらえませんか? 実に不幸な事故であったと……」
「了解しました。しかし、ここを去る前に、どうか、私が昨夜体験した一件についても、語らせて頂いてよろしいでしょうか? この事件についてのもうひとつの見解です。ぜひ、貴方に聞いて頂きたいのです……」
私はそれを拒否することができなかった。不自然に感じられてしまうからだ。スコットは目を閉じたままに、もう一つの不思議な事件について語り始めた。
「実はその旅人の幽霊は私の寝室にも現れたのです……。自分の死んだ経緯について語るためにね。実に奇妙な体験でした。興味深い体験談でもありました。貴方が先ほど語ってくれた話とは、だいぶ違っていますがね」
スコットはそこで出されたコーヒーをひとくち口にした。
「彼の話すことには、『自分はとある芸術作品をパリスへ運ぶ途中、渓谷にある小さな村に住む科学者の手によって殺害され、その存在を消され、貴重な逸品を奪われてしまった』と語ったのです。私は実に驚きましたよ。彼の詳しい説明によれば、少しの休憩を求めた山小屋において、その芸術品を科学者を名乗る男に自慢げに見せたところ、相手側からそれを譲るように強く迫られたそうです。彼は必死にそれを断りました。『これはお金で買えるものではないから』とね。その結果、彼は鋭利な刃物で裂かれて殺されてしまい、その上で特殊な薬品によって、その存在を消されてしまいます。衣服と荷物は崖下に投げ捨てられたそうです……」
スコットはそこまで話すと、もう一度、壁のタペストリーを指さした。
「彼が語るところでは、ここまで運んできて、この付近の山小屋において奪われてしまったのは、どうやら、そのタペストリーのようなんです。」
「そちらの話も、実に興味深い話ですな……」
私は震える声でそう応じるしかなかった。これが因果応報というものだろうか。私は自分が信仰する運命神の裁きを受けた気がしていた。
「私はパリス警察署の巡査長、スコットと申します。どうか、パリスまでご同行願いたいのですが……」
彼はゆっくりとドアまで歩き、それを開くと、数人の警官が逮捕状を持って室内に入り込んで来た……。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。他にも多くの短編作品がありますので、できればそちらもご覧ください。よろしくお願いします。




