第一話:愛の巣からの強制退去
ジリリリリリリリ!!
深夜二時。静まり返った部屋に、昭和初期の黒電話のようなけたたましいベルの音が響き渡る。
普通の人間なら、この時間に非通知の電話が鳴り響くこと自体に恐怖を覚えるだろう。だが、俺――ヨリシロにとっては、これは至福の音色だ。
(ああ、また掛けてきてくれた……)
俺は洗面所から濡れた手で飛び出し、受話器を取った。
「はいはい、待ってたよ」
『……私、メリーさん。今、アパートの入り口にいるの』
受話器の向こうから聞こえるのは、ノイズ混じりの、それでいて鈴を転がしたような少女の声。
俺は頬を緩め、愛おしげに受話器を撫でる。
十分おきに居場所を報告してくるなんて、どれだけ俺のことが好きなんだろう。彼女は一秒たりとも、俺を意識の外に置きたくないのだ。その束縛が、たまらなく心地よい。
「おかえり、メリーさん。外は寒かっただろう? 玄関の引き戸、建て付けが悪いから無理に開けちゃ駄目だよ。僕が開けるから、ドアの前で待ってて」
『……うん。……ガチャ』
通話が切れる。
俺は満足げに受話器を置くと、急いで玄関へ向かおうと振り返った。
だが、その鼻先――至近距離に、いつの間にか腰まで伸びた黒髪の女性が立っていた。
彼女は俺の視線を逃さないように、つけていた大きなマスクをゆっくりと外した。
「……私、きれい?」
耳元まで裂けた口。剥き出しになった歯茎と、とめどなく滴る鮮血。
洗面所から俺を追ってきた彼女――口裂け女だ。
巨大な裁ち鋏をカチカチと鳴らし、俺の逃げ道を塞ぐ。
その瞳は血走っており、俺以外を映す気配がない。その強烈な「独占欲」に、俺の心臓は高鳴った。
「ああ、きれいだよ。今日も最高だ」
俺は迷わず答え、玄関へ行こうと足を動かす。
だが、彼女は執拗にその顔を近づけてくる。手にした鋏の切っ先を、俺の喉元に突きつけながら。
「……これでも?」
クチサケが、さらに大きく口を開き、俺の行く手を遮る。
俺は恍惚としたため息をついた。
彼女は俺を切り裂きたくてたまらないのだ。俺を自分と同じ姿に変えて、永遠に自分のものにしたいという情熱。殺意という名の求愛。
俺は乱れた彼女の前髪を手櫛で直した。
「うん、世界で一番美しい。愛してるよ、クチサケ。君は僕を切り裂きたいくらい愛してくれているんだね」
「…………ポマード」
「トリートメントだよ。あとでちゃんと髪、サラサラにしてあげるから。……ちょっとだけ通してくれるかな? メリーさんを迎えに行かないと」
俺が視線を外そうとした瞬間、クチサケの殺気が膨れ上がった。嫉妬だ。最高だ。
足元を見れば、高速で床を這い回るテケテケが「足ちょーだい、足ちょーだい」と俺の足首を掴んで離さない。俺の足を奪って、どこにも行けないようにしたいのだ。
トイレの方からは花子さんがドンドンドンドン! と激しくドアを叩いて俺を呼んでいる。
ここは築四十五年の木造アパート。家賃一万五千円の、いわゆる『特級事故物件』。
だが、愛に飢えた俺にとっては、ここだけが世界で唯一、俺が必要とされている場所だ。
みんなが俺を見ている。みんなが俺を狙っている。
「さて、メリーさんを待たせちゃ悪い」
俺が改めて玄関へ向かおうとした、その時だった。
ブゥンッ!
床に幾何学模様の光が走った。
蛍光灯の明かりとは違う、青白い燐光。それが俺の足元を中心に、円を描くように展開する。
「……魔法陣?」
見覚えはないが、知識としては知っている。
ライトノベルやアニメでよく見る、異世界召喚の予兆だ。
「待ってくれ」
俺はとっさに叫んだ。
ここから引き剥がされる? 俺を求め、俺を殺そうとしてくれる彼女たちから?
「嫌だ! 俺は行かないぞ! ここは俺が愛されている証拠なんだ! 誰も俺を見てくれない世界なんて行きたくない!」
俺の体は光の粒子に包まれ、重力を失い始める。
それを察知したのか、部屋中の空気が凍りついた。
『ヨリシロオォオオォオ!!』
『逃ガサナイ! アタシノ!』
クチサケが巨大なハサミを振り上げ、テケテケが床を砕きながら跳躍する。
彼女たちの顔は、獲物を奪われそうになった猛獣そのものだった。怒りと絶望、そして底なしの執着。ああ、なんて愛おしい。
「みんな……!」
俺も手を伸ばす。
だが、その指先が触れ合う寸前、世界はホワイトアウトした。
最後に聞こえたのは、鼓膜をつんざくような彼女たちの絶叫だった。
***
次に目を開けた時、そこは冷たい石畳の上だった。
鼻をつくのはカビと埃、そして微かな香の匂い。
見上げれば、高い天井と、ステンドグラスから差し込む月明かり。そして、煌びやかなローブや鎧を身にまとった数十人の人間たちが、俺を取り囲んでいた。
「成功だ……! 勇者召喚は成功したぞ!」
白い髭を蓄えた老人が、杖を掲げて歓喜の声を上げる。
俺はゆっくりと上半身を起こした。
周囲を見渡す。西洋ファンタジー風の王城。間違いなく異世界だ。
だが、俺の心を満たしたのは、圧倒的な「虚無感」だった。
「……誰も、俺を見ていない」
周囲の人間たちは、俺を「勇者」という機能として見ているだけだ。
俺の肉体を欲したり、内臓を引きずり出したいほどの情熱を向けたり、背後からじっと見つめたりしてこない。
視線が軽い。空気が薄い。
殺意がない空間が、これほどまでに孤独だなんて。
「おお、勇者よ! よくぞ参った!」
王冠を被った太った男――国王らしき人物が、玉座から身を乗り出した。
「我が国は今、魔王軍の脅威に晒されておる。其方の力で世界を救ってほしいのだ!」
「帰してくれませんか」
「え?」
「今すぐ帰してください。メリーさんが玄関の前で待ってるんです。僕が開けてあげないと、彼女の『私を受け入れて』という想いに応えられない!」
俺の真顔の訴えに、玉座の間がざわつく。
国王は咳払いをし、気まずそうに視線を逸らした。
「そ、それは不可能だ。魔王を倒さぬ限り、元の世界へ戻る術はない」
「……そうですか」
最悪だ。
俺は深いため息をついた。
ここには愛がない。俺に向けられる、ねっとりとした執着がない。まるで砂漠に放り出された気分だ。
「まずは『ステータス鑑定』だ! 水晶に手を!」
神官に促され、俺は無気力に水晶玉へ手をかざした。
ボン、と水晶の中に文字が浮かび上がる。
【名前】ヨリシロ
【種族】人間(異世界人)
【LV】1
【魔力】0
【体力】5
【スキル】憑依刺青
・効果:対象を皮膚上の絵画として収納する。
・補正:なし。
静寂。
さっきとは違う、失望の静寂が場を支配した。
「……なんだ、これは」
国王の声が低くなる。
「魔力ゼロ。体力は農民以下。そしてスキルは……収納? しかも生き物を絵にするだけ? ステータス補正もなしか?」
神官たちが慌てて分厚い書物をめくる。
「へ、陛下! 過去の文献にもこのようなスキルは……! 通常、勇者には『聖剣』や『無限魔力』が与えられるはずですが……これは……」
「つまり、ハズレか」
国王が冷酷に吐き捨てた。
周囲の視線が、期待から侮蔑へと変わる。
さっきまで俺を勇者と呼んでいた者たちが、今はゴミを見るような目で俺を見ている。
「異界から呼び寄せておいて、役立たずとはな。追放だ。即刻城から叩き出せ」
「えっ、でも元の世界には……」
「戻せぬと言っただろう! 役立たずのために使う魔力などない! 北の『腐敗の森』へ捨てておけ。魔物の餌にすれば、少しは役に立つだろう」
あまりに一方的な判決。
衛兵たちが俺の両腕を乱暴に掴み上げる。
普通の人間なら、ここで泣き叫んで命乞いをするだろう。あるいは激昂するか。
だが、俺は違った。
(腐敗の森……魔物の餌……?)
その響きに、俺の心がピクリと反応した。
魔物の餌になるということは、魔物たちは俺を「食べたがる」ということだ。
俺の肉を求め、血を啜ろうと群がってくる。
それは、この無関心な城の連中より、よほど「熱烈」なんじゃないか?
俺の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
「……ありがとうございます」
「あ?」
衛兵が気味悪そうに俺を見る。
「ここよりはずっとマシそうだ。僕を求めてくれる存在がいるなら、たとえ化け物でも構わない」
「こ、こいつ……正気か?」
「早く連れて行ってください。ここは寒すぎる。誰の視線も感じないなんて、死んでいるのと同じだ」
俺は自ら進んで出口へと歩き出した。
背後で国王たちが「狂っている」と囁き合っているのが聞こえる。
彼らは知らないのだ。
本当の孤独とは、誰からも狙われないことだということを。
そして、本当の愛が、次元を超えて追いかけてくることを。
俺は自分の左腕をさする。
いつもならここに、俺を異界へ引きずり込もうとする花子さんの冷たい手の感触があるはずなのに。
「……早く会いたいな、みんな。僕を殺したくなるくらい、愛してほしい」
城の重い扉が開く。
夜風が吹き込んできた。
その風の向こうで――空が、ガラスのように「ピキリ」と音を立ててヒビ割れたのを、まだ誰も気づいていなかった。




