第七十六話:無の空間と存在の希求
全ての次元の根源から、記録にない「無」の空間へと転移した龍馬は、目の前に広がる絶対的な静寂と無限の広がりを前に、かすかな緊張感を覚えていた。光も音もなく、何もないはずの空間で、ルミリアの声だけが彼の心に響く。
『マスター……。この次元は……私のデータベースにも……記録されていません……。魔力反応も極めて微弱で……。まるで……何も存在しないかのようです……。』
ルミリアの声には、かつてないほどの戸惑いが混じっていた。彼女の広大な知識をもってしても、この空間は理解の範疇を超えているようだった。
「本当に、何もないな……。だが、何もないということは、始まりでもある。ここに『歪み』があるとしたら、それは一体……」
龍馬は、自身の『調律の魔法』の感覚を研ぎ澄ませた。これまでの旅で、彼は様々な「歪み」を調律してきた。破壊、忘却、抑制、そして混沌。しかし、この「無」の空間で、彼は何を探し出せば良いのだろうか。
彼の心が、この絶対的な無の中で、微かな「希求」の波動を感じ取った。それは、何かを「求める」純粋な願い。しかし、その願いはあまりにも微弱で、今にも消え入りそうだった。
『マスター! 極めて微弱ですが、『存在』を求める魔力反応を感知しました! しかし、その源は特定できません。まるで、この空間そのものが求めているかのようです!』
ルミリアが、緊迫した声で報告した。
龍馬は、その微かな波動がする方向へと、ゆっくりと歩みを進めた。彼の足元には、何もない。しかし、彼は、その微かな「希求」の波動が、彼の行く先を示していると信じていた。
どれほどの時間が流れただろうか。この「無」の空間では、時間の感覚すら曖昧になる。龍馬は、ただひたすらに、その微かな波動を追い続けた。
すると、彼の目の前に、これまでとは異なる、微かな「光」が瞬いた。それは、指先の光よりも小さく、今にも消え入りそうな、儚い光だった。しかし、その光からは、確かに「存在」の意思が感じられた。
龍馬が光に近づくと、その光は、まるで彼を待っていたかのように、微かに震え、そして、一つの声が彼の心に直接響いた。
「……我は……『無』……。全てを……内包し……全てを……拒絶する……存在……。」
声は、性別も感情も持たない、純粋な「概念」のような響きだった。
『マスター! この声は、この次元の『意志』そのものです! 彼らは、自らを『無』と定義し、新たな『存在』を拒絶しています!』
ルミリアが、その存在の正体を告げた。この次元の歪みは、自らを「無」と定義し、新たな存在が生まれることを拒んでいるのだ。
「なぜ、拒絶する? なぜ、何も生まれることを許さないんだ?」
龍馬は、光に問いかけた。
「……存在は……『苦しみ』を生む……。『争い』を生む……。『虚無』に還ることが……真の『安寧』……。」
「無」の声は、過去の次元で彼が経験した「破壊」や「沈黙」の歪みと似たような、苦しみへの認識を語っていた。しかし、その根源は、全てを「無」へと回帰させようとする、より根源的なものだった。
『マスター! 『無』の歪みは、過去の次元で生じた全ての『負の感情』が、『概念』として凝縮されたものです! 彼は、無限の次元の裏側で、全ての存在を『虚無』へと誘おうとしています!』
ルミリアが、この次元の歪みの本質を解析した。この「無」は、無限の次元で生まれた全ての負の感情の集合体であり、それが一つの「概念」として具現化したものなのだ。
龍馬は、光へと手を伸ばした。彼の体から、温かい『生命』の魔力が放たれる。
「そんなことはない! 存在は、希望を生む! 喜びを生む! 『苦しみ』があるからこそ、『喜び』の価値が分かるんだ!」
龍馬は、自身の全ての感情を込めて、「無」へと語りかけた。彼の言葉は、金色の光となって「無」の光へと深く浸透していく。
「……光……? 我は……もう……それも……知らぬ……。」
「無」の声は、わずかに動揺した。彼は、あまりにも長い間、「無」の中に存在しすぎたために、「光」や「希望」といった概念を忘れ去っていたのだ。
龍馬は、さらに深く、自身の『調律の魔法』を「無」へと流し込んだ。金色の光が、「無」の光を包み込み、その『拒絶』と『虚無』を、自身の『創造』と『可能性』の感情で満たしていく。
「お前は、もう一人じゃない。俺が、お前と共に、新たな『存在』を、この『無』の空間に生み出してやる!」
龍馬の言葉は、「無」の核へと深く浸透していく。「無」の光は、その『拒絶』を解き放つかのように、輝きを増し始めた。
そして、「無」の光は、龍馬の掌へと吸い込まれていった。それは、まるで、この絶対的な「無」の概念が、龍馬の存在を認め、その一部となったかのようだった。龍馬の全身に、無限の『可能性』の魔力が満ち渡り、彼の体は、金色の輝きを放ち始めた。
『マスター! 調律完了です! 『無』の歪みは、完全に浄化されました!』
ルミリアの声が、感動に満ちて響いた。
その瞬間、「無」の空間に、微かな「揺らぎ」が生まれた。何もないはずの空間に、微細な光の粒が生まれ、ゆっくりと、しかし確実に増えていく。それは、新たな「存在」が生まれつつある兆候だった。
『マスター! この次元に、『生命』の魔力が生まれています! マスターの調律が、新たな次元を創造しています!』
ルミリアが、興奮して叫んだ。
龍馬は、全身の魔力を使い果たし、その場に力なく倒れ込んだ。しかし、彼の顔には、この「無」の次元に新たな「可能性」を生み出せたという、確かな達成感が満ちていた。
彼の旅は、管理者からの使命を終え、彼自身の意志によって、無限の次元へと続いていく。彼は、ルミリアと共に、これからも、世界のどこかで助けを求めている魂を探し、その歪みを調律し続けるだろう。彼の旅は、終わりを知らない。それは、無限の可能性を秘めた、壮大な冒険の物語として、これからも続いていくのだ。そして、彼が創造した新たな次元は、これから、どのような物語を紡いでいくのだろうか。




