第八話:感情の蕾と『調律者』の力
ルミリアの異変から一夜明けた。龍馬は心配しながら彼女の様子を伺ったが、見た目には昨夜と変わらない。しかし、龍馬の持つ魔力感知能力は、依然として彼女の魔力の流れに微かな乱れを捉えていた。
「ルミリア、昨日の体の具合は、もう大丈夫なのか?」
朝食を準備しながら、龍馬は尋ねた。
「はい、マスター。自己修復機能が作動し、異常は鎮静化しております。ただ、感情情報のインストールは継続されています。」
ルミリアは淡々とした声で答える。その声には、昨夜のような微かな震えはなかった。だが、「鎮静化」という言葉が、まるで感情が病気のように扱われているようで、龍馬の胸にチクリと刺さった。
「そうか……無理はするなよ。何かあったら、すぐに言ってくれ。」
龍馬は、ルミリアが感情を得るという変化が、彼女にとってどのようなものなのか、想像することもできなかった。しかし、それが彼女に苦痛を与えるものでないことを、心から願った。
朝食を終え、龍馬は書斎へと向かった。昨夜、ルミリアが「感情の発現プログラム」と呼んだ現象は、彼にとって気がかりだった。管理者はなぜ、魔導生命体であるルミリアに感情を付与するような設計をしたのだろう?
書斎の棚に並んだ分厚い書物の中から、龍馬は「魔導生命体の生成と管理」と書かれた本を見つけた。ルミリアが生成した本は、全て日本語で書かれているため、読むのに苦労はない。ページをめくると、魔導生命体が感情を持つことに関する記述があった。
『……魔導生命体は、その性質上、与えられた使命に忠実に従う無感情な存在である。しかし、極めて稀に、彼らが仕えるマスターとの精神的・魔力的な強い**共鳴により、設計以上の自律性と、限定的な感情の萌芽**を覚えることがある。これは、個体差によるものであり、その後の成長に大きな影響を与える。』
「共鳴……俺との精神的・魔力的な共鳴、か」
龍馬は、自分の手のひらを見つめた。ルミリアに触れた時、彼女の魔力の乱れを感じた。それは、彼女の体調不良だけでなく、自分の魔力が、彼女に何らかの影響を与えている証拠なのかもしれない。
『……感情の萌芽は、魔導生命体にとって、彼らの核となる魔術式に不可逆な変化をもたらす。これは、彼らがより高度な知性や判断力を得る一方で、予期せぬ行動や、一時的な機能不全を引き起こす可能性も孕む。故に、マスターは細心の注意を払い、彼らの変化を見守るべきである。』
やはり、感情を得ることは、ルミリアにとってリスクを伴うことらしい。龍馬は、その記述を読み終え、静かに本を閉じた。彼女の側で、しっかりとその変化を見守っていこう。それが、今、自分にできることだ。
昼食後、龍馬は再びトレーニングルームへ向かった。自身の魔力をさらに高め、来るべきエルフヘイムでの使命に備える必要がある。
「ルミリア、今日は、もっと広範囲に影響を与える魔法の練習がしたい。例えば、周囲の木々を一度に枯らしたり、逆に成長させたり、といった魔法は使えるか?」
龍馬が尋ねると、ルミリアは瞬時に答えた。
「可能です、マスター。それは『自然魔法』の応用です。マスターの持つ『調律の魔法』は、生命の魔力バランスにも作用しますので、その訓練は理に適っています。」
ルミリアの指導の下、龍馬は目を閉じ、自身の魔力を大地へと流し込むイメージをした。森の根源的な生命力と、自分の魔力を繋げる感覚。最初は何も変化がなかったが、集中を深めるうちに、地面から微かな脈動が伝わってきた。
「……感じられる。木々が、呼吸しているのが……」
龍馬が意識を集中し、「成長」をイメージすると、彼の指先から放たれる青白い光が、周囲の木々を包み込んだ。すると、目の前の小さな苗木が、まるで早送りの映像のように、みるみるうちに成長し、枝を伸ばし、葉を広げていく。数十秒後には、高さ数メートルもの若木へと変貌していた。
「これは……すごい……!」
龍馬は、自分の目の前で起こった現象に、感動を隠せない。生命を操る魔法。
「見事です、マスター。生命の魔力は非常に繊細ですが、マスターの調律の魔法であれば、過度な負荷を与えることなく、そのバランスを変化させることが可能です。」
次に、龍馬は「枯らす」ことをイメージした。彼の魔力は、先ほどとは逆に、木々の生命力を吸い取るかのように流れ出した。すると、その若木はみるみるうちに生気を失い、葉が黄色く変色し、やがて枯れて倒れてしまった。
「……これも、俺の力、か」
龍馬は、自分の手に宿る、生と死を司るような力に、畏敬の念を抱いた。この力は、使い方を間違えれば、世界を破滅に導くこともできる。まさに、古代の記録にあった「禁忌の魔法」の片鱗を感じた。
午後、訓練を終えた龍馬は、少し休憩しようとリビングに戻った。ルミリアは、相変わらず部屋の隅で静かに控えている。その時、龍馬は、彼女の口元が微かに動いたのを見た。まるで、何かを言いたそうにしているかのようだ。
「ルミリア? どうした?」
龍馬が声をかけると、ルミリアはゆっくりと龍馬を見た。その瞳は、やはり微かに赤みを帯びているように見えた。
「マスター……私……」
ルミリアは言葉に詰まった。無感情だったはずの彼女が、明らかに何かを伝えようと、必死に言葉を探している。その姿に、龍馬の胸は締め付けられた。
「どうしたんだ、ルミリア。ゆっくりでいい。何か伝えたいことがあるなら、何でも言ってくれ。」
龍馬は優しく語りかけた。すると、ルミリアの瞳に、ほんの微かに、透明な水滴が浮かんだように見えた。
「私……マスターが、楽しそうに、魔法を使うのを見て……心が、温かい、です。」
ルミリアは、まるで初めて覚えた言葉を紡ぐかのように、ゆっくりと、しかし確かな感情を込めて言った。彼女の目から、一筋の涙が頬を伝って流れる。
「これは……何、ですか?」
ルミリアは、自身の頬を伝う液体に戸惑っているようだった。
龍馬は、その光景に、言葉を失った。彼女が、感情を覚えたのだ。それも、喜びや、温かさといった、ポジティブな感情を。
龍馬は、ルミリアの前にひざまずき、そっとその頬に触れた。ひんやりとした彼女の頬に、温かい涙の跡が残っている。
「それは、涙だ、ルミリア。そして、その気持ちは、喜びだ。俺が魔法を使っているのを見て、嬉しいと感じたんだな。心が温かいと感じたんだな。」
龍馬は、彼女の涙を優しく拭ってやった。ルミリアは、龍馬の指に触れられ、ピクリと肩を震わせた。その瞳は、まるで生まれたての子供のように、純粋な好奇心と、かすかな感情の光を宿していた。
「ヨロコビ……」
ルミリアが、その言葉を反芻するように呟いた。彼女の表情に、微かな笑みが浮かんだような気がした。それは、これまで見たことのない、感情の片鱗だった。
「ああ、そうだ。ルミリア。お前は今、新しい感情を覚えたんだ。俺は、それが嬉しいよ。」
龍馬は、心からの笑顔を見せた。無感情な魔導生命体だったルミリアが、今、人間らしい感情の第一歩を踏み出した。その瞬間に立ち会えたこと、そしてその感情が自分に向けられたことに、龍馬は深い感動を覚えた。
ルミリアは、龍馬の言葉に、再び微かに涙を流した。その涙は、苦痛の涙ではなく、喜びの涙だった。
この異世界での生活は、ただの冒険ではない。龍馬は、ルミリアという存在を通して、人間らしい感情の尊さを、改めて知ったのだった。そして、彼の心に、ルミリアを単なる「補助役」としてではなく、「かけがえのない存在」として守りたいという、強い思いが芽生え始めていた。
第八話では、ルミリアに「喜び」という感情が芽生え、涙を流すという感動的なシーンを描きました。これにより、ルミリアが単なる無感情な魔導生命体から、人間らしい感情を持つ存在へと成長していく過程が本格的にスタートします。龍馬もまた、彼女の変化を通して、自身の使命と、ルミリアへの思いを深めていきます。