クライアント帰り ~告白
涼風が、仕事終わりの火照った頬をやさしく撫でていく。
クライアント先を出たばかりの帰り道。夕焼けに照らされて、アスファルトに伸びる自分の影をぼんやりと眺めながら、彩は今日の打ち合わせを反芻していた。隣を歩く大樹は、いつもより少し無口だ。
「今日は助かりました。あの資料、ほんといい感じでしたよ。クライアントにも好印象でしたし・・・」
はにかむように笑う大樹は、自分より少し背が低い。年下で、普段はどこか人懐っこくて、周りにいつも笑い声が絶えなくて・・・けれど今日は、どこか空気が違っていた。
「・・・彩さん」
不意に名前を呼ばれ、振り向いた瞬間だった。
ぐい、と強い腕に引き寄せられる。
「え・・・?」
背中に回された腕は、強引ではない。
けれど、確実に逃げ道を塞いでいる。
気づけば、大樹の腕の中だった。
一気に顔にまで血液が逆流する。確実に赤面しているであろう顔を隠したくても近すぎてできない。
想像よりもずっと硬く、体温の高い体。若く見えて、男の子だと思っていた認識が一瞬でひっくり返る。男性なんだって。スーツ越しに伝わる体温がじわりと肌に沁みて、彼の鼓動が自分の奥へと流れ込んでくるみたいに重なる。
鼓動が近い。自分の心臓がうるさいのか、彼の鼓動なのか、わからなくなる。
大樹の胸板に触れた指先が、自然に震える。止められない。
「佐藤くん・・・?」
名前を呼んだ声も、思ったより甘く震えた。その震えを、彼はきっと感じ取っている。
夕日に照らされた彼の横顔は、いつもの笑顔とはまるで違う。その喉仏が小さく上下し、まっすぐで、視線は逃げ道を塞ぐように・・・熱い。
「好きです」
低く、はっきりとした声。耳に届いたその響きが、ぞくりと背筋を撫でる。
囁きではないのに、耳の奥が熱くなる。
冗談じゃない。仕事の延長でもない。ただ、まっすぐで真剣な告白。
彩の心臓は大きく跳ねた。
「ずっと前から。多分、最初から。彩さんが笑うたびに、仕事に本気なところを見るたびに、俺、どんどん好きになっていった。だから・・・もっと、ふれたい」
ふれたい――
その言葉が、胸の奥に落ちる。
距離が近い。
彼の吐息が頬を撫でる。
あと少し動けば、唇が触れてしまう。
逃げなきゃ。
そう思うのに、体が言うことをきかない。
「・・・っ」
思わず、大樹の胸を押した。
指先に感じる胸板の硬さ。自分より小さいはず。力だって強くないはず。
なのに・・・びくともしない。
男性なんだったって、更に意識してしまう。
「・・・っ、離して」
そう言ったのに、自分の声が弱い。
大樹の目がわずかに細められる。
「本気で?」
問いかけは静か。でも、逃がさない響き。
心が揺れる。
本気? 本気で、離れたい。そうじゃないとどうにかなってしまいそうだ。
ただ。
年下で単なる同僚だと思っていた彼に、こんなふうに求められている事が、くすぐったくて、熱い。いや違う。少し前から気づいていた。気づかないふりしていただけだ。7センチの身長差と3歳の年齢差に。
大樹の手が、そっと彩の後頭部にまわる。
乱暴じゃない。ただ、視線を合わせるため。
指先が、髪に触れる。柔らかな感触。長い髪が、彼の指の間をすり抜ける。その指は思ったよりも細く、温かい。
視線がわずかに揺れる。視線を合わせられない。
身長差のせいで、彼の顔は少し下にある。見おろしているのに、彼の手の中にいるのは自分の方だった。
手のひらに包まれた頭は、まるで自分の存在そのものが受け止められているかのようで、抗えない甘さに心が蕩けそうになる。そう思うと同時に、ダメだと思う自分もいる。
それでも、手の位置は主導権を握る場所だ。
後頭部に置かれた手のひらが、逃げ道をふさぐ。
乱暴ではない。
けれど、確実に。
「逃げないで」
低く、静かな声。低く、静かで、それでいて少し命令めいた声。
その響きに、彩の胸がぎゅっと締めつけられる。
ほんの少し息を呑んだ瞬間、彼の手が、またゆっくりと後頭部へ回る。指先が、髪を一房すくう。
ゆっくりと撫でる。指先が髪の根元から毛先まで、滑る。
まるで確かめるように、髪の柔らかさを楽しむように。
その動きが丁寧すぎて、彩の心臓が跳ね、頬が熱くなる。手のひらの中で翻弄されている。
「・・・もっと・・・」 思わず零れそうな声を、彩は必死に飲み込む。
声に出せば、自分がこの瞬間から確実に落ちていきそうで、怖い。
後頭部から頬へ。
その動きがやけに丁寧で。
ふれられているのは髪なのに、背筋まで熱が走る。
「・・・綺麗」
耳に届く囁きが、近い。
声に、優しさと支配の混ざった甘さがある。
心のどこかで、この距離、この温度、この指先を、ずっと感じていたいと思ってしまう。
理性では逃げるべき距離だとわかっている。危険。
視線が絡む。
見上げる彼の瞳は、真剣で、甘くて・・・逃げられない。
「嫌なら、ちゃんと拒んでくださいね」
命令のようでいて、選択を委ねる声。逃げられないようにしているのに。
彩は、拒めなかった。
沈黙が、肯定になってしまう。
彼の額が、額に軽くふれる。
「逃げないで、いいの?」
その一言で、膝が少し震える。
大樹の唇が、ほんの少しだけ近づく。
あと数ミリ。
時間が、ゆっくりになる。その瞬間。
ふれる・・・
深くはない。
奪うようでもない。
けれど、確実に心を攫う感触。
ほんの一瞬、柔らかく重なるだけのキス。
「・・・彩さん」
離れたあとも、唇が熱い。
自然に指先も体も震えた。怖い。否、ただ怖いわけじゃない。
大樹の腕に力がこもるわけでもない。ただ、逃がさないという意思だけが、静かに伝わる。
「ねぇ、俺のものになって」
甘いのに、どこか危うい声音。
やっぱり、怖い? 違う。
でも、抗わなければ、今何か言わなければ、何かが変わってしまう気がした。
彩の胸がきゅっと締めつけられる。仕事仲間。同僚。年下。頼れる後輩。そう思っていた相手が、本当にこんな顔をするなんて。気づいていなかったわけじゃない。でも本当だとも思っていない。
曖昧。
胸の奥がじんわり熱くなり、自分の鼓動が耳まで響く。
息が上手く吸えず、心臓は早鐘のように跳ね続け、指先の先まで熱を運ぶ。
彼の瞳が穏やかに揺れていて、その視線が余計に胸の奥を締めつける。
甘く、切なく、そして少し支配的な空気に、彩は自分の呼吸が荒くなっていることに気づいた。
「・・・どうしよう、止まらない・・・」 心の中でそう呟くと、さらに胸が高鳴る。
ふれられた余韻が指先や髪にまで残り、まるで全身が熱に包まれているみたいだった。
逃げたい気持ちと、このまま感じていたい気持ちが入り混じる。
だけど。
このドキドキが、もう少し続いてほしいと願ってしまう自分に気づいた。
怖いのか、嬉しいのか、わからない。
「・・・彩さん」
「今日は、これだけにしておきます」
余裕のある声。
「でも、次はちゃんと覚悟してください」
その言葉に、胸の奥が甘くざわめく。彩は胸元を押さえる。
鼓動は、まだ落ち着かない。
「・・・驚かせてしまったようなので」
ふっと、大樹の腕の力が抜けた。
「返事は、今は聞きません」
そっと、距離ができる。
さっきまでの熱が嘘みたいに、風が二人の間をすり抜ける。それが少し寂しい。寂しいと感じる自分に驚いた。
大樹はいつもの柔らかな笑みを浮かべている。
「でも、逃げないでくださいね。俺、本気なので」
彩は何も言えないまま、また胸元をぎゅっと押さえた。
まだ、鼓動がうるさいのは続いている。
この気持ちに、気づきたくない。矛盾した想いが渦巻く。
夕暮れの街に、二人の影が並んで伸びていた。
読んでくださってありがとうございます(*_ _)
ポイントを入れてもらえると、嬉しいです。




