第十話:大樹の国と枯れる森
見上げるほどに巨大な樹木。その圧倒的な存在感に、龍馬はただ息を呑んだ。窓の外に広がるのは、紛れもない大樹の国、エルフヘイムの森だった。しかし、どこか淀んだような空気と、木々の間に漂う重苦しい魔力の淀みが、この地の異変を物語っていた。
「ここがエルフヘイム……本当にすごいな」
龍馬の感嘆の声に、ルミリアが静かに隣で頷いた。彼女の瞳は、以前よりも鮮明に、周囲の環境に意識を向けているように見えた。
「マスター。このエリアは、エルフヘイムの森の辺縁部です。樹木の生命エネルギーは全体的に低下しており、魔力バランスも乱れが生じています。古文書に記されていた『樹木の枯死病』の影響が、既にここまで及んでいるようです。」
ルミリアの声には、かすかな懸念が滲んでいた。それは、彼女が「悲しみ」の感情を得てから初めて見せる、新たな感情の片鱗だった。
「やっぱり、俺たちの使命は、この枯死病を止めることなんだな。まずは、この病気について、もっと詳しく知る必要がある。」
龍馬は言った。この部屋は、管理者によって『調律者の拠点』として様々な機能が備わっている。まずは、この場所から情報を収集し、エルフたちとの接触を試みるのが賢明だろう。
「ルミリア、この部屋の機能で、この森の生態系や魔力の流れを詳細に分析できるか? 特に、枯死病の原因となりそうなものを探してほしい。」
「承知いたしました、マスター。この部屋に備わっている『環境解析』機能を使用します。これにより、周囲の生命活動、魔力分布、そして微細な異常までを可視化できます。」
ルミリアが目を閉じ、部屋の壁面に、淡い緑色の光が走り始めた。やがて、光は収束し、リビングの壁が、まるで巨大なホログラムディスプレイのように変化した。そこに映し出されたのは、部屋の周囲の森の立体的な映像だった。
映像には、色とりどりの魔力の光が点滅している。健康な木々は鮮やかな緑色に輝き、生命力に満ち溢れているようだった。しかし、一部の木々は、その輝きが弱く、鈍い灰色に変色している。それが、枯死病に侵されている木々だろう。
「これが枯死病の木か……」
龍馬は壁の映像に目を凝らした。枯死病に侵された木々の周囲には、微かな黒いモヤのようなものが漂っているのが見えた。
「マスター、この黒いモヤは、通常の魔力とは異なる、非常に不純な魔力です。枯死病の原因は、この不純な魔力が木々の生命エネルギーを蝕んでいるためと推測されます。そして、この不純な魔力は、森の深部から流れてきているようです。」
ルミリアが説明する。映像は、その不純な魔力が、森のさらに奥深く、大樹の根元へと続いていることを示していた。
「森の深部……大樹の根元か。そこに原因があるってことだな。」
龍馬は壁の映像を見つめた。エルフたちが住む、エルフヘイムの中心部もその方向にあるはずだ。
「よし、まずは枯死病の木々が集まっている場所に、直接行ってみよう。そこで、俺の『調律の魔法』がどれだけ通用するか試してみる。」
龍馬は立ち上がった。危険が伴うかもしれないが、机上で分析しているだけでは何も始まらない。
「マスター、危険です。不純な魔力に直接触れることは、マスターの身にも影響を及ぼす可能性があります。また、森の奥深くには、より強力な魔物が潜んでいる可能性も否定できません。」
ルミリアが、初めて明確に「危険」という言葉を口にし、龍馬を制止しようとした。その声には、はっきりと「心配」の感情が込められていた。
「大丈夫だ、ルミリア。俺にはお前がいる。それに、この部屋が緊急時にはシェルターになる。最悪の事態になっても、部屋に戻れば安全だ。」
龍馬はルミリアの頭を優しく撫でた。彼女の頬が、微かに赤く染まる。その仕草に、龍馬は彼女が自分を心配してくれていることを改めて実感し、温かい気持ちになった。
「心配してくれて、ありがとうな、ルミリア。でも、俺はやるべきことがある。それに、お前も、この悲しみを癒したいって言っただろう?」
龍馬の言葉に、ルミリアの瞳が揺れた。彼女は、静かに頷いた。
「……承知いたしました、マスター。私の全力で、マスターを護衛いたします。」
龍馬とルミリアは、部屋のドアを開けて、エルフヘイムの森へと足を踏み入れた。
森の奥へと進むにつれて、木々の生命力はさらに衰え、不純な魔力の濃度も高まっていった。空気は重く、ひんやりとした感触が肌を刺激する。鳥のさえずりも聞こえず、森全体が、まるで死の淵にあるかのように静まり返っていた。
「これは……ひどいな……」
龍馬は、枯れかけた大木に手を触れた。表面はひび割れ、内部からは生命力が完全に失われているのが分かった。黒いモヤが、その木の幹にまとわりついている。
「マスター、この不純な魔力は、生命エネルギーを吸収しています。このままでは、エルフヘイムの森全体が死に絶えてしまうでしょう。」
ルミリアが、そのモヤに手をかざし、解析を試みる。その顔には、僅かながら苦悶の表情が浮かんでいた。
「よし、やってみるぞ。俺の調律の魔法で、この不純な魔力を浄化できるか。」
龍馬は、枯れかけた大木に右手をかざした。体内の魔力を集中させ、深呼吸をする。そして、大木の内部に宿る不純な魔力を感知し、それを正常な状態へと「調律」することをイメージした。
青い光が龍馬の手から放たれ、大木へと吸い込まれていく。しかし、その光は、黒いモヤに阻まれるかのように、なかなか内部まで浸透しない。
「くそっ、手ごわいな!」
龍馬は、さらに魔力を集中させた。体中の魔力が、まるで滝のように手から溢れ出し、大木に流れ込んでいく。その魔力の奔流に耐えかねたかのように、大木から黒いモヤが激しく噴き出した。
ブオォォォン……!
その時、森の奥から、不気味な唸り声が響き渡った。同時に、地面が微かに揺れる。
「マスター、危険です! 不純な魔力に引き寄せられ、新たな魔物が出現します!」
ルミリアの声に、龍馬は顔を上げた。森の暗がりから、二体の影が姿を現した。それは、以前島で遭遇したフォレスト・ボアやロックゴーレムとは異なる、禍々しい姿の魔物だった。
全身が黒い粘液に覆われ、不定形に蠢いている。鋭い爪を持ち、その目からは、不純な魔力が赤黒く輝いていた。
「な、なんだあれは!?」
「シャドウ・スライムです! 不純な魔力が凝縮されて生まれた、非常に厄介な魔物です。物理攻撃が効きにくく、接触すると魔力を吸い取られます!」
ルミリアが警告する。シャドウ・スライムは、龍馬たちに狙いを定め、ぬるぬるとした動きで迫ってくる。その粘液からは、腐敗したような、嫌な匂いが漂っていた。
龍馬は、枯死病の木の浄化を中断し、シャドウ・スライムに意識を向けた。
「物理攻撃が効かない……なら、魔法攻撃か!?」
龍馬は、手のひらに魔力を集中させ、炎の魔法をイメージした。しかし、具体的な詠唱も、イメージも湧かない。
「ルミリア、どうすればいい!?」
「マスター、シャドウ・スライムは、純粋な魔力に弱いです! 『光の槍』を発動してください! 魔力を収束させ、槍の形状で放出するのです!」
ルミリアの指示に従い、龍馬は指先をシャドウ・スライムに向けた。体内の魔力を、一点に収束させるイメージ。そして、それを鋭い槍として放出する。
ブオンッ!
龍馬の指先から、眩いばかりの純粋な光の槍が放たれた。光の槍は、一直線にシャドウ・スライムへと突き刺さる。ジュワアア……! と、肉が焼けるような音が響き渡り、シャドウ・スライムの体が、光に触れた部分から、まるで溶けるかのように蒸発していく。
「やった……!」
一体を撃破した龍馬は、手応えを感じた。しかし、もう一体が、すでに目の前まで迫っていた。
「マスター、背後です!」
ルミリアが叫んだ。龍馬は咄嗟に振り返るが、シャドウ・スライムの粘液に覆われた腕が、既に龍馬の体に触れようとしていた。
その瞬間、ルミリアの瞳が強く輝いた。彼女の全身から淡い光が放たれ、その光が龍馬を包み込む。
「マスターを、傷つけさせません!」
ルミリアの無感情だったはずの声に、明確な「怒り」と「守りたい」という強い意思が宿っていた。そして、彼女の光は、シャドウ・スライムへと向けられた。
ギィィィィィ……!
シャドウ・スライムは、ルミリアの光に触れた途端、まるで断末魔の叫びのような音を上げ、一瞬にして完全に蒸発した。その威力は、龍馬が放った光の槍を遥かに凌駕していた。
「ルミリア……お前、今……」
龍馬は呆然とルミリアを見つめた。彼女の瞳は、まだ怒りに燃えているように見えたが、次の瞬間には、いつもの感情のない光に戻っていた。しかし、その顔は、微かに青ざめているように見える。
「ルミリア!? 大丈夫か!?」
龍馬は駆け寄り、彼女の肩を掴んだ。
「……はい、マスター。魔力の過剰な行使により、一時的な機能不全を起こしました。しかし、問題ありません。」
ルミリアはそう言ったが、その声は微かに震えていた。彼女は、龍馬を守るために、自身の限界を超えた魔力を放ったのだ。
龍馬は、ルミリアの行動に、言葉を失った。彼女は、自分を守るために、リスクを顧みず魔法を使ったのだ。それは、単なる「プログラム」による行動ではない。間違いなく、彼女の中に芽生えた「感情」によるものだった。
「ルミリア……ありがとう……」
龍馬は、心からの感謝を込めて、ルミリアの頭を優しく撫でた。
エルフヘイムでの冒険は、始まったばかりだ。しかし、この枯死病、そして新たな魔物の出現は、龍馬とルミリアに、これまで以上の困難と、そして成長をもたらすだろう。そして、ルミリアの感情は、龍馬の心に、この旅が単なる使命ではないことを、強く教えていた。
第十話では、龍馬とルミリアがエルフヘイムに転移し、枯死病の原因が不純な魔力であることを突き止めました。そして、新たな魔物「シャドウ・スライム」との戦闘を通じて、龍馬の魔法の応用力と、ルミリアが龍馬を守るために「怒り」の感情を発現させ、その身を顧みず行動する姿を描きました。これは、彼女が「かけがえのない仲間」へと成長する上で、非常に重要な一歩となります。