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クライアント帰り ~告白

作者: 時司 龍
掲載日:2026/02/23

 涼風が、仕事終わりの火照った頬をやさしく撫でていく。


 クライアント先を出たばかりの帰り道。夕焼けに照らされて、アスファルトに伸びる自分の影をぼんやりと眺めながら、彩は今日の打ち合わせを反芻していた。隣を歩く大樹は、いつもより少し無口だ。


「今日は助かりました。あの資料、ほんといい感じでしたよ。クライアントにも好印象でしたし・・・」


 はにかむように笑う大樹は、自分より少し背が低い。年下で、普段はどこか人懐っこくて、周りにいつも笑い声が絶えなくて・・・けれど今日は、どこか空気が違っていた。


「・・・彩さん」


 不意に名前を呼ばれ、振り向いた瞬間だった。

 ぐい、と強い腕に引き寄せられる。


「え・・・?」


 背中に回された腕は、強引ではない。

 けれど、確実に逃げ道を塞いでいる。


 気づけば、大樹の腕の中だった。


 一気に顔にまで血液が逆流する。確実に赤面しているであろう顔を隠したくても近すぎてできない。

 

 想像よりもずっと硬く、体温の高い体。若く見えて、男の子だと思っていた認識が一瞬でひっくり返る。男性なんだって。スーツ越しに伝わる体温がじわりと肌に沁みて、彼の鼓動が自分の奥へと流れ込んでくるみたいに重なる。


 鼓動が近い。自分の心臓がうるさいのか、彼の鼓動なのか、わからなくなる。


 大樹の胸板に触れた指先が、自然に震える。止められない。


「佐藤くん・・・?」


 名前を呼んだ声も、思ったより甘く震えた。その震えを、彼はきっと感じ取っている。


 夕日に照らされた彼の横顔は、いつもの笑顔とはまるで違う。その喉仏が小さく上下し、まっすぐで、視線は逃げ道を塞ぐように・・・熱い。



「好きです」



 低く、はっきりとした声。耳に届いたその響きが、ぞくりと背筋を撫でる。

 囁きではないのに、耳の奥が熱くなる。


 冗談じゃない。仕事の延長でもない。ただ、まっすぐで真剣な告白。


 彩の心臓は大きく跳ねた。


「ずっと前から。多分、最初から。彩さんが笑うたびに、仕事に本気なところを見るたびに、俺、どんどん好きになっていった。だから・・・もっと、ふれたい」


 ふれたい――

 その言葉が、胸の奥に落ちる。


 距離が近い。


 彼の吐息が頬を撫でる。

 あと少し動けば、唇が触れてしまう。


 逃げなきゃ。

 そう思うのに、体が言うことをきかない。


「・・・っ」


 思わず、大樹の胸を押した。

 指先に感じる胸板の硬さ。自分より小さいはず。力だって強くないはず。

 なのに・・・びくともしない。

 男性なんだったって、更に意識してしまう。


「・・・っ、離して」


 そう言ったのに、自分の声が弱い。


 大樹の目がわずかに細められる。


「本気で?」


 問いかけは静か。でも、逃がさない響き。

 心が揺れる。


 本気? 本気で、離れたい。そうじゃないとどうにかなってしまいそうだ。

 ただ。


 年下で単なる同僚だと思っていた彼に、こんなふうに求められている事が、くすぐったくて、熱い。いや違う。少し前から気づいていた。気づかないふりしていただけだ。7センチの身長差と3歳の年齢差に。


 大樹の手が、そっと彩の後頭部にまわる。

 乱暴じゃない。ただ、視線を合わせるため。

 指先が、髪に触れる。柔らかな感触。長い髪が、彼の指の間をすり抜ける。その指は思ったよりも細く、温かい。


 視線がわずかに揺れる。視線を合わせられない。


 身長差のせいで、彼の顔は少し下にある。見おろしているのに、彼の手の中にいるのは自分の方だった。

 手のひらに包まれた頭は、まるで自分の存在そのものが受け止められているかのようで、抗えない甘さに心が蕩けそうになる。そう思うと同時に、ダメだと思う自分もいる。



 それでも、手の位置は主導権を握る場所だ。

 後頭部に置かれた手のひらが、逃げ道をふさぐ。


 乱暴ではない。

 けれど、確実に。


「逃げないで」


 低く、静かな声。低く、静かで、それでいて少し命令めいた声。

 その響きに、彩の胸がぎゅっと締めつけられる。

 ほんの少し息を呑んだ瞬間、彼の手が、またゆっくりと後頭部へ回る。指先が、髪を一房すくう。

 ゆっくりと撫でる。指先が髪の根元から毛先まで、滑る。

 まるで確かめるように、髪の柔らかさを楽しむように。

 その動きが丁寧すぎて、彩の心臓が跳ね、頬が熱くなる。手のひらの中で翻弄されている。


「・・・もっと・・・」 思わず零れそうな声を、彩は必死に飲み込む。


 声に出せば、自分がこの瞬間から確実に落ちていきそうで、怖い。


 後頭部から頬へ。


 その動きがやけに丁寧で。

 ふれられているのは髪なのに、背筋まで熱が走る。


「・・・綺麗」


 耳に届く囁きが、近い。

 声に、優しさと支配の混ざった甘さがある。

 心のどこかで、この距離、この温度、この指先を、ずっと感じていたいと思ってしまう。



 理性では逃げるべき距離だとわかっている。危険。


 視線が絡む。

 見上げる彼の瞳は、真剣で、甘くて・・・逃げられない。


「嫌なら、ちゃんと拒んでくださいね」


 命令のようでいて、選択を委ねる声。逃げられないようにしているのに。

 彩は、拒めなかった。

 沈黙が、肯定になってしまう。


 彼の額が、額に軽くふれる。



「逃げないで、いいの?」



 その一言で、膝が少し震える。

 大樹の唇が、ほんの少しだけ近づく。

 あと数ミリ。

 時間が、ゆっくりになる。その瞬間。


 ふれる・・・


 深くはない。

 奪うようでもない。

 けれど、確実に心を攫う感触。


 ほんの一瞬、柔らかく重なるだけのキス。


「・・・彩さん」


 離れたあとも、唇が熱い。



 自然に指先も体も震えた。怖い。否、ただ怖いわけじゃない。

 大樹の腕に力がこもるわけでもない。ただ、逃がさないという意思だけが、静かに伝わる。


「ねぇ、俺のものになって」


 甘いのに、どこか危うい声音。


 やっぱり、怖い? 違う。

 でも、抗わなければ、今何か言わなければ、何かが変わってしまう気がした。


 彩の胸がきゅっと締めつけられる。仕事仲間。同僚。年下。頼れる後輩。そう思っていた相手が、本当にこんな顔をするなんて。気づいていなかったわけじゃない。でも本当だとも思っていない。

 曖昧。

 胸の奥がじんわり熱くなり、自分の鼓動が耳まで響く。

 息が上手く吸えず、心臓は早鐘のように跳ね続け、指先の先まで熱を運ぶ。


 彼の瞳が穏やかに揺れていて、その視線が余計に胸の奥を締めつける。


 甘く、切なく、そして少し支配的な空気に、彩は自分の呼吸が荒くなっていることに気づいた。

「・・・どうしよう、止まらない・・・」 心の中でそう呟くと、さらに胸が高鳴る。

 ふれられた余韻が指先や髪にまで残り、まるで全身が熱に包まれているみたいだった。

 逃げたい気持ちと、このまま感じていたい気持ちが入り混じる。


 だけど。


 このドキドキが、もう少し続いてほしいと願ってしまう自分に気づいた。

 怖いのか、嬉しいのか、わからない。


「・・・彩さん」

「今日は、これだけにしておきます」


 余裕のある声。


「でも、次はちゃんと覚悟してください」


 その言葉に、胸の奥が甘くざわめく。彩は胸元を押さえる。

 鼓動は、まだ落ち着かない。


「・・・驚かせてしまったようなので」


 ふっと、大樹の腕の力が抜けた。


「返事は、今は聞きません」


 そっと、距離ができる。

 さっきまでの熱が嘘みたいに、風が二人の間をすり抜ける。それが少し寂しい。寂しいと感じる自分に驚いた。

 大樹はいつもの柔らかな笑みを浮かべている。


「でも、逃げないでくださいね。俺、本気なので」


 彩は何も言えないまま、また胸元をぎゅっと押さえた。

 まだ、鼓動がうるさいのは続いている。


 この気持ちに、気づきたくない。矛盾した想いが渦巻く。


 夕暮れの街に、二人の影が並んで伸びていた。



読んでくださってありがとうございます(*_ _)

ポイントを入れてもらえると、嬉しいです。

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