第五十九話:幻の森と忘れられた歌声
沈黙の星の調律を終え、管理者からの最後のメッセージを受け取った龍馬は、無限に広がる次元の狭間を再び旅していた。彼の心には、これまでの数々の出会いと別れ、そして何よりも、自身の『調律者』としての成長が深く刻まれている。ルミリアもまた、龍馬の隣で、新たな次元への期待に胸を躍らせている。
『マスター。次の次元の座標を特定しました。しかし、その次元からは、非常に奇妙な魔力反応が観測されています。それは、まるで『幻』のように曖昧で、かつてないほど複雑なパターンです。』
ルミリアの声が、龍馬の心の中で響いた。その声には、彼女もこの未知の次元に対し、どこか戸惑いを感じているのが伺えた。
「幻、か。一体どんな世界が待っているんだろうな。」
龍馬は、その言葉に興味をそそられた。彼の旅は、管理者からの使命を終え、純粋な好奇心と、彼自身の『調律者』としての探求心によって導かれている。
青白い光が彼を包み込み、体が宇宙空間に投げ出されたかのような感覚に襲われる。光が収まると、龍馬の目の前に広がっていたのは、深い霧に覆われた森だった。木々は古く、その枝には、見る者を惑わすかのような、淡い光の粒が舞っている。しかし、その光景は、どこか現実離れしており、まるで夢の中にいるかのようだった。
『マスター。この次元の魔力は、非常に複雑な『幻影』の魔力で構成されています。あらゆるものが、実体と幻影の境界が曖昧な状態です。』
ルミリアの解析に、龍馬は眉をひそめた。全てが幻。それは、これまでのどの歪みとも異なる、捉えどころのない世界だった。
龍馬は、霧深い森の中を進んでいく。足元には、ふかふかの苔が生い茂り、草木が茂っているが、その全てが、触れると消えてしまうかのような、儚い存在だった。
その時、龍馬の耳に、微かな『歌声』が届いた。それは、どこか悲しげで、しかし、深い郷愁を誘うような、美しい歌声だった。
「ルミリア。今の歌声、聞こえたか?」
龍馬が尋ねると、ルミリアは答えた。
『はい、マスター。非常に微弱ですが、確かに『歌声』の魔力反応を感知しました。しかし、その歌声の源は、特定できません。』
龍馬は、歌声が聞こえる方へと向かった。霧はさらに深く、視界はほとんど効かない。しかし、歌声は、彼を導くかのように、はっきりと聞こえてくる。
しばらく進むと、龍馬の目の前に、小さな泉が姿を現した。泉の水は、淡く輝き、その周囲には、見たこともない可憐な花々が咲き乱れている。そして、泉のほとりに、一人の少女が座っていた。
少女は、白い服を身につけ、その髪は、泉の水のように透き通った銀色だった。彼女は、目を閉じ、悲しげに歌を歌っていた。その歌声は、泉の水の流れと共鳴し、森全体に響き渡っていた。
龍馬が少女に近づくと、彼女は歌うのをやめ、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、まるで霧そのもののように、曖昧で、しかし、どこか深い悲しみを宿していた。
「あなたは……誰ですか?」
少女の声は、歌声のように透き通っており、しかし、どこか寂しげだった。
『マスター。彼女の魔力は、この次元の『幻影』の魔力そのものです。そして、彼女が歌っているのは、この次元の『記憶』を具現化した歌です。』
ルミリアが、少女の正体と、彼女の歌の正体を告げた。この少女は、この次元の『幻影』そのもの。そして、彼女の歌は、この世界の忘れ去られた記憶を呼び起こしているのだ。
「俺は、神城龍馬だ。お前は、この森の住人なのか?」
龍馬が尋ねると、少女は悲しげに頷いた。
「はい……。私は、セレネ。この森の……『幻影』です。」
セレネと名乗る少女の言葉に、龍馬はさらに驚いた。彼女は、ただの幻影ではなく、この次元の『幻影』そのものなのだ。
「幻影……。お前が歌っているのは、この世界の記憶なのか?」
龍馬が尋ねると、セレネは悲しげに頷いた。
「はい……。この森は……全てを忘れてしまいました……。だから……私が……歌っているのです……。忘れられた歌を……。」
セレネの声には、深い悲しみと、そして、失われた記憶への郷愁が込められていた。彼女の『幻影』は、この次元の『忘れ去られた記憶』が、具現化したものなのだ。
『マスター。この次元の『ズレ』は、この世界が、自身の『記憶』を失い、全てが『幻』と化していることに起因しています。セレネは、その『忘れられた記憶』を、歌として具現化しているのです。』
ルミリアが、この次元の歪みの本質を解析した。この世界は、自身の過去を忘れ、全てが幻となってしまった。そして、セレネは、その失われた記憶を繋ぎ止めようとしているのだ。
龍馬は、セレネの小さな手を取った。彼女の手は、掴もうとすると消え入りそうなほど儚く、しかし、そこから伝わる『悲しみ』は、確かなものだった。
「大丈夫だ、セレネ。俺が、お前の歌を取り戻してやる。この森の、忘れられた記憶を、お前と一緒に探してやる。」
龍馬は、優しく、そして力強く言った。彼の言葉に、セレネの目に、微かな希望の光が宿った。
彼の『調律者』としての新たな旅は、単なる『歪み』の調律ではない。失われた『記憶』を取り戻し、人々の『歌声』を再び響かせるための、繊細な冒険となるだろう。




