第十一話:聖女の慈悲は余計なお世話
『黒百合の館』での生活は、順調そのものだった。
この日、俺たちは広大な屋敷のあちこちで、思い思いの時間を過ごしていた。
テケテケは庭で新たな花壇(という名のクレーター)を作っており、花子さんは二階の廊下を空間ごと掃除中。
キッチンではクチサケが「ヨリシロへの愛妻弁当」を作るべく包丁を振るい、シズ(メイド幽霊)がそれを「毒が足りない」と監修している。
そして俺、ヨリシロは、今日も薄暗い書斎で、カビの生えた古書を読んでいた。
唯一、メリーさんだけはいつもの定位置――俺の背中に張り付いている。
「……平和だなぁ」
窓の外は分厚い雲に覆われ、ジメジメとした湿気が肌にまとわりつく。
この静寂こそが、俺が求めていた幸せの形だ。
――しかし。
その平穏は、唐突に、そして暴力的に破られた。
カッッッ!!!!
突然、窓の外が真昼のように――いや、太陽そのものが落ちてきたかのように白く輝いた。
強烈な閃光。
それがカーテンを透過し、屋敷の隅々まで、あらゆる闇を無理やり抉じ開ける。
「ぐっ……!?」
俺は思わず目を手で覆った。
眩しい。痛い。
ただの光ではない。肌を焼くような、清浄すぎて吐き気を催すような「神聖な気配」。
「なんだ、これ……!?」
俺が状況を理解するよりも早く、屋敷のあちこちから悲鳴が上がった。
『ギャアアアアアアアッ!!』
『熱イ……痛イ……!』
庭からテケテケの絶叫。
キッチンからクチサケの悲痛な呻き声。
廊下からは花子さんの泣き声。
離れている場所にいる彼女たちが、同時に焼かれている。
この光は、屋敷全体を包み込む「浄化の檻」だ。
「みんな! 戻れッ!!」
俺は叫び、即座にスキル『憑依刺青』を発動させた。
俺の呼びかけに応じ、各所から黒い影や赤い霧がものすごい勢いで飛来する。
シュン! シュン! シュン!
窓を突き破り、床をすり抜け、彼女たちが俺の元へ集まる。
テケテケが両足へ、クチサケが胸元へ、花子さんが左腕へ。
光の粒子となって、俺の肌へと緊急避難する。
「はぁ、はぁ……!」
全員収容した。
だが、安堵したのも束の間、俺の全身に激痛が走った。
「ぐぅッ……!」
シャツの下で、刺青たちが赤く発熱している。
俺の体内という「安息の地」に逃げ込んでもなお、この光は容赦なく彼女たちを蝕んでいるのだ。
ダメージは軽減されているが、完全には防げていない。まるで俺の内臓ごと焼かれるような熱さだ。
「ヨ、ヨリシロ様……!」
その時、閉ざされたドアをすり抜けて、シズが転がり込んできた。
いや、壁から転がり落ちてきたと言った方が正しいか。
彼女の状態は深刻だった。
半透明の体はボロボロと崩れかけ、輪郭が維持できなくなっている。
「結界だ……! 屋敷全体が、とんでもない『聖気』に包囲されている……! このままじゃ、私……消えちゃう……!」
「シズ!」
彼女は幽霊だ。刺青として契約しているわけではない。
このままでは蒸発してしまう。
「こっちへ来い! 僕の中に入れ!」
「えっ……でも、私は契約して……」
「いいから入れ! 僕の体が一番安全だ!」
俺はシズの手を掴み、無理やり引き寄せた。
俺の意思にスキルが反応する。
シズの霊体が青白い光に包まれ、俺の空いている『右腕』へと吸い込まれていく。
「あ……」
ズプン、と湿った重みが加わった。
シャツをまくり上げた俺の右腕――花子さんが宿る左腕とは対になるその場所に、紫色のロープが何重にも巻き付いたような、生々しい痣が浮かび上がる。
彼女の死因であり、呪いの象徴でもある『首の痕』が、俺の腕に刻まれたのだ。
これで全員、俺の中に収まった。
「……くそッ、これでもまだ痛むのか」
全員を収納してもなお、彼女たちの苦しみは止まらない。
俺の体を通して、彼女たちの悲鳴が響き続ける。
『熱イ……嫌ダ……消エタクナイ……!』
『ヨリシロ……助ケテ……』
彼女たちが弱っていく。
俺の愛する存在が、理不尽な「正義」によって塗り潰されていく。
俺の思考が凍りつく。
彼女たちが、消える? 俺の前から?
そんなことは許されない。絶対に。
「……誰だ」
俺は立ち上がった。
日傘を掴み、窓の方へと歩き出す。
俺は窓を開け放った。
熱風のような聖気が吹き込んでくる。
眼下の庭園。
そこには、白銀の鎧をまとった騎士団と、その中心で祈りを捧げる一人の少女がいた。
金色の髪、純白の法衣。
彼女が掲げる杖から放たれた光が、巨大なドーム状の結界となって屋敷を覆っているのだ。
少女――聖女アリスは、バルコニーに現れた俺を見上げると、花が咲くような笑顔を向けた。
「見つけました! 可哀想な人!」
彼女の声は、鈴のようによく通った。
だが、俺の耳には耳障りなノイズにしか聞こえない。
「……何をしている?」
俺は低く問うた。
アリスは胸に手を当て、慈愛に満ちた瞳で俺を見つめる。
「安心して、迷える子羊よ! もう大丈夫です! この私が来たからには、貴方を蝕む忌まわしい呪い(あくま)たちを、根こそぎ浄化して差し上げます!」
彼女は本気で言っていた。
一点の曇りもない、純度百パーセントの善意。
彼女にとって、俺は「悪霊に憑かれた被害者」であり、自分の行為は「正義の救済」なのだ。
――ズキン。
俺の胸元で、クチサケが小さく呻いた。
その痛みは、俺の心臓を直接握り潰されるような苦痛だった。
「……蝕む?」
俺の声が震える。
「忌まわしい?」
俺の手が、日傘の柄をミシミシと握りしめる。
「……帰れ」
「え?」
「今すぐこの結界を解いて、僕の敷地から出て行け!!」
俺の怒声に、アリスはきょとんとした。
なぜ怒鳴られたのか理解できていないようだ。
「何を……ああ、やはり! 悪霊に精神まで操作されているのですね! 可哀想に……心まで闇に染まってしまって……」
アリスは悲しげに首を振り、騎士たちに命じた。
「皆さん、彼の肉体を傷つけないように確保してください! その間に、私が元凶である悪霊たちを強制的に『昇天』させます!」
「はっ!」
騎士たちが屋敷の玄関へ向かって走り出す。
アリスは杖を高く掲げ、詠唱を強めた。
「主よ、迷える魂に救済を。邪悪なる闇を焼き払い、聖なる光で満たしたまえ――『聖絶結界』、最大出力!」
カッッッ!!!!
光の強さが倍増した。
屋敷の壁がジジジと音を立てて焦げる。
俺の体内でも、避難したはずのシズやテケテケたちが苦悶の声を上げている。
俺の肉体という防壁ごしでも、この光は彼女たちを焼き殺そうとしているのだ。
プツン。
俺の中で、何かが焼き切れた。
「……いい加減にしろよ、偽善者が」
俺は日傘を放り捨てた。
もう、防御なんて必要ない。
俺はバルコニーの手すりに足をかけ、そのまま光り輝く庭へと飛び降りた。
「!?」
アリスが驚いて目を見開く。
俺は地面に着地すると、膝をつくこともなく立ち上がり、彼女の方へと歩き出した。
結界の中は、高密度の聖気で満たされている。
普通の魔物なら即死、呪われた人間なら激痛で動けないはずの空間だ。
肌がチリチリと焼けるような感覚がある。不快だ。吐き気がする。
だが、そんなものは痛みに入らない。
彼女たちが感じている苦しみに比べれば、こんな光など、そよ風にも劣る。
「ど、どうして……? この結界の中で、動けるはずが……」
アリスが後ずさる。
彼女の想定にはなかったのだろう。呪われた人間が、自らの意思で「救済」を拒絶し、聖なる領域を歩いてくるなんてことは。
「君は言ったな。『救済』と」
俺は一歩ずつ、確実に距離を詰める。
騎士たちが慌てて剣を抜くが、俺の気迫に圧されて動けない。
「君がやっていることは救済じゃない。ただの押し売りだ」
「な、何を……私は貴方を助けようと……!」
「助ける? 誰を? 僕をか?」
俺はアリスの目の前まで歩み寄り、その綺麗な顔を睨みつけた。
俺の瞳には、かつてないほどの暗い炎が宿っていた。
「君は今、僕の家族を殺そうとしている。僕の最愛の妻たちを『汚らわしい』と罵り、消そうとしている」
俺は胸元の焦げたシャツを掴み、引き裂いた。
そこにあるクチサケの刺青を、誇らしげに見せつける。
刺青は赤くただれ、痛々しい姿になっていたが、それでも俺にとっては世界一美しい刻印だ。
「見ろ。これが僕の愛だ。君の薄っぺらい信仰なんかより、ずっと重くて、深くて、美しい絆だ」
「ひっ……!」
アリスは息を呑んだ。
目の前の男は、操られているのではない。
自らの意思で、狂気を選んでいる。
その事実に気づいた時、彼女の中で何かが揺らいだ。
「……ありえない。そんなの、間違ってます! 人と魔が愛し合うなんて……ましてや、そんな禍々しい怨念を愛するなんて!」
「間違っているかどうかは、僕が決める」
俺は右手を振り上げた。
暴力ではない。拒絶の意思表示だ。
「僕の幸福に、指一本触れるな」
俺の激昂。
それは、弱っていたはずの彼女たちに、爆発的な活力を与えた。
愛する夫が、自分たちのために神(聖女)へ牙を剥いたのだ。
その事実に、彼女たちの怨念(愛)が再点火する。
『……ヨリシロヲ、イジメルナ』
俺の体から、黒い霧が噴き出した。
聖なる光を塗り潰すほどの、漆黒の闇。
「さあ、反撃だ。……この失礼な訪問者に、本当の『礼儀』を教えてやろう」
俺の言葉とともに、結界に亀裂が入った。




