第八話:最凶のハウスキーピング
魔王城から馬車に揺られること数時間。
城下町の喧騒を遠く離れ、光の届かない深い森の奥へ進んだ先に、その屋敷はあった。
『黒百合の館』。
かつて貴族の別荘だったというその建物は、今や見る影もなく荒れ果てていた。
外壁には枯れた蔦が血管のように絡みつき、鉄柵は錆びてひしゃげ、窓ガラスの多くが割れている。
庭の木々にはカラスが群がり、不吉な鳴き声を上げていた。
「……こ、ここだ。どうだ、酷いものだろう」
案内役のヴォルグが、顔をしかめて鼻をつまむ。
普通の人間なら――いや、魔族ですら、この陰鬱な空気には尻込みするだろう。
だが、馬車から降りた俺――ヨリシロの目は、少年のように輝いていた。
「……素晴らしい」
俺はほう、と感嘆のため息をついた。
「見てくれ、クチサケ。あの蜘蛛の巣の配置、実に芸術的だと思わないか? それにあの壊れた窓。風通しが良くて、湿気がよく循環しそうだ」
俺が胸元に話しかけると、シャツの下でクチサケがモゾモゾと動いた。
『……うん。暗い。落ち着く』
『背中も、ゾクゾクする……いい場所』
メリーさんも気に入ったようだ。
俺たちの新居として、これ以上の場所はない。
「本気か……? 本当にここに住むつもりか?」
「ええ、もちろん。ヴォルグさん、素敵な物件を紹介してくれてありがとうございます」
「……礼を言われる筋合いはないが、まあいい。鍵はこれだ。我は帰らせてもらうぞ」
ヴォルグは逃げるように馬車へ戻っていった。
この場所に長居したくないのだろう。賢明な判断だ。ここにはすでに、濃厚な「死の気配」が充満しているのだから。
「さて、と。お邪魔しようか」
俺は錆びついた門を押し開けた。
キィィィィィ……と、油の切れた蝶番が悲鳴のような音を立てる。
玄関までのアプローチは雑草で埋め尽くされているが、テケテケが嬉しそうに足元(俺の足)で蠢いているので、草刈りは彼女に任せればいいだろう。
俺は巨大な両開きの玄関扉に手をかけた。
「ごめんください。新しい家主ですよ」
ギィィ……。
重い扉が開くと、そこには広大なエントランスホールが広がっていた。
埃っぽい空気。カビの匂い。そして、肌にまとわりつくような冷気。
その時だった。
ヒュンッ!
暗闇の奥から、何かが飛んできた。
銀色の閃光。
それは一直線に俺の眉間を目指して――。
ガキンッ!!
「……おっと」
俺の目の前で、金属同士がぶつかる火花が散った。
床に落ちたのは、銀製のナイフ。
そして、それを弾き飛ばしたのは、俺の胸から飛び出した『赤い鋏』だった。
「いきなり熱烈な歓迎だね」
俺が微笑むと同時に、屋敷全体がガタガタと震え出した。
ポルターガイスト現象だ。
壁に飾られた絵画が落下し、奥のダイニングからは皿やフォークが次々と宙に浮き上がり、弾丸のように俺たちへ殺到してくる。
「出て行けェェェ!!」
「殺す殺す殺す殺す……!」
怨嗟の声とともに降り注ぐ凶器の雨。
普通なら悲鳴を上げて逃げ出す場面だ。
しかし、俺の愛する家族たちは、これを「敵意」ではなく「ライバルの出現」と捉えたらしい。
「……ヨリシロに触れていいのは、私だけ」
クチサケが実体化し、赤いコートを翻して前に出る。
彼女が巨大な鋏を一振りすると、飛んできた数百枚の皿が空中で粉々に砕け散った。
「アハハハ! 遅いよぉ!」
続いてテケテケが飛び出す。
彼女は壁や天井を高速で跳ね回り、飛来するナイフやフォークをその鋭い爪で叩き落としていく。
ガシャン! パリン! ドカォォン!
数秒前まで静寂に包まれていたホールは、一瞬にして陶器と金属の破片が散乱する戦場と化した。
全ての凶器が撃ち落とされ、再び静けさが戻る。
「ふぅ。みんな、怪我はないかい?」
俺が声をかけると、クチサケが得意げに鋏をチャキリと鳴らした。
その時。
ホールの中央階段の踊り場に、ゆらりと青白い炎が灯った。
「……なぜ、逃げない」
「おや?」
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
クラシカルな黒いメイド服。長く垂らした髪はボサボサで、顔色は透き通るほど白い。
そして何より特徴的なのは、その細い首にくっきりと残る、紫色のロープの痕だ。
彼女は床から数センチ浮遊し、虚ろな瞳で俺たちを見下ろしていた。
「ここは私の屋敷だ……。生きた人間が入っていい場所じゃない……。出て行かないなら、呪い殺してやる……」
強烈な悪意。
魔王が言っていた「先客」――地縛霊のメイドだ。
彼女の背後から、どす黒い怨念がオーラのように立ち上り、ホールの気温をさらに下げる。
クチサケたちが警戒して殺気を放つ。
だが、俺は違った。
俺は日傘を畳み、パチパチと拍手をしたのだ。
「ブラボー! 素晴らしい!」
「……は?」
メイドの幽霊が、ポカンと口を開けた。
「その登場のタイミング、そして堂々とした『不法侵入者への威圧』。完璧だ! まさにこの屋敷の管理者にふさわしい!」
俺は階段の下まで歩み寄り、彼女を見上げた。
「特にその首のロープの痕……とてもセクシーだね。まるで紫色のチョーカーみたいで、君の白い肌によく似合っている」
「な、何を……言って……」
彼女が動揺して後ずさる。
まさか、自分の死因である痕を褒められるとは思わなかったのだろう。
「初めまして、僕はヨリシロ。今日からここの家主になった者です」
「や、家主……? 認めない……私は認めないぞ……!」
「君は?」
「……シズ。私はシズだ。この屋敷のメイド長……だった」
シズと名乗った彼女は、再び表情を険しくして俺を睨んだ。
「お前たちも、前の持ち主のように発狂させてやる。毎晩枕元に立って、耳元で呪いの言葉を囁いてやるからな!」
普通の人間にとっては最悪の脅しだ。
だが、俺にとっては最高の提案だった。
「本当かい!?」
俺は目を輝かせて身を乗り出した。
「毎晩枕元に来てくれるのか? それは嬉しいな! 実はこの広い屋敷で、寝る時に少し寂しいと思っていたんだ」
「えっ」
「それに、君はこの屋敷のことを誰よりも知っているんだろう? どこの床が抜けやすいかとか、どの部屋が一番呪われているかとか」
俺はシズの手(冷たくて実体のない手)を握りしめようとして、すり抜けた感触を楽しんだ。
「シズさん。僕から提案がある」
「て、提案……?」
「君を正式に、この屋敷の『メイド長』として再雇用したい」
シズの動きが完全に止まった。
背後のクチサケたちからも『エッ?』という驚きの感情が伝わってくる。
「再……雇用?」
「そう。君には引き続きこの屋敷を管理してほしい。もちろん、僕たちを呪ってくれて構わない。むしろ大歓迎だ。その代わり、僕たちの生活をサポートしてほしいんだ」
俺は真剣な眼差しで訴えた。
「僕の妻たちは少し個性的でね。人間の常識が通じないんだ。だから、君のような『立派な怪異』がいてくれると、とても心強い」
「ちょ、ちょっと待て! 私はお前を殺そうとしているんだぞ!?」
「知ってるよ。殺意は愛の裏返しだろ? これから仲良くしていこう」
俺はニッコリと微笑んだ。
シズは口をパクパクさせ、それから頭を抱えた。
「狂ってる……こいつ、完全に狂ってる……」
どうやら、俺の情熱はまだ完全には伝わっていないらしい。
だが、焦ることはない。ここは俺たちの家だ。時間はたっぷりとある。
「さあ、みんな。荷解きをしようか。シズさん、とりあえずお茶を淹れてもらえるかな? 毒入りでも構わないよ」
俺が歩き出すと、シズは呆然と宙に浮いたまま、小さく呟いた。
「……どうなっても知らないからな」
その言葉は拒絶ではなく、困惑と諦めを含んでいた。
こうして、俺たちの新生活は、最凶のハウスキーパーを迎えて幕を開けたのだった。




