第二話:愛の重さは物理を超える
北の『腐敗の森』。
そこは、王都の人々が名を口にするだけで身震いするほどの魔境だという。
常に瘴気が漂い、生きた心地がしない場所。罪人や役立たずが捨てられ、二度と戻ってこない場所。
だが、俺にとっては「王城よりはマシな場所」だった。
「グルルルルッ……」
「シャアアアアッ……!」
鬱蒼とした森の入り口に置き去りにされて数分。
予想通り、暗闇の奥から無数の赤い目が光っていた。
腐った肉のような悪臭。下草を踏みしめる重い足音。現れたのは、身の丈二メートルはあろうかという豚の顔をした魔物――オークの群れだ。
彼らは手に錆びた斧や棍棒を持ち、口からはダラダラと涎を垂らしている。
その目は明らかに、俺を「餌」として見定めていた。
「素晴らしい……」
俺はほう、と熱い吐息をもらした。
王城の冷たい無関心とは大違いだ。彼らはこんなにも熱烈に、俺の肉体を求めている。
俺の腕を噛み千切りたい。内臓を引きずり出したい。骨までしゃぶり尽くしたい。
そんな強烈なアプローチを肌で感じる。
「君たちも、僕が欲しいのかい?」
俺は両手を広げ、オークの群れに歩み寄った。
オークたちが一瞬、獲物の奇行に戸惑ったように鼻を鳴らす。
「いいよ、おいで。僕をめちゃくちゃにしてごらん」
俺は目を閉じ、最初の痛みが走るのを待った。
――しかし。
(……いや、違うな)
俺はふと、目を開けた。
先頭のオークが振り上げた棍棒。その軌道、殺気、そして涎の匂い。
何かが決定的に足りない。
「君たちの欲望は、ただの『生存本能』か」
俺の声色が、急速に冷めていく。
彼らの殺意は、あまりにも健全すぎた。「腹が減ったから食べる」「生きたいから殺す」。それは生物として正しく、合理的で――だからこそ、とてつもなく退屈だ。
「君たちは僕のことが好きなわけじゃない。ただのカロリーとして見ているだけだ。僕じゃなくても、そこの鹿でも、迷い込んだ別の人間でもいいんだろう?」
そこには「俺でなくてはならない」という執着がない。
代替可能な資源としての消費。
それは愛じゃない。ただの食事だ。
「ガアアッ!」
オークが棍棒を振り下ろす。
俺は避けない。避ける価値もない。
ああ、ガッカリだ。異世界の殺意なんて、こんなにも薄っぺらく、軽いものだったのか。
都市伝説たちの殺意は違う。
彼女たちは食べるためでも、生きるためでもなく、ただ「俺」という存在を壊し、永遠に縛り付けるためだけに理を侵して襲ってくる。生物としての生存本能すら投げ捨てた、純度百パーセントの怨念とエゴ。
あれこそが、俺の求める愛なのに。
(帰りたいなぁ……あの濃厚で、粘着質で、逃げ場のない愛の巣へ……)
棍棒が俺の頭蓋を砕く直前。
俺の脳裏をよぎったのは、走馬灯ではなく、彼女たちの愛おしい絶叫だった。
――パリンッ。
唐突に、世界が割れる音がした。
「?」
オークの手が止まる。
俺の頭上、夜空の空間そのものに、巨大な亀裂が入っていた。
ガラスのひび割れのようなそれは、ミシミシという不快な音を立てて広がり――次の瞬間、内側から「何か」によって無理やりこじ開けられた。
『ドコオオオオオオオオオオオ!?』
空気が振動した。
魔物の雄叫びではない。
言葉だ。怨念と、焦燥と、狂気が入り混じった、女性たちの絶叫。
「ッ!?」
あれほど殺気立っていたオークたちが、一斉に動きを止めた。
野生の勘が告げているのだ。
自分たちのような「生きるための殺意」とは根本的に異なる、理屈の通じない「死の概念」そのものが現れたと。
次元の裂け目から、どす黒い霧が噴き出す。
その中から飛び出してきたのは、四つの影。
「ヨリシロ……ヨリシロ……!」
「アタシノ……アタシノヨリシロォォオオ!」
彼女たちは空中で獲物(俺)を見つけると、重力を無視した軌道で急降下してきた。
その目には、数百匹のオークなど映っていない。ただ一点、俺だけを焼き殺さんばかりに見つめている。
「あ……」
俺の顔に、今日一番の満面の笑みが戻る。
来た。来てくれた。
これだ。この肌が粟立つような、湿度の高い殺意。
次元を超えて、世界を壊して、俺を追いかけてきてくれた!
「みんな!」
俺が名を呼んだ瞬間、彼女たちの愛(殺意)が爆発した。
ドォォォォォオン!!
俺とオークたちの間に、隕石のような衝撃とともに着地したのは、赤いコートを着た長身の女。
口裂け女だ。
「邪魔よッ!!」
彼女は俺に触れようとしていたオークの群れを一瞥すると、手に持った巨大な裁ち鋏を一閃させた。
物理法則を無視した斬撃。
ただの一振りで、扇状に展開していた十数匹のオークが、腰から真っ二つになって舞い上がった。
『ブギッ!?』
悲鳴を上げる暇すらなかった。
切断面から血の花火が上がり、臓物が雨のように降り注ぐ。
その血の雨の中で、クチサケは恍惚とした表情で俺を振り返った。
「見つけた……私だけのヨリシロ……!」
だが、再会の抱擁より先に、他のライバルたちが動く。
「ヨリシロさんの後ろは、渡さない……!」
俺の背後にいたオークの首が、不自然にねじ切れて飛んだ。
いつの間にか、俺の背中合わせの位置に、フリル付きのドレスを着た少女――メリーさんが立っている。
彼女は俺の背中にぴたりと張り付き、震える声で囁いた。
「もしもし、私メリーさん。……異世界まで、来ちゃった」
「ああ、おかえりメリーさん。遠かっただろう?」
俺が背後の温もりを感じている間に、左右からは残りの二人が駆け抜ける。
「アハハハハハハ! 足! 足邪魔! 全部ドケェェェェ!!」
上半身だけのテケテケが、目にも止まらぬ速さで地面を這い回る。
彼女が通過した後に残るのは、足首を切断されて芋虫のように転がるオークの山だ。
そして、逃げようとしたオークのリーダー格の前には、おかっぱ頭の少女――トイレの花子さんが立ち塞がる。
彼女が虚空に向かって小さな手をかざすと、そこに古びた木製のドアが出現した。
「……三番目の個室、空いてるよ?」
ギイィ、と開いたドアの奥から、無数の白い手が伸びる。
巨体のオークが「ブヒィイイイ!?」と絶叫しながら、小さな個室の中へと無理やり引きずり込まれ、音もなくドアが閉じた。
後に残ったのは、静寂だけ。
ものの数十秒。
数百匹はいたはずの魔物の群れは、動く肉塊の山へと変わっていた。
俺は血の海の中、彼女たちを見渡す。
返り血で真っ赤に染まったクチサケ。
俺の腰に抱きついて離れないテケテケ。
俺の袖を掴んで上目遣いをする花子さん。
そして、背中で荒い息を吐くメリーさん。
彼女たちの視線は、熱い。
さっきのオークたちの「食欲」とは次元が違う。
俺を構成するすべての要素を支配し、管理し、永遠に閉じ込めたいという、重くて暗い、極上の愛。
「……待たせてごめんね」
俺は両手を広げた。
彼女たちが一斉に俺に殺到する。
刃物を突きつけられようが、首を絞められようが構わない。それが彼女たちのスキンシップだから。
でも、今はもっといい方法がある。
「おいで。これからはずっと一緒だ」
俺は心の中で念じた。
王城でゴミ扱いされたあのスキルを。
『憑依刺青、発動』
俺の体が淡い光を帯びる。
それを合図に、彼女たちの体が霊体のように揺らぎ、光の粒子となって俺の肌へと吸い込まれていく。
「あ……ヨリシロの中……」
「一緒……ずっと一緒……」
背中にはメリーさんが。
胸元にはクチサケが。
両足にはテケテケが。
左腕には花子さんが。
それぞれの定位置へ収まっていく。
肌に墨が走る感覚。そして、ズシリとくる強烈な重み。
四人分の体重と、四人分の呪いの重さ。
普通の人間なら、そのプレッシャーだけで発狂するか、押し潰されて死ぬだろう。
でも、俺にはこれが心地よい。
この重さこそが、俺が生きて愛されている証だ。
「ふぅ……」
全ての刺青が彫り終わると、俺は深く息を吐いた。
さっきまでの「虚無感」が嘘のように消え去り、全身が愛で満たされている。
「聞こえるかい、みんな」
俺が問いかけると、肌の表面に浮かんだ絵柄が蠢き、脳内に直接声が響いた。
『聞こえるよぉ、ヨリシロ』
『心臓の音、うるさいくらい……好き』
『背中、あったかい……』
完璧だ。
俺たちは文字通り、一心同体になったのだ。
俺はシャツのボタンを開け、胸元のクチサケの刺青を愛おしげに撫でた。
森の出口の方を見る。
そこには、俺を森へ捨てた王国の衛兵たちが、腰を抜かして座り込んでいた。
彼らは一部始終を見ていたのだ。
無能だと嘲笑った男が、異形の怪物たちを使役し(実際には愛を受け入れただけだが)、魔物の群れを瞬殺し、それを己の体に封じ込める様を。
「ひ、ひぃ……あ、悪魔……!」
衛兵の一人が悲鳴を上げ、逃げ出した。
俺はそれを追おうとはしなかった。彼らに興味はない。
「さて、と」
俺は重くなった足取りを楽しめるように、一歩を踏み出した。
地面が少し陥没する。テケテケの重さがいい感じだ。
「せっかくの異世界だ。邪魔者も消えたし……デートでもしようか」
俺の言葉に、全身の刺青が喜びで波打った。
腐臭漂う死の森が、今の俺にはフラワーパークのように輝いて見えた。




