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第十話:噂は千里を走る



 『黒百合の館』に、奇妙な平穏が訪れていた。

 壊れた窓は修復され(テケテケが持ってきた木材で)、荒れ放題だった庭は整地され(更地になり)、廊下の埃は一つ残らず消滅(異界送り)していた。


 朝日が差し込まない、鬱蒼とした森の奥。

 ダイニングルームで、俺――ヨリシロは優雅なティータイムを楽しんでいた。


「……旦那様。本日のモーニングティーでございます」


 そう言ってティーカップを置いたのは、透き通るような白い肌を持つメイド、シズだ。

 彼女は無表情のまま、ポットからドロリとした紫色の液体を注ぐ。


「ありがとう、シズ。……うん、いい香りだ」

「トリカブトとマンドラゴラの根を煮詰めました。一口飲めば全身が麻痺し、二口目で呼吸が止まる特製ブレンドです」

「素晴らしい」


 俺は迷わずカップを口に運んだ。

 喉を焼くような刺激。舌がビリビリと痺れ、視界が一瞬歪む。

 普通の人間なら即死レベルの猛毒だ。だが、俺の体には最強の都市伝説たちが宿っている。彼女たちの強大な霊力が、肉体的な毒など瞬時に中和してしまうのだ。

 残るのは、スパイスのような心地よい刺激だけ。


「ふぅ……。ピリッとして目が覚めるね。最高の隠し味(殺意)だ」

「……チッ。今日も生きてるか」


 シズが悔しそうに舌打ちをする。

 これもまた、彼女なりの愛情表現(呪い)だ。


『ヨリシロ、私モ。……キスシテ』

『背中、もっとくっついて……』


 胸元からはクチサケが甘え、背中にはメリーさんが張り付いている。

 テケテケは床下で元気に走り回り、花子さんはトイレ掃除(物理的な消去)に勤しんでいる。


「ああ、なんて幸せな朝なんだろう」


 俺は心からの幸福を噛み締めていた。

 誰にも邪魔されず、愛する家族と、頼れるメイドに囲まれた生活。

 これこそが俺の求めていた安息の地だ。


 ――しかし、俺が知らぬところで、世界は大きく動き出そうとしていた。


 ***


 同時刻、魔王城『パンデモニウム』。

 兵士の詰め所では、ある噂話で持ちきりだった。


「おい、聞いたか? あの『黒百合の館』の噂」

「ああ、あそこに入った人間の男の話だろう? なんでも、あの呪いの屋敷が一晩で鎮まったらしいぞ」

「鎮まったどころじゃねぇよ。夜な夜な、屋敷から楽しげな笑い声と、壁を叩くような轟音が響いてくるって話だ」

「ひぃ……。あの最恐の幽霊メイドすら手なずけたってのか? その人間、一体何者なんだ……」


 魔族たちは震え上がっていた。

 彼らにとって、ヨリシロは「魔王すら一目置く、得体の知れない狂人」として認識されつつあった。

 魔王ゼノンもまた、玉座でワインを揺らしながら愉快そうに笑っていた。


「ククク……。人間どもめ、惜しい逸材を捨てたものよ」


 ***


 一方、人間界。

 ヨリシロを追放した王国の王都では、重苦しい空気が漂っていた。

 王城の作戦会議室。円卓を囲む国王と大臣たちの顔色は、土気色だった。


「……報告は真実か?」


 国王が震える声で問う。

 跪いた伝令兵が、脂汗を流しながら答えた。


「は、はい……。『嘆きの平原』に展開していた我が国の第一師団は……全滅しました。生存者の証言によると、たった一人の男と、彼が使役する『四体の悪魔』によって、瞬く間に蹂躙されたと……」

「馬鹿な! 数千の精鋭だぞ!? それをたった一人で……!」

「その男の特徴は……黒髪で、日傘を差しており、全身に不気味な刺青があったそうです」


 ガタンッ!

 国王が椅子を蹴倒して立ち上がった。


「そ、それは……あの時、追放した『無能』ではないか!」


 記憶が蘇る。

 魔力ゼロ、スキルは収納のみ。そう鑑定された男。

 だが、あの時、男は言っていた。『魔物が出るなら退屈しなそうだ』と。

 あれは強がりではなく、余裕の表れだったのか。


「なんてことだ……。我々は、とんでもない怪物を敵に回してしまったのかもしれん……」

「へ、陛下! どうなさいますか!? このままでは、奴が魔王軍の先兵となって攻め込んでくるかもしれません!」


 大臣たちが騒ぎ立てる。

 国王は脂汗を拭い、決断を下した。


「……浄化だ」

「は?」

「奴は、おそらく強力な悪霊に取り憑かれているのだ。正気を失い、操られているに違いない。ならば、その元凶である悪霊を祓えば、奴は無力化できるはずだ」


 国王は自分に都合の良い解釈をした。

 自分たちが捨てた男が、自らの意思で敵対しているとは認めたくなかったのだ。


「呼べ! 我が国が誇る、至高の法力を持つ者を! 『聖女アリス』をここへ!」


 ***


 王都の大聖堂。

 ステンドグラスから差し込む七色の光の中、一人の少女が祈りを捧げていた。

 金色の髪、慈愛に満ちた碧眼。純白の法衣に身を包んだその姿は、まさに天使のようだった。

 聖女アリス。

 生まれながらにして強大な聖なる力を持ち、数多のアンデッドを浄化してきた、王国の希望。


「……アリス様。国王陛下からの勅命です」


 神官が恐る恐る告げる。

 アリスはゆっくりと振り返り、穏やかに微笑んだ。


「魔王の領土に、強大な呪いを身に宿した哀れな男性がいる……と?」

「は、はい。その呪いのせいで、彼は正気を失い、多くの兵士を傷つけているそうです」


 神官の説明に、アリスの碧眼が悲しみで潤む。


「なんて可哀想な……。悪霊に心身を乗っ取られ、操られているのですね」


 彼女は胸の前で手を組んだ。

 そこには一点の曇りもない、純粋すぎる善意があった。

 彼女は疑わない。

 世の中には「悪意ある霊」と「被害者である人間」しかいないと信じているからだ。

 まさか、人間の方が悪霊を愛し、喜んで共存しているなどとは、夢にも思わない。


「分かりました。私が参ります」


 アリスは立ち上がり、聖杖を手に取った。

 その全身から、眩いばかりの聖なる光が溢れ出す。


「待っていてください、名も知らぬ殿方。この私が、その忌まわしい呪い(きずな)を断ち切り、必ずや救い出してみせます!」


 聖女の決意。

 それはヨリシロにとって、魔王軍や盗賊など比較にならない、最大最悪の「脅威」の幕開けだった。

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