第二話:チート能力の覚醒と島の朝
ひんやりとした朝の空気と、規則正しい波の音が、龍馬の意識をゆっくりと浮上させた。瞼を開くと、見慣れたはずの天井が、どこか違って見えた。昨夜の出来事が夢ではなかったことを悟り、龍馬は大きく息を吐き出す。
「……異世界、か」
思わず口に出すと、部屋の隅から、静かな声が返ってきた。
「はい、マスター。おはようございます。本日は清々しい朝でございます。」
ルミリアだった。彼女は昨夜と同じメイド服姿で、椅子に座ったまま微動だにしなかった。本当に寝ていなかったらしい。その感情の読めない表情に、龍馬は微かに戸惑いを覚える。
「おはよう、ルミリア。……本当に、俺の部屋ごと転移したんだな」
龍馬はベッドから起き上がり、窓に近づいた。昨日と同じ、広がる森と、その先にきらめく海。遠くには、見たこともない雄大な山脈が連なっていた。空には、地球では見ない奇妙な雲が浮かんでいる。
「はい。この部屋の内部は、管理者によって地球での環境が完全に再現されております。水も電気も、地球と同じく供給されていますので、ご安心ください。」
ルミリアの言葉通り、蛇口をひねれば水が出る。トースターのスイッチを入れればパンが焼ける。しかし、外の景色が、それを完全に異世界だと告げていた。
「とりあえず、朝飯にするか。ルミリア、何か食べられるものあるか?」
キッチンに向かいながら尋ねると、ルミリアはすっと立ち上がった。
「もちろんです、マスター。どのような食事がお好みですか? この部屋にある食材は、地球の物と同様にお使いいただけます。また、この世界の食材を魔法で調達することも可能です。」
「え、魔法で調達?」
龍馬は思わず振り返った。
「はい。マスターが希望される食材をイメージしていただければ、私が魔法で創造することが可能です。この部屋の空間は、管理者によって『無限の供給源』と接続されているため、現実に存在するあらゆるものを具現化できます。」
「……マジかよ」
龍馬は呆れたように笑った。そんなことができるなら、食料に困ることはない。無限の供給源、まさにチート能力だ。
「じゃあ、とりあえず、焼きたてのパンと、目玉焼きとベーコン。あと、新鮮な牛乳と、フルーツ盛り合わせ、で頼む」
龍馬が具体的なメニューを口にすると、ルミリアは一瞬目を閉じた。すると、キッチンカウンターの上に、ほんのりと光が宿り、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い始めた。数秒後、ほかほかのパン、完璧な半熟の目玉焼き、カリカリに焼かれたベーコン、冷たい牛乳、そして彩り豊かなフルーツが、瞬く間にテーブルに並べられた。
「おぉ……すごいな。料理する手間が一切ない」
感嘆しながら席に着き、パンを一口齧る。焼きたてで、外はカリッと、中はフワフワだ。味も、地球で食べる高級パンと何ら変わりない。
「マスターにご満足いただけたようで何よりです。」
ルミリアは感情のない声でそう言い、龍馬の対面に座った。もちろん、彼女は食事をする様子はない。
「ルミリアは食べないのか?」
「私は魔導生命体ですので、食事は不要です。マスターの活動を補助するため、エネルギーは管理者から常に供給されております。」
「そっか……」
龍馬は少し寂しさを感じた。一人で食べる朝食は、いつもの日常とあまり変わらない。だが、隣にはメイド服の美少女がいる。それが唯一にして最大の非日常だった。
食事を終え、龍馬は考える。会社に行かなくていい。ノルマもない。上司の嫌味もない。この状況は、社畜だった自分にとって、まさに夢のような現実だ。
「ルミリア、俺がこの世界で、最初に何をすべきか、何か指示はあるか?」
ルミリアは一瞬考え込むように目を閉じた。
「管理者は、マスターにこの世界に適応し、自身の力を理解することを最優先事項としています。そのため、まずはこの島の探索と、マスターの魔法能力の覚醒、そして基礎訓練を推奨します。」
「魔法能力の覚醒と基礎訓練、ね……」
龍馬は昨夜のルミリアの言葉を思い出した。「この世界の者以上に魔法が使えるようになっているはずです。」
「具体的には何をすればいいんだ?」
「マスターの潜在的な魔法能力を覚醒させるには、まず魔力の流れを感じ取ることから始めます。意識を集中し、体内に満ちる未知の力を感じてください。」
ルミリアの言葉に従い、龍馬はソファに深く座り、目を閉じた。意識を体内に集中する。しかし、何も感じない。ただ、漠然とした倦怠感と、腹に残る朝食の満腹感があるだけだ。
「何も感じないが……」
「魔力は、この世界のあらゆる生命体に宿る根源的な力です。地球の人間は、その感覚が希薄になっているだけ。マスターは今、この世界の環境に触れることで、その感覚が研ぎ澄まされていくはずです。」
ルミリアはそう言うと、龍馬の額にそっと指を触れた。ひんやりとした感触が、龍馬の意識をさらに深部へと誘う。すると、体の奥底で、何かが脈動しているような微かな感覚を捉えた。それは、血液の流れとも、呼吸とも違う、不思議な、暖かくも冷たい、形容しがたいエネルギーの塊だった。
「……何か、ある、ような……?」
「それが魔力です。それを意識し、操ることをイメージしてください。最も単純な魔法は、魔力を物体に集め、放出することです。例えば、目の前のテーブルに、指先から魔力を流し込むことをイメージしてみてください。」
龍馬は言われた通りに、目を閉じたまま指先をテーブルに向けた。意識を集中し、体内の脈動する力を指先へと送るイメージをする。すると、指先が微かに温かくなったような気がした。
「……何か、ちょっと熱い、気がする……」
「そのまま、その熱を放出することをイメージしてください。」
龍馬が「放出」をイメージした瞬間、指先から、ほんのりとした青白い光が放たれた。光はすぐに消えたが、確かにそこにあった。
「光った! 今、光ったぞ!」
龍馬は興奮して目を開いた。こんなに簡単に魔法が使えるとは。
「はい。初級の光魔法です。マスターの持つ魔力量は、この世界の一般の魔法使いの比ではありません。訓練を重ねれば、より強力な魔法も容易に習得できるでしょう。」
ルミリアは淡々と告げるが、龍馬の心臓は高鳴っていた。これは、本当に「チート」だ。
「よし、じゃあ次は、もっとこう、ド派手な魔法とか、攻撃魔法とか試してみたい!」
龍馬はまるで子供のように目を輝かせた。今まで、仕事のストレスと疲労に押しつぶされていた日々が、嘘のようだ。
「マスターの望むままに。しかし、まずは基礎の習熟が肝要です。次に、魔力を用いて物体を動かす**念動魔法**の基礎を習得しましょう。部屋の隅にある空のペットボトルを、指先で持ち上げてみてください。」
ルミリアの指示に従い、龍馬はペットボトルに意識を向けた。先ほど感じた魔力の流れを、今度は指先からペットボトルへと伸ばすイメージをする。心の中で、「浮かせ」と強く念じる。すると、ペットボトルが微かに揺れ、フワリと宙に浮いた。
「おおっ!」
龍馬は思わず声を上げた。数センチだが、確かにペットボトルは浮いている。
「素晴らしいです、マスター。その調子で、次は屋外に出て、実践的な訓練を行いましょう。この島は、マスターが自身の能力を最大限に引き出すための、最適な訓練場となり得ます。」
ルミリアの言葉に、龍馬の胸は高鳴った。会社のノルマや、上司の嫌味、満員電車。全てが遠い過去の出来事のように思える。
この異世界で、チートな魔法の力を使って、自由に生きる。
そう考えた瞬間、龍馬の疲弊しきっていた心に、確かな光が灯ったのだった。